第6章 夜更けの鈴とネジ
〈開幕二日前・夜〉
講堂は二十時を過ぎても走り続けていた。黒パンチの端は反乱を起こし、平台は一本だけ個性を主張し、ガムテの芯は史跡みたいに床を転がる。
俺はケーブルをまとめ、砂袋を結び、仮タグを打ち、指先だけが現場の反対勢力になっていた。
数字は働き者だ。人間は帰宅したい。けれど今日だけは、誰も帰らない。
袖の空気は温い。ロープの繊維がこすれる音が細く続く。
照明ブースの窓からはカチカチというクリック。奥では音響がレベルを合わせ、舞台では転換の稽古が一周してまた最初へ戻る。
時計の長針は居残りの輪を描き、短針は時間外労働中だ。
「国守立ち位置シール 上手から三本」「了解」
しゃがむ。立つ。しゃがむ。立つ。
太ももがそろそろ抗議を始めた頃、袖の向こうで小さな音が跳ねた。
ころん。さらにころん。舞台上手に丸い影が二つ転がる。
姫宮沙希は神楽鈴を抱えたまま固まっていた。柄の根元で金具がねじれ、房がほどけ、鈴が一つ旅に出たらしい。
顔色は白背景に青い線。責任の色だ。
「大丈夫か?」
声が勝手に出た。彼女がこちらを向く。
「国守くん」
「貸してみな。直すよ。」
「直るかなぁ」
「直すから大丈夫」
舞台上でやると粉が落ちる。袖へ移動。避難と書いて修理場。
工具箱を引き寄せる。細いドライバー、真鍮線、布テープ、瞬間接着。
それからなぜかビー玉。ビー玉は戻した。
冠を外し、割れ目を確かめ、緩んだビスの頭を爪でなぞる。ねじ山が甘い。
貸し出しラベルは汗でふやけていた。
「ここたぶん三度くらい寝てる。受けの角が鈍ってる」
俺が呟くと、姫宮が遠慮がちに指先を伸ばす。
「ここの角度がね、できれば真上に跳ねる感じにしたいの」
「袖側に一度だけ返って、そのあと音がスっと落ちる感じで」
声は柔らかいのに、指の示す位置はぶれない。
真鍮線で小さな緩衝を作り、ビスは一度戻してから締め直す。
房を揃え、布テープで仮固定。最後に小さく振る。
ちりん。
音の粒が袖の暗さで丸く転がる。
「もう一回いいかな」
彼女は柄を握り直し、ほんのわずかに手首を上へ。
「……いけるかも」「ありがとうね」
「礼は本番のあとで。主役は帰還命令が出てるよ」
「分かってるのに舞台に残っちゃうんだよね」
彼女が笑う。弱いけれど真っ直ぐな笑いだった。
笑いが立ち上がるのと同時に、舞台の空気が少し澄んで見えた。
「国守、六番バトンの砂袋 倉庫から」「了解」
修理を終えた神楽鈴を彼女に渡し、俺は現実の重さに戻る。
六番は今日も食欲旺盛だ。砂袋は一つずつ重さが違う。
等分という幻想は日々裏切られる。
「国守 六番の砂袋もうひとつ」「了解」
「今度こそ最後」「了解」
最後はだいたい最後じゃない。
「七番も追加」「了解」
親戚が増えると腰が減る。今日の学びだ。
照明ブースのガラスを横目に通る。札にL3、L2。
立入禁止の紙が目を覚ましている。分かっている。
焦るな。今日は砂袋運びの等級を上げる日だ。
二回目の休憩。紙コップの水は湧水みたいにうまい。
「国守」照明の岡野先輩が顔を出す。
「ケーブル もう一本だけ引ける」「やります」
「走らない言われたこと以外はしない スイッチに触らない」「はい」
首がちぎれそうな勢いでうなずく。
黒い蛇を床に這わせ、テープで押さえ、曲線を乱暴に美しくする。足が引っかからない形、音がぶつからない形。
蛇の尻尾がパッチに吸い込まれる瞬間、指先から心臓へ小さな手応えが届いた。
「国守、仮止めタグ」「了解」
糊が指につき、指紋が消えかける。人権のほうは消えないでほしい。
「国守、脚立」「了解」
「器具の首を支えて角度変える落ちたら終わり」
岡野先輩が上で言う。
銀色の首をそっと支える。冷たい重さが掌に落ち、ネジが回る音が胸の奥の何かと同じ速度で回る。
「もう少し下……止めて」
固定。金属が軽く触れ合い、喉の奥で砂鉄の味が一瞬だけよみがえる。
だいじょうぶ。これは今。
未来はまだ呼んでいない。深呼吸を一度。
「よぉ、叶」
八幡大が袖から顔を出す。部活の帰りだろう。額の汗が元気だ。
「なんでこんな時間まで」
「砂袋の研究」
「砂の博士号ってあるのか?」
「院まで行けばあるかも」
「なら俺は持ち上げで共同研究だ。倒れそうなら呼べ」
二回目だ。二回言うのが友情らしい。
ありがたく、背中の筋肉が一段だけ軽くなる。
姫宮は舞台の端で、修理した神楽鈴をそっと鳴らしていた。跳ねる角度はさっきより迷いが少ない。
袖側に一度返って、音が落ちる。彼女の呼吸に合わせて、客席の埃までがもう一度だけ沈む。
あぁ、この人は大丈夫だ、と思う。大丈夫にするための細部を、ちゃんと見つけにいける人だ。
「国守、差し入れ 冷たいゼリー」「了解」
ゼリーは軽い。軽いのに救われる。糖分は心のグリスだ。
今日のメモは増え続ける。増えるほど眠気も増える。比率は一対一を越えた気がする。
瞼が防火シャッターみたいに重い。下ろすな。今は下ろすな。
二十一時が近い。ブースの中は機械の体温でぬるく、袖の空気は汗の塩でざらつく。
人は減らず、やることは増える。
「国守、ケーブル束ね」「了解」
輪の大きさを揃える。均一は美だ。照明の神もたぶん頷く。
「国守、導線の養生やり直し走ったら転ぶ」「了解」
貼り直す。テープの端が夜に負けないように。
「国守……砂袋」「了解」
言い終わる前に返事が出る。筋肉が先に動く。俺より賢い。
三回目の休憩は、儀式の簡略版だ。
紙コップに水を入れ、半分だけ飲んで、椅子に一分座るつもりが三分。
時計は誰かに伸ばされた。犯人は眠気。眠気はきっと全員の共犯だ。
「国守くん」
姫宮が袖に現れた。神楽鈴を胸に抱え、ほんの少し不安の影を残した顔。
「さっきの角度もう一回見てもらってもいいかな」
「もちろん」
作業台へ。粉が落ちないように白布を敷く。彼女が柄を握り、俺は横から見る。
「ここで跳ねて袖側に一度返って、そこで音を落としたいの。」
「落とすっていうより息を置く感じかも」
「同意なら受けを1ミリだけ立てる。帰り道に段差があると、鈴が勝手にしゃべる感じになるの」
「鈴が勝手にしゃべっちゃうのは困るなぁ」
「言葉の色が薄まる」
「うん。言葉の色はちゃんと濃いままでいたいの」
彼女の声が、ほんの少しだけ強くなった。
「それが言えるなら大丈夫だ」
言った途端、彼女の肩が一枚軽く落ちたように見えた。
神楽鈴が小さく鳴る。ちりん。丸い音。よし。
「国守 ケーブルもう一本」岡野先輩の声。
「了解」
立ち上がる瞬間、視界が一拍だけ暗くなった。すぐ戻る。
危険な合図だ。ポケットの飴を口に放り込み、糖分で信号を復旧する。
今日の俺は寝不足に片足ではない。膝まで浸かった。
ここで深く沈むと、明日のどこかで手元が滑る。それだけは避けたい。
「国守、今日はここまで」
岡野先輩の合図は唐突にやってくる。片付けへ移行。
灯体の角度が一斉に眠り、ブースの明かりが一つずつ落ちる。
「明日も頼む。言われたことだけ。いいね」「はい」
扉を出る直前、姫宮が小走りで近づく。
「さっきはありがとうね。直ったから、いけそうだよ」
「壊れたら直すよ。鳴らしたい形が分かってるなら、何度でも」
「……うん」
彼女は小さく会釈し、鈴を胸に抱え直す。灯りの外でも瞳が少し明るく見えた。
廊下に出る。樹脂の床が軽く軋む匂い。
遠くの非常口の緑が眠そうに瞬く。紙コップの水を一口だけ飲んで、今日をざっと数える。
砂袋たくさん。ケーブル数本。タグ無数。数字は曖昧でいい。
手応えだけ覚えていればいい。ライトまで二千里。単位はどうでもいい。
三分の仮眠が十分を守るなら、今日は勝ちだ。
校舎の外に出ると、夜風が汗を拾っていく。寒いより先に、袖に残った鈴の余韻が戻ってきた。
スマホのアラームを二つ追加した。明日の朝と、昼の五分。安全は眠気に弱い。眠気は段取りで殴れる。殴るのは鈴じゃなくて予定表だ。
家に着く前に、足が二段ほど躓いた。危ない。深呼吸をして歩幅を整える。
今日は線の上を歩く意識が甘い。ここで転んだら笑えない。
笑うのは舞台だけでいい。掌を広げて夜風を受け、指の間に残るテープの糊を確かめた。
べたべたする現実の手触りは、たぶん正解だ。
門をくぐると、社の闇は静かに明るい。灯籠は低く燃え、鈴は黙って丸い。
家の戸が開き、由香里が顔を出す。
「おかえりなさい。手洗ってうがいして、それから少しだけ食べて寝ること」
「了解」
短い命令はありがたい。台所で湯を飲み、パンを一切れだけ噛み、風呂の湯気で目を洗い、布団の上で明日の段取りをもう一度だけ撫でる。
落ちる直前、彼女の指先を思い出す。角度を指す、ためらいのない指。
それが言えるなら大丈夫だ。
心の中で復唱して、闇に潜った。
<次回予告>
姫宮の神楽鈴を直し、二人の距離が近づく 。翌日、買い出し班として行動を共にする二人 。だが講堂に戻ると、叶は「国守、〇〇」と雑用に追われ 、肝心の照明補強メモに目を通す時間がない 。
次回『第7章 昼の買い出しと、夜の段取り』
▶この続きは本編へ/応援・★評価・フォローで次話の励みになります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます