怪談

BOA-ヴォア

ちざ

 東北の山深く、凍える霧をぬって辿り着いた廃寺には、かつて乳を祀る神がいた。

 母の乳は、この地では命そのものだった。

 生者は乳で育ち、死者すら乳の力で境を越えると信じられていた。


 民俗学専攻の有馬は、消えた村の信仰の調査のため一人で踏み入った。


 寺の奥、黒ずんだ扉に刻まれた梵字。

 その中央には、女の胸元だけが浮き彫りにされている。

 顔も手も刻まれていない。

 胸だけが、かつて信仰の中心だった痕跡。


 記録文書はこう記す。


 ――乳を晒し、死者に脈を示すこと

 ――その鼓動が弱ければ、死者は帰らず


 幼い乳が摘まれ、乳珠として壺に納められた。

 命を捧げ、死者を祓う風習。

 次第に乳を奪われた母たちは、命の泉を失い亡霊となった。


 その暗がりで、有馬は耳を澄ませた。

 ひとつ、またひとつ、土が崩れる微かな音。


 影が、這い出てくる。


 人ではない。

 四肢が逆に曲がり、乳房がねじれ、口だけが開いた女の骸。

 乳を奪われた「母たち」。


 有馬は必死に文献の一節を思い出した。

 胸を晒し、脈を示すことで、死者はその力の前に退く。


 震える手で服を掴む。

 だが躊躇が喉を凍らせた。


「胸の鼓動を示せ……それが祓い……」


 震えながら衣を解く。

 冷えた空気が胸を刺し、鼓動が露わになる。


 亡霊たちが立ち止まった。


 その黒い眼窩が、有馬の胸の一点を見つめている。

 命の脈。

 奪いたいほど、眩しい光。


 そのとき、有馬は悟った。


 これは祓いではなく、供物だ。


 母たちが喉から求めるのは――乳そのもの。


 胸から何かが抜け落ちる冷たい感覚。

 肉が縮み、血が滲む。


 亡霊たちの口が、赤子のように開く。

 生への渇望が、土の底から響く。


 ――返せ。

 ――奪った命を、返せ。


 最後に見たのは、乳座の中心に立つ、胸のない女神像。

 空虚な胸腔が、有馬の脈を映して脈動した。


 寺が静かに息を吐く。

 床に崩れた有馬の身体の胸元は、平らに潰れていた。


 翌朝、調査隊が発見したのは、白い粉が降り積もった石畳と、

 「乳珠」がひとつ。


 有馬の胸の底から摘まれた、小さな命の結び目だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪談 BOA-ヴォア @demiaoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る