第8章 最後の増し締め
〈開幕前日・夜〉
講堂のざわめきは、二十時を過ぎても消えなかった。
最終の稽古が一巡しても、舞台に人は残り続けた。
大道具は平台の脚を拭き上げ、音響はレベルを小さく刻み、照明ブースには卓のランプが虫みたいに点ったまま、揺れない光を出している。
姫宮沙希は、練習着のまま袖の白線に足をそっと乗せ、指先で神楽鈴の柄をなぞる。
部長は、タイムテーブルを胸に抱え、舞台監督は出入口の立て看を直し、用具係は差し入れの箱を肩に担いでいる。
誰も帰っていない。
俺は胸ポケットに細いペンとチェックリストを差し、懐中ライトを歯でくわえ脚立を立てた。
ここからが本丸だ。吊り物の点検。
手順1:クランプの増し締め
手順2:落下防止ワイヤの経路と留め具の閉鎖
手順3:バトンの偏荷重と砂袋の配分
手順4:角度と重心の最終確認
簡単に書けばこれだけ。簡単にやればどこかが嘘になる。
だから、ゆっくりでも時間はない。
最初の標的は六番バトン。今日いちばん砂を食べた怪物だ。
上段に上がり、ハンガーに触れる。冷たい金属は温度だけで会話する。
スパナで少しだけ締めて止める。
回し過ぎればバトンが怒り、足りなければ器具が泣く。
間の一点だけを探して息を置く。増し締め済みの印をボルト頭につける。
次はワイヤ。
カラビナのゲートを親指で弾き、完全閉鎖を確認し返しの向きは客席を避ける。
一本一本やる。一本一本息を置く。
四番は素直な顔をしているのに首が硬い。ネジの回り出しの手触りが重い。
一度戻してから締め直す。硬さの正体は埃とわずかな塗料だ。
布で軽く拭ってから、もう一度。今度は従順に回る。
印を細く引き終えると、掌に金属の冷たさが残った。
三番ライト。台本の余白にあったL3の角度が、姫宮の言葉の色を守る。
落とせない。
ネジは昼に触った気配があり、増し分はわずかで済む。
ワイヤをたどる。ハトメを通りシャックルへ。
スナップピンの返しは閉じているように見えた。
眠気が指先に乗る。
自分の指に命令する。
閉じろ
ぱちりと小さい音。
印を入れる。
視界の端でスマホが白く点いた気がする。
いまは見ない。
二番一番と戻り床へ降りる。
水を一口。紙コップがすぐ薄くなる
もう一周。
今度は角度。
卓は半分眠っているので、首を指で少しだけ動かし、マーキングに合わせる。
昼の岡野先輩の声を真似る。
「もう少し下……止め…そこ」
自分で自分に指示を出すのは効く。袖では小道具の布が畳まれ、舞台監督の指で導線が空中に描かれる。
姫宮は、台本を閉じて神楽鈴を構え、深く息を入れ背筋を伸ばす。
目が合うと小さく頷いた。大丈夫という形の頷きだ。
チリン
控えめな音が、袖の暗さに丸い輪を残す。
五番の砂袋は、数が合っているのに片側が沈む。
紐の結び目が、何度も解かれた痕があり、繊維が少し潰れていた。
結び直し同じ形に整える。形が同じだと手が迷わない。
迷いは事故の母だ。
言い聞かせるように手を動かす。照明ブースの窓からは卓の小さな明かり。
岡野先輩が手短に合図を出す。角度の微調整を一本。
俺は、脚立の上で首を支え、先輩の指示を自分の声に変換する。
「もう少しだけ下…止め…そこ」
金属の首は、言葉より確かなところで止まった。
二十一時をまたぐ前の空気は、重く柔らかい。
汗の塩と黒パンチの匂いに、紙の匂いが混じる。
チェックリストの空欄は、残り三つ。
呼吸を整えて、もう一周を宣言する。宣言は自分の足場だ。
そのときだった。
床が低くうなり、舞台の空気が一拍だけ息を飲む。
「あ、地震」
誰かがそう言った。
小さな悲鳴が客席の影から跳ね、部長が振り向き、舞台監督が出入口を開けて、導線を指さす。
姫宮は、白線から半歩だけ引いて、神楽鈴を胸に抱えたまま足を軽く開く。
俺は、脚立から降り膝を曲げ、バトンと器具を見上げる。
ユラリというより、さざ波のように揺れる。
クランプは耐え、ハンガーが一度だけ触れ合い、小さな金属音を立て、砂袋は踊らず、ワイヤは鳴らない。
十秒、二十秒、三十秒。
揺れは、波が引いていくように治まっていく。
ざわめきが戻り、拍手にもため息にもならない空気が広がる。
「舞台、照明、異常なし」と岡野先輩
「客席側、異常なし」と部長
「結構揺れたけど…点検した後でよかった」と、先輩が俺の肩を軽く叩く。
俺はうなずき姫宮と目が合う。
彼女は、神楽鈴を一旦下ろし小さく親指を立てる。
チリンと袖でほんの一粒だけ鳴る。
俺は息を吐く。
肺のどこかに冷たい石が入っていて、いま出た。
確認に戻る。
三周目は、点検というより確認の確認だ。
六番、印はある。クランプは動かない。
五番、砂袋の位置再点検。結び目は同形。
三番、ワイヤの経路。ハトメ、シャックル、スナップピン。
ライトの光が心許ないので、角度を変えて照らす。
「大丈夫」
口で言い、手元に集中させる。返しは、閉じているように見えた。
見えたので次へ進む。
姫宮が袖の暗がりからこちらを見て、小さく口の形だけで言う。
ありがとね
声は出していないのに届く。
俺は、片手を胸の前で小さく上げて返す。
終わったら寝ること。彼女はそういう顔をした。
俺もそういう顔をした。
二十一時二十分
残りは二本
二十一時二十五分
最後の砂袋を移す
紐の摩耗をもう一度だけ撫でて確かめる。
「大丈夫」と呟く。
その声は、自分だけに届く。
「二十一時半を過ぎた。前日作業はここまで」と部長の声。
散っていく足音が客席に吸い込まれ、舞台の上から人の気配が薄まる。
岡野先輩が、最後にブースの灯りを落とし、扉の外から言う。
「国守、クランプ増し締め、リスト、ありがとう。そのくらいで帰れ」「了解」
扉が閉まり音が一枚だけ薄くなる。
俺は、チェックリストの最後の欄にチェックを入れ、ペン先の滲みを指で拭った。
時計は二十一時三十七分
間に合った。間に合わせた。
胸の中で、鈴が一度鳴る。
俺は、照明に向かって小さく会釈した。
脚立を畳み、スパナを所定に戻し、テープの角を揃え鍵を掛ける。
扉を閉める前に、もう一度だけ舞台を振り返る。
立ち位置の白線
中央の闇
袖の手前に残る温い空気
明日は本番
ここで誰も泣かない。それだけを確かめて取っ手を押した。
廊下は樹脂の床が薄く軋む。非常口の緑は眠そうに瞬く。
スマホが震えたが出ない。既読は明日でいい。
階段を降りる踵が二段ほど躓きかけて、手すりで体を戻す。
危ない
寝ろ
命令文は自分にも効く。夜気が喉を冷やす。
校門を出る風は弱く、星は薄い。足は自動で家まで歩いた。
そのころ。
天井の三番で、落下防止ワイヤは薄い灯りの下で、とても小さな動きをした。
スナップピンの返しは閉じていた。閉じているように見えた。
だが、返しの根元には昼の作業で付けた仮タグの紙糸が、一本だけ残っていた。
さっきの地震で、それが返しの切れ目に挟まり、閉じは甘く開きは甘く、かろうじて留まった。
甘さはすぐにはほどけない。明日まで持つくらいには頑丈だ。
けれど、角度を変える微細な振動と、吊り全体の呼吸と、人の足音と眠気で、少しだけ弱い手が紙糸をわずかに削る。
音はしない。誰にも聞こえない。
返しは閉じている。閉じているように見える。
それで、充分だと誰かが思えば充分ではないと、現実が思うかもしれない。
社の門をくぐる。
灯籠は低く燃え鈴は黙って丸い。
石畳の冷たさが足裏から上がり、今日の熱を撫で下ろす。
拝殿の闇は、深いのに怖くない。鈴の緒が、静かに垂れている。
触れれば鳴る。鳴らさないでおくこともできる。
そういう選択の重さが胸に落ちる。
由香里さんが、戸口に立っていた。
「おかえりなさい。手を洗って、うがいして、それから食べて寝る」「了解」
湯が喉を通る。味噌の匂いが、遅れて来て目の裏が少し緩む。
塩気の薄いおにぎりをひとつだけ食べる。もうひとつは、明日の朝の分に回す。
桜が、廊下の影から顔を出す。
「今日も遅い」
「今日で終わりだ。明日は早く行って、最後の確認するだけ」
「無理はしないって、約束だよ」
俺は一拍だけうなずいた。
部屋に戻り、布団に腰を落とす前に、胸ポケットから紙を出した。
チェックリストは全部に印がある。指で一つずつなぞる。
「間に合った」
誰かに聞かせたかった。
『神託』で視た未来は、地震で揺れたあと、照明が落ちる。
でも、現実は地震の揺れに耐えて、照明はあるべき場所にある。
姫宮も泣いていなかった。
「間に合った」
今度は、自分に聞かせるために言った。
聞かせた途端…眠くなった。
俺は、満足を胸に眠りについた。
<次回予告>
揺れにも耐え、最後の点検を終えた叶 。だが、彼が見落とした一本の「紙糸」が 、スナップピンの返しを甘くしていた 。開幕当日、講堂の扉を開けた彼が目にしたのは…。
次回『第9章 朝の崩れと逃走』
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