選曲会議

文化祭出演が決定してから三日後、軽音楽部は初めての本格的な選曲会議を開いていた。

「それじゃあ、文化祭で演奏する曲を決めよう」 田中先生が部室の黒板に「文化祭演奏曲目」と書いた。 「時間は約20分。3〜4曲が適当だろう」

五人は円になって座り、それぞれが用意してきた楽譜や資料を広げていた。

「私の提案です」 美月が整理されたファイルを開いた。 「クラシックの名曲をポップスアレンジしたらどうでしょうか」

美月が楽譜を見せると、そこには「カノン」「G線上のアリア」「月光」などの有名な楽曲名が並んでいた。

「クラシック……」 花音が困ったような表情を見せた。 「私、クラシックはよく分からなくて」

「大丈夫です」 美月が説明した。 「ポップスにアレンジすれば、親しみやすくなります。技術的にも高度で、審査員の先生方にも評価していただけると思うんです」

翔太は美月の楽譜を覗き込んだが、複雑なコード進行と高度な技術が要求されているのが一目で分かった。

「美月さん、これは……」 翔太が不安そうに呟いた。

「確かに今は難しいかもしれません」 美月が認めた。 「でも、半年あれば必ず演奏できるようになります」

「ちょっと待ってよ」 花音が手を上げた。 「私は違う意見なの」

花音が自分の資料を広げると、そこには最新のJ-POPやロックの楽曲がリストアップされていた。

「私たちは軽音楽部でしょ?」 花音が熱く語り始めた。 「だったら、みんなが知ってて、一緒に歌えるような曲の方がいいんじゃない?」

「例えば?」 蓮が興味深そうに聞いた。

「『Lemon』とか『マリーゴールド』とか」 花音が指差した。 「観客のみんなが自然と口ずさめるような、親しみやすい曲」

「なるほど」 太一が頷いた。 「確かに盛り上がりそう」

しかし、美月は納得していないようだった。

「でも花音さん」 美月が慎重に言葉を選んだ。 「文化祭は私たちの技術を評価される場でもあります。あまりに簡単な曲では……」

「簡単って」 花音の声が少し尖った。 「別に簡単だから提案してるわけじゃないよ」

部室の空気が微妙に重くなった。翔太は二人の間に挟まれて、どちらの意見も一理あると思った。

「あの……」 翔太が恐る恐る口を開いた。 「両方の意見とも正しいと思うんです」

「どういうこと?」 花音が振り返った。

「美月さんの言う通り、技術的な評価も大切です」 翔太が説明した。 「でも、花音さんが言うように、観客のみんなに楽しんでもらうことも大切だと思うんです」

蓮が冷静に分析した。

「確かに、どちらも重要な観点ですね」 蓮が黒板に立った。 「少し整理してみましょうか」

蓮は黒板に「技術重視」「親しみやすさ重視」と書いた。

「美月さんの提案は確かに技術的に高度で、音楽的な評価は高いでしょう」 蓮が分析した。 「一方、花音さんの提案は観客との一体感を生み出せる」

「そうですね」 美月が素直に認めた。

「でも」 蓮が続けた。 「僕たちの現在の技術レベルを考えると、クラシックのアレンジは相当困難です」

美月の表情が曇った。

「翔太くんのギター技術、太一くんのドラム技術を考慮すると……」 蓮が申し訳なさそうに言った。 「現実的ではないかもしれません」

翔太は胸が痛くなった。やはり自分の技術不足が足を引っ張っている。

「ごめんなさい」 翔太が下を向いた。 「僕のせいで……」

「違います」 美月が慌てて否定した。 「翔太くんのせいじゃありません」

「でも……」

「翔太くん」 花音が優しく声をかけた。 「あなたは悪くない。私たち全員で決めることなんだから」

その時、田中先生が口を開いた。

「お前たち、いい議論をしているな」 田中先生が微笑んだ。 「音楽に対する真剣な想いが伝わってくる」

「先生はどう思われますか?」 美月が聞いた。

「俺の意見を聞く前に」 田中先生が提案した。 「一度、それぞれの案で実際に演奏してみたらどうだ?」

「実演?」 太一が首をかしげた。

「ああ。美月の提案するクラシックアレンジと、花音の提案するJ-POPを実際に演奏してみる」 田中先生が説明した。 「そうすれば、どちらが現実的か、どちらが自分たちらしいかが分かるだろう」

みんなが納得したように頷いた。

「それじゃあ、まず美月の案から試してみよう」 田中先生が指示した。 「『カノン』のポップスアレンジでどうだ?」

美月が嬉しそうに楽譜を配った。しかし、翔太が楽譜を見た瞬間、血の気が引いた。

「これは……」 翔太が震え声で呟いた。

楽譜には見たこともない複雑なコード進行が書かれていた。Fコードでさえまともに押さえられない自分には、到底不可能なレベルだった。

「とりあえずやってみよう」 美月が励ました。

美月がピアノでメロディを弾き始めた。確かに美しいアレンジで、クラシックの厳かさとポップスの親しみやすさが見事に融合していた。

蓮もベースラインを正確に弾いている。流石に音楽科の二人は技術が違う。

太一は必死にドラムを叩いたが、複雑なリズムパターンについていけない。

そして翔太は……

「くそ……」 翔太の左手が震えていた。コードを押さえようとしても、指が届かない。

「ジャッ、ジャッ……」 出てくるのは音にならない雑音ばかりだった。

「すみません……」 翔太が情けなそうに演奏を止めた。 「僕には無理です」

部室に重い沈黙が流れた。

「翔太くん……」 美月が申し訳なさそうに見つめた。

「いや、俺も全然ダメだった」 太一が明るく言った。 「リズムが複雑すぎて、頭がこんがらがっちゃった」

翔太は太一の優しさに救われた気持ちになった。

「やはり現時点では困難ですね」 蓮が冷静に分析した。

美月の表情が沈んだ。

「じゃあ、今度は花音の案を試してみよう」 田中先生が提案した。

花音が『Lemon』の楽譜を配った。翔太が楽譜を見ると、こちらは比較的シンプルなコード進行だった。

「これなら……」 翔太が少し安心した。

「じゃあ、やってみよう」 花音が歌い始めた。

「夢ならばどれほどよかったでしょう」

翔太も恐る恐るギターを弾き始めた。Cコード、Gコード、Amコード……まだ完璧ではないが、なんとか音は出ている。

太一のドラムも、シンプルなリズムパターンなので合わせやすい。

「忘れた記憶を辿る君を 想うほどに透明になっていく」

五人の演奏が徐々に一つになっていく。美月のピアノも、クラシックの時ほど複雑ではないが、優美なメロディを奏でている。

「そんなことないよと笑えたなら」

最後まで演奏し終えた時、翔太は確かな手応えを感じていた。完璧ではないが、五人の音楽として成立している。

「どうだった?」 田中先生が聞いた。

「楽しかったです」 翔太が率直に答えた。

「俺も」 太一が同調した。 「途中からすごく気持ちよくなった」

「確かに」 蓮も認めた。 「演奏しやすかったですね」

しかし、美月だけは複雑な表情をしていた。

「美月さん、どうでした?」 花音が心配そうに聞いた。

「正直に言うと……」 美月が躊躇した。 「物足りなさを感じました」

「物足りない?」 花音が困惑した。

「技術的に……あまりに簡単すぎて」 美月が申し訳なさそうに言った。 「これで本当に審査に通るでしょうか」

再び部室の空気が重くなった。

「美月ちゃん」 花音の声に少し怒りが混じった。 「簡単って言うけど、翔太くんや太一くんが頑張って演奏してくれたのに」

「それは分かってます」 美月が慌てた。 「でも、私は音楽科の代表として恥ずかしくない演奏をしたいんです」

「代表って」 花音が立ち上がった。 「私たちは軽音楽部なのよ。音楽科の代表じゃない」

「でも……」

「美月さん」 翔太が割って入った。 「僕は美月さんの気持ち、分かります」

みんなが翔太を見つめた。

「美月さんは、みんなに認めてもらいたいんですよね」 翔太が続けた。 「音楽科の人たちに、軽音楽だって素晴らしいんだって証明したい」

美月の目に涙が浮かんだ。

「はい……」 美月が小さく頷いた。 「雨宮先輩に言われたことが悔しくて」

「分かります」 翔太が優しく言った。 「僕だって、自分の下手さが情けなくて」

「翔太くん……」

「でも」 翔太が力強く続けた。 「僕たちには僕たちの音楽があると思うんです」

「僕たちの音楽?」 美月が涙を拭いた。

「技術的には未熟かもしれません」 翔太が説明した。 「でも、みんなで作る音楽の楽しさは本物です」

花音の表情が和らいだ。

「そうね」 花音が頷いた。 「私たちらしい音楽を作りましょう」

「僕もそう思います」 蓮が同調した。 「無理に背伸びをするより、今の自分たちにできる最高の音楽を目指すべきです」

「俺もそれがいい」 太一が明るく言った。

美月はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。

「分かりました」 美月が微笑んだ。 「みんなの意見が正しいと思います」

「美月さん……」 翔太が安堵した。

「でも」 美月が提案した。 「J-POPの中でも、もう少し音楽的に工夫できる曲を選びませんか?」

「どんな?」 花音が興味深そうに聞いた。

「例えば」 美月が楽譜を探し始めた。 「『糸』はどうでしょうか。メロディも美しいし、ハーモニーも豊かです」

「いいですね」 蓮が賛成した。 「ベースラインも作りやすそうです」

「俺も『糸』好き」 太一が手を上げた。

翔太も『糸』なら何度も聞いたことがあった。コード進行もそれほど複雑ではない。

「それじゃあ、『糸』を候補に入れよう」 田中先生が黒板に書いた。

「他にも何か提案はあるか?」 田中先生が聞いた。

「あの……」 翔太が恐る恐る手を上げた。 「僕からも一つ提案があります」

みんなが注目した。

「『翼をください』はどうでしょうか」 翔太が提案した。 「僕たちが一番最初に合奏した思い出の曲ですし」

「いいアイデアです」 美月が即座に賛成した。 「私たちの原点ですものね」

「確かに」 花音も頷いた。 「みんなが知ってる名曲だし」

「決まりだな」 田中先生が『翼をください』も黒板に加えた。

「あとは」 蓮が提案した。 「少しアップテンポの曲も一曲欲しいですね」

「そうですね」 花音が同意した。 「『津軽海峡冬景色』とか……いや、それじゃ暗いか」

「『青春』はどうですか?」 美月が提案した。 「毛皮のマリーズの楽曲です」

翔太は知らない曲だったが、美月が少しメロディを弾いてくれると、確かに青春らしい爽やかな曲だった。

「これもいいですね」 蓮が分析した。 「技術的にも適度な難易度です」

「よし、じゃあ候補曲は決まったな」 田中先生が黒板を見回した。

「『糸』『翼をください』『青春』」

「この三曲で20分くらいになりそうですね」 蓮が計算した。

「完璧だ」 田中先生が満足そうに頷いた。 「どれも素晴らしい楽曲だ」

翔太は安堵していた。どの曲も自分にとって演奏可能なレベルで、しかも心から好きになれそうな曲ばかりだった。

「それじゃあ、来週から本格的にこの三曲の練習を始めよう」 田中先生が宣言した。

「はい」 五人が一斉に答えた。

部室を出る時、美月が翔太に声をかけた。

「翔太くん、今日はありがとうございました」 美月が深々と頭を下げた。

「え?」

「私、完璧主義になりすぎていました」 美月が反省した。 「翔太くんの言葉で目が覚めました」

「そんな……僕なんて何も……」

「いえ」 美月が微笑んだ。 「翔太くんの『僕たちらしい音楽』という言葉が心に響きました」

翔太は嬉しかった。美月さんのような才能ある人が、自分の意見を評価してくれるなんて。

「僕たちらしい音楽……」 翔太が呟いた。 「きっと素敵な演奏になりますよね」

「はい」 美月が確信を込めて答えた。 「必ず成功させましょう」

夕焼けの校舎を歩きながら、翔太は文化祭への期待が高まるのを感じていた。

選曲は決まった。あとは練習あるのみ。

翔太たちの音楽作りが、本格的に始まろうとしていた。

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