遠州七神社 失恋奇譚  叶、舞姫に恋す

雨野うずめ

第1章 九度目の夕焼け

放課後のグラウンド脇、風がベンチの影に落ちた

「ごめんなさい」

九度目の恋が終わる音は、拍手ではなく靴底の砂の擦れる気配だった

俺、国守叶(くにもりかなえ)は、ほどけてもいない靴ひもを結び直すふりで呼吸をちぎる

(……やっぱり、ダメかぁ)

砂の粒が一個ずつ靴底に貼りついて、歩けば外れて、また貼りつく。そういう往復の音だけが耳に残る。

顔を上げるタイミングをなくして、無意味に二回、蝶結びの輪をつまむ。輪は小さくなって、ほどけないから、たぶん大丈夫。たぶん、のところが大丈夫じゃない。

グラウンドの向こうでホイッスルが鳴り、風が一手遅れて頬を抜ける。視界の端で、夕陽がゴールポストの白を赤くする。

「大丈夫です」と言えばよかったのか、「ありがとう」で止めればよかったのか。

答え合わせの列だけが頭の中で混線して、正解はどれも、もう遅い。呼吸を一枚、浅く置いて、もう一枚。胸の奥で輪ゴムが切れる音がして、代わりに小さな空洞が残る。そこへ風が入って、出ていく。

「帰るか」

声に出してみると、少しだけ嘘が混じっていた。混ざり具合は、今日の湿度と同じくらい

影が二つ、日向を踏んで近づく

フレームレス眼鏡の奥で瞬きを整える琴坂静(ことさかしずか)と、肩で息をしながら表情だけは元気な八幡大(はちまんだい)

静は段取りと理屈で現場を動かすタイプ、コネと手順を淡々と束ねる秀才。

大はサッカー部のムードメーカーで動員力が正義、声と脚で状況をひっくり返す現場体質だ。

ふたりとも、俺の親友なんだけど……どうして、俺なんかとつるんでいるのか、わからない。

「二桁目前」静

「様式美!」大

「誰の芸なの、それ」俺

大のスパイクが砂を蹴る「なんで助けた相手に振られるのがデフォなんだよ」

「更新、九。統計上、君が誰かのお節介に介入した際の失恋確率は、これで限りなく百パーセントに近づいた」静

「その曖昧な言い方やめて」俺

「前回の保留が一。検定上はまだ誤差の範囲」静

「だから怖いんだってその医療と数学の合わせ技」俺

「治療なら今からできるぞ、走ろう」大

「走らない。ラーメンだ。味変は半分から」静

「どっちも治療とは言い難い」俺

グラウンドの向こうで部活の笛が鳴る

猫がベンチの下から出てきて、俺の靴先をくんと嗅いで去っていく

慰め拒否まで達成して、苦笑いがやっと喉を通った

三人で校門を出る

夕焼けが長く伸び、浜名湖の匂いが路地でやわらぐ

坂を下る自転車が風を作り、制服の裾がふわりといった

「で、今回は具体的に何した」静

「困ってたから手伝っただけ」俺

「それが『ごめんなさい』の別名だ」大

「内出血少なめ骨折」静

「例えが物騒」俺

「君の恋はガラス細工。梱包の段階で既に割れている」静

「せめてプチプチくらい巻いてこい」大

「具体的提案が乱暴」俺

商店街を抜けると、鳥居の赤が夕空に立つ。

脇の社号標には「遠州七神社」と刻まれている。

参道の石畳を踏むと、熱が一段やわらいだ。境内の砂に足跡が点々と続き、灯籠がぽつぽつ点る。

軒下の風鈴がひとつ鳴って、音だけ冷たい風が頬をなでる。鳥居をくぐるたび、背中の汗が少しずつ乾いていく。

石畳の目地に入りこんだ熱は、日陰で薄まり、靴底越しにやわらぐ。

手水舎で指先を濡らすと、指の節まで静かになる。額に触れた水の跡が、すぐ乾かないのがうれしい。

「お兄ちゃん、九回目おめでとう」

ピンと跳ねたサイドテールの巫女が、腕を組んで言う。

国守桜(くにもりさくら)。俺の妹で遠州七神社を手伝う巫女見習い、毒舌と世話焼きが同居し、兄の失恋カレンダーを淡々と更新すると自任している。

「おめでとうって言うな」俺

「でも事実。はい、飴。甘ければ甘くなる理論」桜

「根拠」静

「無い」桜

「実験系か仮説系かの区別すらない強度の主張だ」静

「いいの。お兄ちゃんは甘やかされて伸びるタイプ」桜

「甘やかされて伸びた結果が九回目なんだが」大

「うるさいな」俺

拝殿の鈴が夕風でわずかに鳴る

大が見上げて言う「殴れば鳴るやつ」

「殴るな。神様に謝れ」俺

「軽くなら」大

「議論の方向を間違えるな」静

「正解は『引く』。今は引かないけど」桜

くだらないが効く。胸の空洞に薄紙が一枚、そっとかぶさる

母屋の戸がすべり、国守由香里(くにもりゆかり)が現れた

由香里さんは、俺と桜の義母で、『遠州七神社』の宮司だ。

45歳だが若く見え、物静かで何事にも動じない『大御所』感がある人だ。

俺と桜の両親とは旧知らしく、両親を亡くして身寄りのない俺たちを引き取ってくれた。

「おかえりなさい。喉、乾いてるでしょ」

差し出された盆には湯呑みが三つ、エナジードリンクが一本

「静くんと大くんはお茶。叶さんはこれ」

「俺だけエナジードリンク?」「元気だしてね」

それ以上は何も言わない

視線で背筋を一度だけ正される

台所から湯の音が絶えず続き、家の呼吸みたいに境内へ広がった

縁側に腰を下ろすと、畳の匂いが少し甘い

湯気が目に届く前に、桜が言う

「お兄ちゃんは困った人をほっておけない種族」

「言い方」俺

「核心」静

「似合ってる」大

「褒め言葉なら受け取る」俺

「……好きになったんだからしょうがないだろ」俺は息の量で言う

由香里は聞こえたか聞こえないかの距離で、何も言わなかった

湯気が一段、高く伸びた

桜の拳が脇腹に軽く刺さる

「次って言うな、って言う前に、もう次へ行く顔してる」

「いってえ」俺

大が立ち上がる「よし、治療第二弾、ラーメンだ」

「講義名は『味変のタイミング論』。まずは素で半分」静

「店の張り紙には従うのが礼儀」大

「替え玉は講義外」桜

「ラーメンで単位出ないかな」俺

「出ない。でもスープは出る」静

「出るのは俺の涙だろ」俺

「塩分で傷口がしみるやつ」大

「しみさせないで」俺

参道を抜けると、虫の声が大きくなる

灯籠の橙が砂の粒を浮かせ、社務所の硝子に夕焼けの名残が揺れる

大が空を見上げる「九回目かあ」

「数えるな」俺

「数えるのは僕の役目だ」静

「やめて」俺

「やめない」静

「やめてあげて」桜

「採決。多数決。可決」大

「何を可決してるの」俺

「ラーメン行き」大

「結論は早い」静

戸口から由香里の声が落ちる

「門限までに帰ること。ニンニクは控えめにね」

「控えめは守る。替え玉はスープの顔を見てから」静

「替え玉は講義外」桜が二度目を押す

「了解」俺

四人で門へ向かう

足音が夜の青へほどけ、鳥居の向こうで町の灯が点々と繋がる

九回目の夜は、灯籠の橙と湯気の白、それからどうでもいい笑い声で、思ったよりもやさしく締められた


<次回予告>

九度目の失恋に沈む叶 。だが、彼が昇降口で拾った一冊の台本が、新たな出会いを引き寄せる 。舞台袖に立つ彼女の名は、姫宮沙希 。十度目の運命が、静かに動き出す。

次回『第2章 台本の余白』

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