第9章 朝の崩れと逃走
〈開幕当日・早朝〉
鍵が鳴った。
同じ手応えなのに、扉の向こうの匂いが違う。
粉の匂いが喉をざらつかせ、光は白く濁る。
静かなのに、耳がうるさい。
舞台に破片が散っている。
銀色の首が折れ、ガラスが朝の手前で光る。
三番の下だけが不自然に白く、平台は一枚割れて角材が覗く。
そこだけ真冬の色。
胸ポケットからチェックリストを出す。
増し締め済
落下防止確認
角度印合わせ
昨夜の二十一時三十七分。
間に合った。紙の上では。
指で線をなぞると、乾いたインクが粉になった。
「何があった?」
舞台監督が走り込む。部長を呼ぶ。
「照明、音響、ブース確認! 舞台上は最小人数で導線確保!」
短い言葉が支柱のように立ち、空気が持ち直す。
部長が紙束を抱えて上がる。
最終点検は済んでいるはずだ。クランプ、落下防止、砂袋。リストの上では。
俺は紙を差し出す。
消し込みの線はあるが、ここには破片がある。
照明の岡野先輩が、三番の下で膝をつく。
返しは閉じているように見える。でも、根元に紙糸みたいな繊維が噛んでいる。
仮タグか。いつの、どこから。
低い声が床に沈む。
袖から人が増える。
衣装、小道具、一年、二年、三年。
目だけが硬い。
「昨日の地震は乗り切ったよな」
「今朝になって、どうして……」
「最後に触ったのは誰?」
問いは短いほど切れる。
「最終の増し締めと三周目の確認は、俺が……」
自分の声が、他人みたいに聴こえた。
そこから先が出ない。
部長は息を吐く。
「安全最優先で粉塵を落とす。舞台は最小限の人数で導線確保」
「大道具と呼び戻しと照明は危険箇所封鎖。音響は異常確認のみ」
言葉が床を固める。
袖で神楽鈴の房が擦れる。
姫宮沙希が立っている。
舞台を見て、俺を見て、もう一度舞台を見て、膝が落ちる。
声は出ないまま泣き崩れる。
膝にささくれが触れて赤くなり、房がほどけかける。
指が震えて結べない。
近づけば何かが壊れる。
近づかないことが壊す。
どちらにも出られない足が、床に縫いとめられる。
胸の中で鈴が鳴る。
音の手前の気配だけが震え、それが一番痛い。
「国守」
「どうして」
短い刃がいくつも飛ぶ。
説明はある。
でも、ここで口にしたら弁解になる。
弁解は舞台の敵だ。
紙を握りしめる。
角が指に食い込み、視界の縁が暗くなる。
逃げた。
足が反射で扉へ向き、階段の角で躓き、手すりが肩に当たる。
痛い。
痛みは正直だ。立て看に、自分の字が見える。
走るな。
分かってる。
それでも走る。
朝の光は薄い。
校舎の壁は遠い。
胸の中だけ冬みたいだ。
足が社へ向かう。
石畳が波のように見えて、一段踏みそこねる。
灯籠は消えているのに、丸い鈴は黙って垂れる。
黙っているのに責めない。
責めないのに重い。
拝殿の前で膝をつき、額を板に当てる。
木の匂いがする。
昨夜の紙糸が、脳裏でほどける。
返しに噛んだ薄い繊維。
俺の目と手と時間と眠気と焦りが重なって、今朝になった。
泣くのはあと。
謝るのもあと。
今ここで泣くのも謝るのも、全部が間違いだと分かっている。
境内の空気は澄んでいるのに、胸の中だけ濁っている。
鈴の緒が少し揺れ、影が細く震えた気がした。
好きになったから助けた。
助けたから恋は叶わない。
それでも助けた。
それでも助ける。
介入した瞬間に恋は敗れる。それでも構わない。
それでも、今は逃げた。
「逃げた」という言葉が額の板に反響して戻ってくる。
何度か戻って、小さくなる。
小さくなっても消えない。
消えないから遠ざかる。
遠ざかった先に、舞台の朝がまだある。
<次回予告>
己のミスで神託を現実にし、姫宮を絶望させた叶は、講堂から逃げ出した。一方、現場の惨状を知った静と大は、彼を連れ戻すべく神社へ走る。
次回『第10章 合図の前の一拍』
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