第2章 台本の余白

翌日の昇降口。マットの上で風がくるりと輪を描き、薄い冊子がひらりとめくれた。

拾い上げると表紙に太い字で『花鎮祭』。演劇の台本のようだ。

開けば、余白に細い字が寄り添っている。矢印が動線をなぞり、間 二拍の書き込みが控えめに並ぶ。

語尾の手前にだけ小さな印。呼吸の置き場所を忘れないための、見えない針の跡みたいだ。

「これ……無いと困るよな」

俺は講堂脇の演劇部室へ向かった。木と埃の甘い匂い。

返事のない扉を押すと、灰色の光が客席に溜まっていた。舞台袖の幕が半分開き、紙の音がぱらぱらと落ちる。

――その灰色の静けさの中、ひとりの女性が立っていた。

「すみません、これ、落ちてました」

台本を掲げると、彼女がこちらを向いた。

伏し目がちの瞳がゆっくり焦点を結ぶ。白い肌に舞台の埃が薄く光り、長い黒髪が肩で揺れる

制服の襟はきちんとしている。小さく結ばれた口元に、言葉の形がまだ残っている

視線が合うと、空気が一度だけ澄んだ。

胸の奥で何かが静かに反転し、世界が彼女を中心に回りだした。

「ありがとうね。さっきからずっと探してたの」

明るいけれど軽く跳ねない声。受け取る手がまっすぐで、迷いがない。その一動作で、中心に重りのある人だと分かる。

「演劇部?」

「うん。姫宮沙希、二年。いまは稽古の合間なの」

「国守叶。階段のところで拾って」

「これがないと呼吸が散らばりそうで」

姫宮は台本の背を親指でさすり、挟んでいたページを開く。

余白の線は細く、色も控えめ。大切な場所にだけ印が置かれている。

たくさん書くためではなく、迷わないための余白だ。

「ここ、祭文の前ね。怖くて、足が早くなっちゃうの」

彼女は立ち位置の白線へ一歩進む。でも早くすると空白が死ぬ。空白が死ぬと祈りが立たない。

言葉は小さいのに、床まで届く重さがあった。

「詳しくないけど、怖いのが普通なら、普通の顔で怖がるっていうのはどうかな」

「普通の顔で、怖がる……」

彼女は小さく繰り返し、舞台の中央を見る。

台詞を冒頭の一文だけ置いた。音は小さいのに、間が生きている。

二拍、もう二拍。客席の埃がわずかに沈んで戻る気がした。

「今の、ちょっと近いかも」

自分へ頷くように言って、台本を胸に抱え直す。

その仕草の静けさに、目が離せなくなる。胸のどこかが、彼女の呼吸のリズムに合わせられていく。

「これ、余白に少し書くんだね」

俺は台本をめくる。付箋が二つだけ貼られている。

片方には語尾,、止める、もう片方に上手、一歩とだけ。

必要な言葉だけが残っていて、その控えめさが彼女に似ていた。

「照明はここで一段だけ落としたいな。暗くしすぎると怖いだけになっちゃうから」

「一段だけ?」

「うん。言葉の色が見えなくなるのがいちばん怖いから」

そう言って、彼女は照明ブースの小窓を一度見る。

光の向きや強さを想像している横顔。舞台で迷わないために、舞台の外で迷い尽くしている顔だと思った。

「届けてくれて、本当にありがとう」

姫宮は台本の角をそっと合わせ、端を指で整える。

爪の先が紙の繊維をやさしく撫でる。その動きまで舞台の一部みたいに見えてくる。

「いえ。じゃあ、俺はこれで」

扉へ向かいかけて、足が止まる。まだ少しだけ見ていたいという衝動が、胸の奥で舌打ちした。

「待って、国守くん」

彼女が呼ぶ。

「昨日、階段で落としたとき、すぐ気付かなかったの。頭の中で祭文がぐるぐるしててね。気付くのが遅いと誰かに迷惑がかかる。だから助かった」

「大丈夫。俺のほうが助かった気分」

言ってから自分でも驚く。でも、それは真実だった。

少ない言葉と余白で舞台を支える背中を、目の前で見たからだ。

「さっきの普通の顔で怖がるってやつ、練習してみる」

「俺の案は素人の思いつきだけど」

「でも今はそれくらいの風がちょうどいい。考えすぎて硬くなるから」

彼女が小さく笑う。笑いは強くないのに、舞台の空気が少し明るく見えた。

光が増えたわけじゃない。彼女の中の灯りが上がったのだと思った。

舞台袖の暗がりで、彼女は一人で所作を繰り返す。

置く、待つ、引く。

その三つだけで世界を作ろうとしているのが分かる。

台本の余白は地図だけど、進む力はたぶん別のところにある。

怖さを認めたまま踏み出す足。あれが芯だ。

俺は手すりにもたれて、その反復に見とれていた。派手さはない。

けれど、湖にゆっくり広がる波紋みたいに、胸の真ん中へ届く。

彼女の灯りを邪魔しないように、そっと一礼して舞台を離れる。

帰り際、昇降口のガラス越しに夕雲が薄く伸びていた。

ポケットの中の手が汗ばむ。さっき触れた紙の感触が、まだ指に残っている。

明日も、ここへ来ようと思う。理由はうまく言えない。

ただ、あの空白を守りたいと、はっきり思った。

廊下は樹脂の床が少しだけ軋む匂いで満ちていた。ロープの繊維が袖でこすれる音が微かに続く。

埃の粒が一つだけ光を拾い、目の前でふわりと踊って消えた。その小ささまで愛おしいと思ってしまう自分に、苦笑いが出る。

階段を降りる踵が二段ほど躓きかけて、慌てて姿勢を直す。胸の鼓動が速いのは運動のせいだけじゃない。

扉を開ける前に振り向くと、舞台は静かに呼吸をしていた。

「また、来る」

声にはしないけれど、喉の奥でそう言った。夜風が頬に触れた。

冷たさより先に、袖に残った鈴の余韻が戻ってきた。

明日はもっと上手に見られる気がした。


<次回予告>

舞台の余白に「間(ま)」を求める姫宮沙希 。彼女の姿に惹かれ始めた叶の脳裏に、最悪の「神託」が流れ込む 。講堂を襲うノイズ、照明の落下、そして彼女の絶望 。

次回『第3章 鈴の止まる瞬間』

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