第11章 助けは遠く

〈開幕当日・午前十時〉

ガムテープの芯が、指の中で乾いた音を立てた。国守 叶は膝をつき、床の木目に沿って薄茶の帯を伸ばす。矢印の先は客席入口。

走り込みを抑えるための“視線の段差”だ。

昨日なら、これだけで十分だった。今日は、何もかも足りない。

舞台中央の平台には、穴がある。三番が穿った、形の悪い暗い穴。

部長は鉄くずを箱に入れ、舞監は危険区域のロープを張り直す。岡野先輩は、割れた板を寄せて仮の蓋を当てている。

「危険物の除去は完了したけど……復旧作業には入れない」

岡野の声は、いつもより低い。

「吊り元は?」部長が問う。

「イカれてる。金具ごと変えるしかない。でも、替えは無い」

言葉は冷えているのに、触れると火傷のように痛い。

叶は、貼り終えた矢印を見下ろす。角が、気持ち上を向きすぎている。

指の腹で紙一枚ぶん寝かせると、奇妙に安心した。その安心だけが、現実と乖離している。

「……ダメだ。三番、物理的にもう吊れない。予備機材もないし、代替はきかない」

岡野が決定を言葉にした。部長はタイムテーブルの〈開演〉を太線でなぞり、途中で止める。

ペン先が紙を抉って、白い繊維が浮いた。

袖では姫宮沙希が膝を抱えている。泣かない。泣かないまま、鈴の把手を見つめる。誰かが「水、飲め」とペットボトルを渡し、彼女は頷くだけで口に運ばない。


(俺が、壊した)


叶はテープを切った。刃が音を立て、空気が一瞬だけ軽くなる。すぐ、重く戻る。


(俺のせいで、『神託』よりひどい未来になった)

(謝ったけど足りない。これじゃ、彼女は立てない)


足裏が床を探す。踏み出したいのに、踏み出せない。

そこで、彼はようやく段取りの意味を正面から考えた。自分一人では組めない段取りがあることを。


〈同・午前十時半〉

廊下の突き当たり、ガラス窓の前に立つ。外光にさらしたスマートフォンの画面に、自分の顔が映る。

呼吸を一度、底まで落としてから、連絡先を押した。

「……由香里さん」

「叶さん? どうしたの、そんな声で」

「助けてほしいんだ」

言い終わる前に、喉が熱くなった。

叶は、順番を極力正しく並べて話した。照明を落とした。

吊り元が死んだ。予備も人もいない。

このままだと中止だ。——『神託』の話だけは、喉の手前で止めた。

「プロの業者が必要なんだ。今すぐ、舞台を設営できる人たち。神社の祭りの設営で、ツテは……」

由香里の吐息が、電話越しに長く流れる。

「簡単な頼みじゃない。今日は当日よ。プロは皆、別の現場に入ってる」

「分かってる。でも、お願いだ。俺、どうなってもいい。舞台を、中止にさせたくない。俺が壊したんだ」

「壊した」と口にした瞬間、胸の奥で何かが落ちた。落ちたものの名を、まだ見ないふりをした。

「心当たりがあるけど……いくらなんでも当日は……期待はしないで」

「頼んでみるから。一度切るね」

ツー、ツー、と間延びした無音が耳に残る。叶は画面を下ろし、掌を見た。細かい埃と、黒マーカーの跡と、紙繊維の粉。自分の手の中にあるものの軽さと重さを、同時に持て余した。


〈同・午前十一時〉

舞台袖の空気は浅く呼吸し、すぐ止まる。

工具が沈黙し、誰かの靴が床をこすった音が、やけに遠くへ行く。

作業は、復旧から撤収へ、水が流れを変えるみたいに移っていく。

姫宮が、叶のほうへ歩く。

「……国守くん」

声はまっすぐで、光のない明るさがあった。

「もう、いいよ。もう、自分を責めないで。分かってた。無理だって。……でも、嬉しかった。神楽鈴、直してくれて。買い出し、付き合ってくれて。……それだけで、十分だよ」

「十分」という言葉が、刃の背で撫でるように痛い。

(違う。十分じゃない。俺は、なんとかしたいんだ)

反論を探す前に、ポケットが震えた。救助信号みたいな振動。


〈同・午前十一時五十分〉

「由香里さん! どうだった?」

「……断られた」

廊下の色が薄くなり、音が遠のく。

「『なんとかしてあげたい』って言ってくれたけど、さすがに急過ぎるって」

由香里の声は、少しかすれていた。

「『すまない』って言っていた」

通話は切れた。画面の黒に、舞台袖の暗さが重なる。


〈同・正午〉

講堂の時計が十二時を指す。時報は鳴らない。代わりに、部長の靴音が舞台中央に向かって数を刻む。

「全員、手を止めろ。集まってくれ」

部員たちが輪になる。誰も視線を合わせない。

視線は床に、ロープに、壁のポスターに散り、戻ってこない。

岡野ははしごの途中で立ち止まり、工具袋の口を締める。

姫宮は、鈴を握っている。白布は乾いたまま、音は出ない。

部長は一人一人の顔を見た。顔ではなく、体温を確かめるように視線を置いていく。最後に、姫宮の目に触れ、深く息を吸った。


「——残念だが、本日の『花鎮祭』公演は……」

その瞬間、講堂の扉の向こうで、スニーカーが床を擦った。

ほんのわずかな音。だが、輪になった全員の胸の中心に、一本の線を引くには十分だった。

誰も、まだ振り向かない。言葉の刃は宙にあり、落ちる直前で止まっている。

叶は、自分の指が小さく震えているのを見た。背筋が勝手に伸びる。

姫宮の横顔が視界の端で硬く、美しかった。

彼は、息を吸った。口を閉じ、胸の底まで落とす。

まだ、何も言わない。次の一拍が、やっと来ようとしていた。


<次回予告>

すべての望みが絶たれ、部長が公演中止を告げようとした瞬間、静と大が「待った」をかける。彼らが集めたプロと「助っ人」が講堂になだれ込む。

次回『第12章 伝染(うつ)るお節介』

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