第10章 合図の前の一拍
〈開幕当日・午前〉
幕は落ちていた。
講堂の空気は硬い紙みたいに乾き、打ち込みの良い平台には斜めの傷が残っていた。舞台中央には、無惨に折れた照明器具──三番の残骸。銀色の骨は関節からねじ切られ、砕けた木片が魚の骨のように刺さっている。
朝一番で駆け付けた部長と舞台監督、それから照明チーフの岡野先輩が、袖と下手、上手を往復していた。
「舞台上は危険だ、全員袖に下がれ!」
「岡野、六番も総点検だ。リストは信用するな!」
号令は冷静だったが、声の端を擦りガラスみたいな焦りが縁取っている。
岡野は三番のワイヤの切り口を睨み、指先でそっと撫でた。スナップピンの根元に、紙の繊維が薄くへばりついている。
「仮タグの紙糸……。あいつ、見落としたのか……」
昨夜の地震には耐え切ったはずの天井。誰かが息を呑む音が、暗い袖で小さく割れた。
「国守くん、逃げたって……」
「最後に触ったの、彼だろ……?」
「昨日の揺れでも落ちなかったのに、なんで今……」
足元の影は増えていくのに、誰も踏み出せない。袖の床に座りこんだ姫宮沙希は、両手で顔を覆っていた。
泣き崩れたまま、しばらく動けない。彼女は彼を責める言葉を持たない。
ただ、寝不足の目で神楽鈴を何度も修理し、「大丈夫だ」と笑ってくれた彼の姿と、目の前の現実とが、どうしても結びつかない。
(どうして。どうして、国守くん……)
喉の奥に、昨夜見つけた「息を置く」ための小さな段差が絡まる。
彼に教わった「置きすぎず、落としすぎず」。舞台の上では正しかった手順が、今は胸を圧して苦しい。
〈昇降口・同午前〉
自動販売機の袋が、足で小さく鳴った。オレンジ、カルピス、麦茶。
八幡 大がそれらを両腕にぶら下げ、琴坂 静は紙コップを箱ごと抱えている。
「差し入れ、間に合ったな」
「“間に合う”という言葉が、一番危ないときがある」
静は苦笑する。
「段取りは、たいてい差し入れより繊細だ」
昇降口の向こう、廊下の空気はただ事ではない密度で震えていた。二人は目を合わせ、歩幅を狭める。
講堂前、立て看の前で足が止まる。舞台袖から、低く抑えた怒号と、紙の擦れる音。
大は扉を押し、細い隙間から覗いた。
「……嘘だろ」
視界の奥で、三番の残骸が光を鈍く跳ね返している。
静は状況を数秒で切り分け、扉を開け切らずに袖側へ回り込んだ。
最初に声を掛けたのは、俯いていた姫宮だった。
「失礼。私は琴坂 静、彼──国守 叶の友人だ。こっちは八幡 大。事情を、教えてもらえるかな」
姫宮は顔を上げ、腫れた目で二人を見た。声が出ない。
代わりに喉で一度だけ息を整え、言葉を選ぶ。
「……三番の照明が落ちました。最後に触っていたのは、国守くんで……仮のタグ、紙糸が……たぶん、残ってたのに……」
「彼は今どこに?」静が問う。
「誰かが、“逃げた”って……でも、逃げる人じゃない……。いつも、“息を置け”って……」
姫宮の言葉は途中でほどけ、また結び直される。
大は袋を床に置き、舌打ちをぐっと飲み込んだ。
静は短く頷き、結論を出す。
「──神社だ。呼吸を整えに行く場所を、あいつは一つしか持っていない」
「遠州七神社」大の声が低く落ちる。
「任せてください。彼を連れ戻します」
静は姫宮の目線と同じ高さに身を落とし、ゆっくり告げた。
「君は声を守って。ここは、我々も戻してみせる」
姫宮は強く頷いた。
二人は踵を返す。袋の氷が鳴り、廊下の光が遠くへ流れる。走らない。だが早足で。
〈同刻・遠州七神社〉
鳥居の下で、国守 叶は膝をついていた。玉砂利が膝頭を冷たく刺す。
額に落ちる汗は、朝の風に冷やされるより早く乾く。
(確かに『神託』で視た未来は回避できたんだ)
(だけど、あんなことになるなんて……)
(俺がやった。俺がやってしまった)
言葉にしてしまえば、世界が確定してしまう。分かっているのに、手は合わせたままだ。指の関節が、ゆっくり鳴る。
息を吸う。胸の底にまで空気を落とし、吐く。
昨夜、鈴の角度を紙一枚ぶん寝かせ、帰り道に段差を作ったように、呼吸にも段差をつける。
「叶!」
駆けてくる足音。砂利が派手に跳ね、鳥居の影が揺れる。
八幡 大が肩で息をして、真っ直ぐに叫んだ。
「戻るぞ! 間に合う!」
少し遅れて、琴坂 静。制服の襟元を指で整える癖が、一拍遅れて出た。
「立て」
二人とも、手のひらに熱がある。叶は視線だけを鳥居の外へ流し、目を閉じた。
「悪い……いま、俺が行っても、邪魔になる」
「邪魔? お前がいなくてどうする!」大は吠える。
「あの三番、お前が触ってたんだろ! だから戻って、確かめて、直して──」
「直せない」
声が小さく割れる。静が一歩、近づいた。
「叶、戻ろう」
「戻れない」
大の拳が震え、しかし落ちない。静は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……そうか。君がそう言うなら、今は何も言うまい」
「静! なんでだよ!」
「彼が自分で立ち上がるしかない問題だ。我々が今、無理やり連れ戻しても意味がない」
叶は立ち上がる。膝の砂を払う。その仕草までがまるで段取りの一部のように丁寧で、大は余計に腹が立つ。
「なったことは仕方ないだろ、みんなに謝れよ」
静が続ける。
「謝って、そのあとは戻すんだ」
「講堂では、みんなが開幕に間に合わせようと必死になっている。君もその中に入るべきだ」
叶は、答えた。
「……分かった」
鳥居を出ると、風が鳴った。街へ向かう坂道は、朝の光で薄く白い。二人の親友は、彼の背中が小さくなるのを──しかし、背中の芯が折れていないことだけは、分かっていた。
〈講堂・同午前〉
部長はロープの端を束ねながら、声を飛ばし続けていた。
「バトンの下に入るな! 高所は必ず二人一組! 岡野、スパン全数確認!」
岡野ははしごの上から答える。
「了解!」
三番の残骸の周辺だけが、時間の流れから外れているように見えた。誰も近寄らない。誰も、近寄れない。
姫宮は袖の暗がりで、立ち上がろうとして膝が笑った。喉の奥に冷たいものが落ちる。
(大丈夫だよ、って言ってくれたのに)
舞監が視界の隅に追いやった紙を拾い、姫宮は指でなぞる。
〈走らない。転ばない。それでも急ぐなら息を整えてから〉
──静の筆跡。文字をなぞる指が、震えていた。
「姫宮」
呼ばれて顔を上げると、岡野だった。彼の目は赤い。
「無理に立たなくていい。……本番の段取りは、俺が回す。お前は、声を守れ」
「はい……」
返事はか細かったが、届いた。それだけで、岡野ははしごを一段登り直す。
〈戻り道〉
学校までの道は見慣れているはずなのに、何度も折れ曲がっている。叶は一歩ずつ数えながら歩いた。
(紙糸。仮タグ。リストは信用するな)
自分で言った言葉が、自分の首に巻き付いてくる。
(見落とした。俺が)
信号待ちの横断歩道で、左右の音が冷たく増幅される。自転車が通り、子どもの笑い声がすれ違う。世界は、凶兆の外側でいつも通りだ。
(謝る。全部、俺のせいだって)
青に変わる。足が出る。
〈講堂・昇降口〉
靴を脱ぐ指が、少しだけ震える。下駄箱の上に掲げられたポスター──〈ようこそ〉の文字が、こんなにも遠い。
廊下の先が、ざわめいている。叶は、手を前に組んだ。
舞台に入る前に指の節を鳴らす癖。今日は、その音が自分に向かう。
扉を開ける。
視線が、一斉にこちらを向いた。
誰かが息を呑む音。誰かが紙を落とす音。
叶は頭を下げた。
「みんな、俺のせいでこんなになって……すみませんでした」
「仮タグの紙糸を見落としてた。確認したつもりで、見ていなかった」
沈黙が、舞台の天井の高みにまで張り詰める。
部長が、最初に口を開いた。
「わかった。謝罪は受け取ったから、もういい」
「起きたことは仕方ない。でも、それをフォローするために仲間がいる。お前は演劇部の仲間だ。仲間のミスは仲間がフォローする」
「だから、二度と逃げるな。仲間を信じて頼れ」
叶は顔を上げた。目が潤んでいくのが分かったが、そんなことをしている場合じゃない。
作業に取り掛かろうとしたとき、姫宮と目が合った。
袖の暗がりで、彼女もこちらを見ている。
「神楽鈴。握りの硬さ、昨夜の微調整、俺がまだ詰めきれてない。位置合わせは岡野先輩がやってください。俺は布をもう一枚用意する。汗で滑るのを止めるために」
岡野がはしごの上で一度だけ目を閉じ、「了解」と短く言った。
部長は腕を組み、ひと呼吸置いて頷く。
「各員、持ち場に戻れ。国守は貼り紙と導線マーク、指示は岡野を通せ」
ゆっくりと、世界が動き出す。固まっていた時間が解凍され、足が舞台へ戻る。
〈袖〉
姫宮は一歩、二歩と進み、叶と向かい合った。言葉は、すぐには出てこなかった。
彼は彼女より先に、また頭を下げた。
「ごめん」
「……ううん」
「俺の『大丈夫』は、嘘だった。あれは、自分に言ってた『大丈夫』で、君に言うべき言葉じゃなかった」
「嘘じゃなかったよ。……私、もらってばかりだった」
彼女は深く息を整え、ゆっくりと吐いた。
「“早足”にならないようにって、言ってくれたの、嬉しかった。だから──」
言葉の先は、舞監の号令にかき消された。
「場当たり再開!」
姫宮は一度だけ頷き、舞台へ戻った。
叶は、袖でガムテを千切り、「ケーブル踏むな」の紙を四つ作る。マーカーで太い字。誰にでも読める字。息を置き、貼る。貼って、息を置く。
〈小返し〉
六番の点検は岡野が仕切った。スナップピン、ワイヤ、シャックル、シャックルピン、セーフティの二重化。仮タグはすべて外し、新タグに統一。チェックシートは白紙に戻され、目の前の現物だけが信用された。
叶は導線テープを引き直し、通線にカバーを抱かせる。角の立った場所には手の甲で触れて、紙一枚ぶん寝かせる。
部長が客席側から声を飛ばす。
「第一場、走り込み禁止の読み上げ、追加!」
「了解!」
叶の声は、昨日より少し低かった。
袖の暗がりで姫宮が鈴を握る。白布の上、握りは乾いている。
(落としすぎず、置きすぎず)
チリン。
粒の音が客席の空気を一段だけ押し、そこで止まる。
「──いい」岡野が小さく言う。「その、息だ」
〈廊下・一瞬〉
静と大が、やっと講堂に着いた。二人とも、靴紐を結び直す暇も惜しんで走ってきた。
扉の隙間から覗くと、叶が貼り紙を増やし、誰かの肩に手を置き、短く確認している。怒鳴らない。笑わない。ただ、ひとつずつ段差を作っている。
大は舌打ちしようとして、やめた。
「……殴らなくて済みそうだな」
静は眼鏡を押し上げ、短く笑う。
二人は扉を静かに閉めた。邪魔はしない。舞台は、始まる。
〈呼気〉
叶は最後にもう一枚、貼り紙を立て看の横に増やした。
〈走らない。転ばない。それでも急ぐなら息を整えてから〉
マーカーの匂い。紙の白。
胸の中で、何かがやっと元の位置に戻った。
「始めよう」
誰に言うでもない声が、天井に吸い上げられていく。
──開幕の合図は、誰の手でも鳴らせる。けれど、その一拍前の沈黙は、皆で作るものだ。
<次回予告>
講堂へ戻り、自らの非を認め、今できる作業を始めた叶。だが、壊れた吊り元はどうにもならない。最後の望みをかけ、由香里に相談する。
次回『第11章 助けは遠く』
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