第7章 昼の買い出しと、夜の段取り


〈開幕二日前・翌日〉

講堂のホワイトボードに油性ペンの黒がびっしり並んでいた。

黒パンチ補充、ガムテ黒太、結束バンド中、単三電池大量、マグネットフック、養生マット小、神楽鈴の予備の紐、紙コップ、のど飴、軍手、氷。

端に小さく『できれば可愛いテープ』とある。書いた人の顔が浮かぶ気がした。

「買い出し班の補助、国守にお願いしたい」

言い終える前に、袖から姫宮沙希が小さく手を上げた。

「私も行くね。稽古の合間、ちょうど空いてるの」

「助かる。二人で足りそうかな?」

「たぶんいけるよ。ね、国守くん?」

「大丈夫」

ふわりと笑った瞬間、舞台の塵が少し澄んで見えた。

校門を出ると昼の光が強い。商店街までの道に浜風がやわらかく吹く。

「重い物は私がカゴ担当、軽いのは国守くんが袋担当ね」

「逆じゃないのか?」

「私、腕力にはちょっと自信あるほうなの」

主役の筋力は伊達じゃない。台本の束を片手でさばく人だ。

ホームセンターは涼しくて、世界が小さな音で鳴っている。

「ガムテ黒太はこっち。結束バンドは中がいちばん使いやすいよ。白もあると目立たないの」

「了解。白黒で揃える」

「ちょっと待って。養生テープは手で切れるやつがいいの。速いから」

「そうなんだ」

「うん。それと袖って暗いから、端だけ蛍光の細いのを一本。つけすぎると気が散るけど、少しなら道しるべになるの」

言葉は柔らかいのに、選ぶ手つきは迷わない。芯が可愛いを連れて歩いている、ずるい組み合わせだ。

電池売り場で彼女が2パック取って戻る。

「単三は多めに。だけど買いすぎると重いから、今日はこれくらい」

「合理主義者だな」

「舞台の神様は重さに厳しいの」

「うちの神様は砂袋に厳しい」

「砂袋の神様っているの?」

「昨日から張り付かれている」

笑うとサイドの髪が揺れた。レジ列で彼女は俺の肩を見て手を伸ばす。

「ここ、テープの糊ついてる。取っていい?」

「頼むよ」

指先がそっと触れて、糊が剥がれる。近い距離の空気に、心臓が一拍だけ早くなる。

「ありがと」

「どういたしまして」

外へ出ると金物屋の鈴がチリンと鳴った。二人分の影が舗道に並ぶ。

「ねえ、国守くん。どうして裏方の手伝いをしてくれるの?」

「誰かが困ってるから、かな」

「困ってる人がいたら動いちゃうタイプ?」

「昔から」

「そうなんだ」

「祭の前の日、鈴の紐が切れて泣いてる子がいて、結び直してあげたんだ。礼は言われなかったけど…悪い気はしなかった」

「いい話だね」

「そっちは? どうして舞台?」

彼女は少しだけ歩幅を落とした。

「小四のとき、お母さんが宝塚歌劇団のファンでね。一度だけ連れて行ってもらったことがあってね」

「興味がなかったけど、その後に遊園地に行く予定だったから、仕方がなくついていったの」

「それで、実際の舞台を見て…いまでも覚えている。とても素敵だった」

「それからかな」

風がページみたいに通り過ぎ、彼女の前髪が一筋だけ揺れた。

「主役って、やっぱり重責?」

「重いよ。みんなの視線が集まるから。でも、視線って温度でもあるの。あったかいのをもらえると、ちゃんと立てる。怖いのは、冷たさじゃなくて、私の中の“早足”なんだよね。怖くなると、すぐ急いじゃうの」

「昨日の鈴の角度は、その早足を留めるため?」

「うん。音に“息を置く”って、自分に言い聞かせるため。……変かな?」

「変じゃない。芯がある。そういうの、好きだ」

彼女は視線を落として、小さく笑った。

「じゃあ、もっと好きになってもらえるようにがんばるね」

講堂に戻る。入口の立て看には紙が一枚増えていた。

〈走らない。転ばない。それでも急ぐなら息を整えてから〉。

静の筆跡だ。よく分かってらっしゃる。

「国守、黒パンチ開封」「了解」

「国守、ガムテの芯、捨て場」「了解」

「国守、軍手追加」「了解」

買った物をさばき切る前に袖の奥から別の声。

「国守、立て看の足がガタガタ、何とかなる?」

「何とかします」

蝶番のネジを一度抜き、噛み直す。ガタは減る。完璧ではないが現実的に十分。

「国守、神楽鈴の紐、結べる?」「結べる」

白布を敷いて新しい紐を通し、摩耗部に小さなガードを噛ませ、房を整える。

「国守、マイクの単三、電池交換」「了解」

「国守、ペットボトル差し入れ、配れる?」「配れる」

照明補強メモに視線を落としかけるたび、別の用事に袖から引き戻される。右手が雑用で、左手が目的。左右が引っ張り合って、背骨が細く軋む。

一度だけ、照明ブースの扉が俺を呼んだ。

「国守、ケーブル一本、追加できる?」岡野先輩。

「やります」

「走らない。言われたもの以外は触らない。手元の確認は声に出す」「はい」

黒い蛇は今日も従順だ。テープで押さえ、足の形を想像して曲線を整える。ジャックが吸い込む瞬間の手応えだけが、照明に近づいた証拠として胸に残った。

「お疲れさま。差し入れね」

姫宮がスポーツドリンクを渡す。

「ありがとう」

「国守くん、目の下にちょっとだけ影。休めるとき、ちゃんと休んでね」

「ありがとう」

彼女は小さく笑って、紙コップをもう一つ持って袖へ戻った。

昼下がり。窓から四角い光が床に落ち、埃が泳ぎ、黒パンチが魚の群れみたいに波打つ。

「国守、立ち位置シール、追加できる?」「できます」

しゃがむ。座る。貼る。立つ。単純な繰り返しが世界を少しだけまっすぐにする。

「国守、かつら台のネジ、緩む?」「緩んでますね。締め直します」

「国守、標準語の札、どこ?」「ここに」

「国守、六番バトンの砂袋、もう少しだけお願い」「了解」

砂袋の神様は今日も胃が丈夫だ。運ぶたびに腰の中で小さく雲が動く。

合間を縫って、照明補強メモに目を落とす。

吊り物の点検手順。落下防止ワイヤ再確認。クランプトルク見直し。

リハ前の角度と重心の再点検。まだ手が付けられていないものばかりだ。

「時間がないのに…」

そう呟くと、別の方向から、俺に向かって尋ねる声がした。

「国守、紙コップ買い足した?」

「…あっ」

買い忘れが発覚した。

「スーパーで紙コップと、氷も一緒に買ってきてくれるか?」

「わかりました。行ってきます」

講堂のドアを開けようとすると、後ろから姫宮の声が。

「一緒に行こ」

「い、いいにょ」

いきなり声をかけられ驚いてしまい、噛んでしまった。気づかれないようにしたつもりだが…姫宮は笑いながら言い返した。

「いいにょ?」

しっかり気付かれた。

近所のスーパーへ。エコバッグを肩にかける。自動ドアが開いて涼気が胸を抜ける。

「大小どっちがいいかな?」

「大が便利。でも手の小さい子もいる」

「じゃあ半分ずつ?」

「半分ずつ」

彼女は氷の袋をひょいと持ち上げ、俺は紙コップの山を抱える。

冷凍ケースのガラスに二人の映り込みが揺れた。

「国守くん、髪、少し跳ねてる。直していい?」

「頼む」

爪で優しく撫でるだけで跳ねが落ち着く。

「直ったよ」

「すぐ直すプロだな」

「どうせなら、舞台のプロになりたいな」

可愛いと言うより、頼もしい。頼もしさが可愛い。そんな反則がある。

レジを抜けて外に出ると、日が傾いていた。

「ねえ、主役って孤独?」

「急に深いこと聞いてくるね」

「ごめん。なんか聞いてみたくて」

「孤独というより…上手く言えないけど、とても静かで怖いかな。拍手の前は特に」

「静かで怖い?」

「私、その静けさを好きになりたいの。怖がるだけじゃなくて。……できるかな?」

「できるよ、きっと。素人の俺が言いうのもアレだけど」

彼女はカゴの取っ手を握り直して、小さく息を吐いた。

「そんなことないよ。国守君が言ってくれるなら、がんばれそうだよ」

講堂に戻ると、空気がきな臭いほど忙しい。

「国守、ペットボトル仕分け、手の空いた子に配れる?」「配れます」

「国守、養生マット、足りない。追加できる?」「できます」

「国守、ケーブル踏むなって紙、四つすぐ貼れる?」「貼れます」

照明補強はまた「あとで」。あとでは伸びる。伸びているのを知りながら、目の前の穴を一つずつ埋める。いまはそれが戦い方だ。

二回目の買い出し袋を片づけ終えた頃、姫宮が袖で手招きした。

「神楽鈴、ちょっとだけ見てほしいの。握りのところ、硬いかも」「見せて」

白布を広げ、彼女が柄を握る。俺は横から角度を見る。

「ここで跳ねて、袖側に一度返って、そこで音を置きたいの。置くっていうより、落としすぎない感じで」

「やってみる」

ちりん。丸い粒が空気の上で跳ねて、落ち着く。

「うん、こっちのほうが好き」

「好きが言えるなら大丈夫だ」

同じ言葉でも、今日は一段近くに届く。

「国守くんの大丈夫、好きだよ」

心臓に勝手な独立国家が旗を立てた。見なかったことにして白布で鈴を包む。

夜の気配が早い。窓の四角は薄くなり、内部照明が主役の座に戻る。

「国守、立て看、もう一枚作れる?」「作れます」

「国守、照明卓の下、通線カバー追加お願い」「了解」

ブースの下に潜ると床の埃が細かく光る。上の世界の足音が微細な振動で降りてきた。

「国守、砂袋……」「了解」

砂は世界のピン留めだ。そう思えば少しだけ愛せる。

本番用の最終調整が明日だとすれば、照明補強に割けるのは今夜と明日の朝の端だけ。計画の矢印を引き直す。点検→再締結→落下防止→角度再確認。全部を完璧にやるのは無理でも、危険点だけは潰せる。潰す。

「国守、休憩。ちゃんと休めよ」

いつの間にか隣に静が来ていた。紙コップを差し出し、短く頷くだけで去る。

無駄な言葉が一つもないのが、この人のやさしさだ。三十秒だけ目を閉じる。

瞼の裏でワイヤとクランプとトルクの数字が並ぶ。

寝るな。ここで寝たら遅れる。目を開ける。

姫宮がゼリーを持ってきてくれた。

「これ、さっき買ったやつ。甘いの、苦手じゃないよね?」「大丈夫」

「国守くん、昨日よりちょっと疲れてる感じだけど、目はちゃんと真っ直ぐ。そういうところ、すごいと思う」

「そ、そうか?」

頬が少し赤くなった。そして、少し噛んだのバレなかった。

作業は夜に寄りかかる。時間は伸びない。代わりに集中力が伸び縮みして、ときどき急に短くなる。

「国守、ケーブル束ね、もう一束いける?」「いけます」

「国守、導線の養生、やり直しできる?」「できます」

「国守、六番の砂袋、追加お願い」「了解」

六番の胃袋は底なしだ。

終業の直前、岡野先輩が短く言う。

「国守。明日の朝一でクランプの増し締め、やる。リストこれ。明日やればいいから。今日は帰れ」

「はい、お疲れ様です」

扉を出る前、姫宮が近づく。

「今日、ありがとね。紐も角度も、ほんとに助かったよ」

「まだ終わってないけど、進んだ」

「うん、進んだよ。ねえ、明日も少しだけ買い出し、付き合ってくれる?」

「いいよ」

「よかった。朝、集合したら声かけるね」

彼女は神楽鈴を胸に抱え直し、ほんの少し背伸びした。

「明日、ちゃんと鳴らすから。見ててね?」

「見る。大丈夫だ」

「うん」

袖の暗がりに消えたはずなのに、灯りの温度が一段上がった気がした。

廊下を歩きながら、スマホのアラームを三つに増やす。朝一、予備、予備の予備。寝不足は段取りで殴る。殴るのは鈴じゃない。

外へ出ると夜気が涼しい。今日の熱が少しだけ剝がれていく。砂の匂いが袖に残り、テープの糊が指に残り、彼女の笑いが胸に残る。

照明補強はタイムリミットの縁に立った。けれど、立つ場所は分かった。やることも決めた。あとは行くだけだ。

社の門をくぐる。灯籠が低く燃え、鈴は黙って丸い。

由香里が戸口で待っている。

「おかえりなさい。手を洗って、うがいして。それから食べて寝なさい」「了解」

湯気が目にしみる。椀の音がやさしい。布団に横になり、段取りの紙の角をもう一度だけ撫でる。

明日で間に合わせる。

眠りに落ちながら、心の中で繰り返した。

明日で間に合わせる。


<次回予告>

雑用に追われ、疲労がピークに達する叶 。開幕前夜、彼に許された時間はわずか。神託を防ぐため、たった一人で吊り物の「最後の増し締め」に挑む 。その時、講堂を揺れが襲う。

次回『第8章 最後の増し締め』

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