第3章 鈴の止まる瞬間
神社の縁側で、ラーメン談義はまだ終わらない。
「味変はいつ入れる?」
「半分までは素で泳ぐ」静
「最初からニンニク少量。店の張り紙には従う」大
「俺は半分過ぎてラー油を2、3滴。昔の映画でやってたのを観て、やってみたら悪くなかった」
「気分という可変は事故の母だ」静
「事故って言うなよ。ラーメンで」
くだらない会話が、胸の空洞に薄紙を重ねていく。湯気は白く、灯籠は橙。砂利の乾いた匂いに夜の青が混じりはじめる。
盆がすべり、由香里さんがお茶を置く。
「ここに。熱いから気をつけて」
湯気が一段すっと伸びた。そこで、風が止まる。
拝殿の鈴の緒が糸みたいに細く震え、灯の光が針金のように引き延ばされる。空気が一枚裏返り、視界だけが水の底へ沈んでいく。
音は遅れて、俺の呼吸が置いていかれる。
——講堂。開演前日。最終通しの終わり。
拍手はまばらで、でも温度がある。舞台上に小さな安堵が降りる。
ザザ、とノイズ。映像が粒立つ。
床が低くうなり、誰かが言う。
「あ、地震」
天井のバトンが一拍遅れて軋む。金具が触れ合う微かな音。
また白が走る。
照明の影がわずかに伸び、一本が堪え切れずに揺らぐ。
落ちるガラスが細い雨になって降り注ぐ。
白い埃。暗転。
画面が擦り切れたみたいに乱れ、客席の息を呑む気配だけが残る。
舞台袖。部長の声は絞られた布みたいに細い。
「明日の本番は……中止だ」
姫宮沙希は台本を抱いたまま、膝から崩れる。欄外の秒数メモに埃が黒く貼りつき、指先が震える。声にならない。肩が小さく上下する。
そこまでで、映像は途切れた。
——境内。鈴は止まり、灯は丸い。湯気だけが変わらず立っている。
「ボーッとしてどうした、叶」大が身を乗り出す。
「顔色」静が短く言う。
「大丈夫。なんでもない」
口ではそう言う。心は逆を指している。
ここだけの話、俺には親友にも言えない秘密がある。
秘密の名前は『神託』。
由香里さんが教えてくれた。神社の奉納されている『七宝』のひとつ、『言祝鏡』が宿す不思議な力。『予知能力』。
なぜ、俺にそんな力が宿ったのか分からないけど、由香里さんが言うには、「能力が変形してる」らしい。
<好きな子を好きになると自動で発動し、その子の凶事が視える>
心が折れる場所、挫ける瞬間が視える。
便利かと問われれば、便利だけど悪いのは副作用だ。
俺がその未来に介入すると、その恋は絶対に叶わない。
統計は残酷に一致して、現在九戦全敗。
拍手は要らない。というか禁止で頼む。
でも、視てしまった。姫宮の、あの膝の落ち方を。
味変の理屈で言えば、俺の人生は最初からニンニクを入れ過ぎて店に怒られた客みたいなものだ。
ルール違反で舌もしびれて、スープも壊した。それでも、目の前のどんぶりを前に箸を置けるほど器用じゃない
困っている人を見たら、箸は勝手に動く。
ラーメンの話じゃない。いや、筋としては間違っていない。
俺は、困っている人を放っておけない種類だ。
というか、好きになった子が悲しむ姿は、見たくない。
「大丈夫」
もう一度だけ言う。静と大はそれ以上踏み込んでこない。
ありがたい。秘密にはふたが要る
内側は別の速度で走る。
講堂の吊り物。バトン。固定。落下防止。避難導線。チェックリスト。
俺の素人知識は頼りないが、知らないなら知ればいい。知らないを言い訳にしないのが、俺の悪い癖で、良い癖だ。
具体的にどうするかは、まだ分からない。分からないから、動いてから考える。
動けば、分かることが増える。
さっきの音。金具が触れ合う、あの微かな金属音。
それが今、講堂の埃っぽい匂いと混じって、喉に張り付いている。
過去の誰かのために走った時も、同じ味がした。間に合ったこともあれば、間に合わなかったこともある。
助けたあとに振られた痛みは時間で引く。助け損ねた後悔は引かない。
だから、走る。結果が同じ痛みでも、後悔よりは軽い。
「明日、講堂に行く」
心の中でだけ言って、顔は普通にお茶を飲む。
湯気が熱い。熱で余計な感情が少しだけ溶ける。
「味変は半分から」静
「半分まで辿り着けるかが問題」大
「途中でレンゲに沈むなよ」静
「沈まない。浮く。浮いたらすくってくれ」
他愛ないやり取りで、ふたの縁を補強する。
神託のことを、誰かに言う日はこないと思う。告げても効用がない。
視線の角度だけが変わって、距離が生まれる。それがいちばん嫌だ。
普通の顔で並んでいたい。
普通の顔。さっき姫宮に言った言葉が、自分に返ってくる。
普通の顔で怖がる。普通の顔で決める。
普通の顔で走る。俺は、そういう練習ならずっとしてきた。
境内の灯が一つずつ増える。提灯の赤が夜の端を染め、虫の声が層を重ねていく。
桜が縁側から顔を出す
「お兄ちゃん、湯冷めするよ」
「してない」
「してる顔」
「顔で判断するな」
「顔が全部しゃべってる」
ぐうの音は、だいたい正確だ。
立ち上がる。足の裏で砂利が鳴り、粒の並びが変わる。
世界の向きが、ほんの少しずれる。
時間は、まだある
灯籠の光が肌に薄く触れ、夜風が鈴の緒をほんの少し撫でる。
震えはもう細くも長くもない。ただの揺れ。現実の揺れ。
湯呑みを台所へ返す。由香里さんは何も訊かない。ただ湯をたす。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それで充分だ。言葉は増やさない。
玄関で靴を履くふりをして、紐を無意味に引く。心のどこかが、明日に向けて結び直される音を立てた。
夜空は少し曇っている。星は見えない。でも、どこにあるかは知っている。
見えるかどうかと、あるかどうかは別の話だ。
空を一度だけ見て、視線を戻す。目の前には、やることがある。
<次回予告>
彼女を助ければ、十度目の失恋が確定する 。それが神託の「決まりごと」。介入を強く止めようとする桜に対し 、叶は「それでも行く」と決意する 。
次回『第2幕 第4章 桜の手』
▶この続きは本編へ/応援・★評価・フォローで次話の励みになります。
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