第10話 夏の終わり(後編)


 あれは確か、中学に上がる少し前のことだった。


 詩貴は夏休みが終わる前になると、よく父から誘われて、ベランダから打ち上げ花火をながめていたものだった。


 幼い頃から病気がちで体が弱かった詩貴は、人の多い場所に行く機会がなく、代わりにこうして家族と過ごすことが多かった。


 鳴り響く破裂音はれつおんに驚いて思わずフォルテにしがみつくと、背後から父の笑い声が上がった。


 当時のフォルテはまだ仔犬だったにも関わらず、大きな音にも一切動じることなく、悠々ゆうゆうと尾を振り夜空に咲く大輪たいりんの光を見つめていた。


 ベランダの柵の隙間から通りを覗き込むと、夏祭りへと向かう人々が道へ列をしているのが目に入った。その光景はなんだか花火よりもまぶしく見えて、小さな胸がぎゅっと締め付けられるように感じたのを、今でもよく覚えている。


 思わずフォルテを抱きしめる腕に力を込めると、彼女は詩貴の様子をうかがうように頬をクンクンといだ。


 後ろの父から「一緒に行ってみるかい?」と聞かれたが、詩貴は首を横に振って嫌がった。彼は幼いながらも、既にああいった輝かしい世界は、まるで自分の身のたけには合わないものだと考えていたのだ。


 こうして遠く離れたベランダから、空に打ち上がった花火を眺めているだけでじゅうぶんだった。


---


 夏祭り当日。一足先に準備を終えた奏鳥は、自転車をこいで椀田家へと訪れていた。詩貴は予定より早い時間にインターホンが鳴ったことに、驚きながらも彼を出迎えた。


 すると、奏鳥のあまりにも分かりやすく期待に満ちた顔が視界に飛び込んだ。口元のゆるみを隠しきれていない彼に対し、詩貴は笑いをこらえながら支度したくを終える。


 二人が家から出る頃には、奏鳥は顔どころか身振みぶりにも期待が漏れはじめたのか、はやる気持ちを抑えられず、詩貴より一歩前をソワソワと走り始めるのだった。


 神社に近づくにつれ、道を歩く人の数が増えていき、詩貴は胸の内がざわつき始めるのを感じた。かつて身体も心もまだ小さかった幼い頃の自分が、おそれを感じていたあの喧騒けんそうが近くなっていく。


 かすんだように遠かった祭囃子まつりばやしの音は、だんだんと賑やかさを増して耳へと響いてきた。楽しげに拍子ひょうしを打つ太鼓の音に、詩貴の心臓もつられてはくを打つようだった。


「詩貴! 早く行こうぜ!」


 前方から聞き慣れた声が詩貴を呼ぶ。奏鳥は提灯ちょうちんの暖かな明かりの下で手を振って、その金の瞳も明々めいめいと輝いていた。


「待って、奏鳥!」


 詩貴は緊迫きんぱくした胸の内から、熱い空気を吐きながら走り出した。周囲の人々が派手にはしゃぐ奏鳥を微笑ましそうに眺めていたが、そんなことには目もれず詩貴は奏鳥の元へとけ寄った。


 ようやく彼へと追いつくと、詩貴は思わず奏鳥の腕を掴んでいた。


「わっ、何だ急に?」


 奏鳥は驚いたが、詩貴の心境を知って知らでか、突然のボディタッチに満更でもない様子でほほを赤らめた。呑気のんき紅潮こうちょうしている奏鳥に対し、詩貴は青ざめた顔で答える。


「置いていかれるかと思った」


「置いていくわけないだろ?」


 奏鳥はさも当然そうに、平然と笑ってみせた。詩貴はそんな彼の笑顔を見て、冷えかけていた胸の奥がじんわりと暖まるように感じたのだった。




 屋台の列へと入っていくと、人の数もどっと増えたので、二人ははぐれないよう並んで歩き始めた。隣の詩貴と周りの屋台をいっぺんに気にしているのか、奏鳥は落ち着かない表情で辺りをきょろきょろと伺っている。


 詩貴は小型の扇風機せんぷうきのように首を振っている奏鳥の隣で、ぼんやりと過去の記憶を思い返していた。


 あの頃、まだ自分と同じくらいの大きさだった愛犬に、必死にしがみついておびえていた自分。彼に今の自分の状況を話したら、信じるだろうか。


 そんな空想を脳裏に浮かべていると、ふと詩貴の視界にきらりとつやめく赤い光が映り込んだ。


「ねえ奏鳥、あれって美味しいのかな」


 思わず屋台を指さしてたずねると、隣の奏鳥も興味深そうに首を傾げた。


「りんご飴か。どうだろう。俺も食べたことないなあ」


「半分こしようよ」


 詩貴は言うや否やりんご飴の屋台へと向かった。


 あの日、ベランダの上から眺めているだけだった幼い自分が、ひそかにあこがれていた人々の行列。そのうちの何人かが、棒に刺さった綺麗な赤いたまを持っていたことを詩貴は覚えていた。


 会計を終えて実物を手にすると、彼は思わず感嘆かんたんのため息をついた。遠くから見ているだけだった景色が、今は目の前に広がっている。それどころか、その真っ只中ただなかに自分がいるのだ。


 りんご飴を手にしたままほうけていると、奏鳥が浮かれた様子で尋ねた。


「なあ、それどんな味なんだ?」


 詩貴は頷いて、試しに一口かじりついた。薄く包まれた飴がぱりんと割れると、続いてりんごのしゃくりという感触がした。


「……甘い」


 詩貴は目を見開きながらつぶやいた。味はとにかく甘いとしか言いようがなく、正直美味びみかと問われると微妙な所だった。しかし詩貴は落胆らくたんするどころか、不思議と愉快な気持ちで満たされていた。


 物欲しそうに視線を向けていた奏鳥にりんご飴を渡すと、彼は詩貴が食べた方の反対側へと豪快ごうかいにかぶりついた。


「ほんとだ。これ甘いなあ」


 もごもごと咀嚼そしゃくしている奏鳥の頬に、赤い飴のかけらが付いているのを見て、詩貴は笑みをこぼした。


「飴、くっついてるよ」と指摘すると、慌てて顔をぬぐい始めた奏鳥に「詩貴もついてるぞ」と言い返されたので、むしろ詩貴の方があせる羽目になってしまった。


 ハンカチで顔を拭いている間にも、奏鳥は「今度はしょっぱいものが良いなあ」と次の屋台を探し始めた。残りの飴を、再び顔に付いたりしないよう慎重に齧りながら、詩貴も後に続く。


 食べ進めていくうちに飴はぐらつきはじめ、いまにも棒から取れそうになってしまった。飴を落とさないように悪戦苦闘あくせんくとうしている間にも、奏鳥は前へと進んでいく。


 彼の背中と、こぼれ落ちそうな飴。両方に意識を向けていると、詩貴はそれ以外の景色を見る余裕がなくなってしまった。


 急いで食べ終えてしまおう。落ちそうな飴を、ハンカチを赤く汚しながら支えて噛みしめる。


 詩貴の意識はすっかり手元に向いていた。前を歩く奏鳥が、誰かを見つけたらしく、人の名前を呼んだことにも気がつかなかった。




「よお成谷! お前も来てたんだな!」


 不意に忌々いまいましいほど聞き慣れた声が耳に入り、詩貴の意識は一瞬で前方へと向いた。奏鳥の背中越しに伺うと、やはりその声の主はザネリ──沢根英里だった。


 沢根は相変わらず数人の友人達を連れて、軽薄けいはくな笑みを浮かべながら愉快そうに奏鳥へと話しかけている。


「成谷も来るなら誘えば良かったぜ。それとも……ああ。そっちに先約せんやくが居たんだな」


 どうやら沢根の方も、奏鳥の後ろに詩貴がいることに気がついたらしい。彼の表情が露骨ろこつけわしくなったことに、流石の奏鳥も気まずい空気を察したようだ。


「ああ、ええと……」


 奏鳥は眉を下げ、上手い返事も思いつかず、狼狽うろたえるばかりだった。詩貴は残った飴を一気に噛み砕き飲み込んでしまうと、顔を拭きながら彼の前へと乗り出した。


 詩貴の様子が以前と違い、やけに威勢いせいがいいことに、沢根は怪訝けげんそうに顔をしかめる。


「そう。今日は先約が居るの」


「ほう」


 りんと言い放つ詩貴のました顔を見て、沢根も意外に思ったのか口角を上げた。彼とまともに言葉を交わしたのは、はたして何年ぶりのことだろうか。詩貴も沢根も、互いにそう考えていた。


「そういうことだから。もう行こう、奏鳥」


 詩貴はわざとらしく微笑むと、冷えた空気を振り払うようにひるがえして、奏鳥へと手を差し伸べた。一連の光景に動揺しきっていた奏鳥は、思わずその手を握りしめた。


 するとそれを見た沢根が、まるではやし立てるように「ヒュウ」と軽快な口笛を吹いてみせた。


「へえ。ずいぶん“仲良し”になったんだな、お前ら」


 奏鳥は沢根のあおるような発言に、血の気がすっと引くのを感じた。にやにやと狡猾こうかつそうに浮かべられた笑みから、初めて彼の悪意を感じられた。


 沢根の隣の友人達もこれには流石にどよめきはじめ、部長にひじで小突かれた沢根は、「ああ、悪い」といかにも悪びれない謝罪を述べた。


 対して詩貴は、おくすることなく堂々と、奏鳥の手をかたく握り返す。


「そうだよ。僕らもう友達になったんだから。じゃあね」


 詩貴に腕を引かれ、奏鳥も小さく別れの挨拶をこぼしながらその場を去った。心臓がばくばくと鼓動する音が、奏鳥の耳の中で反響はんきょうしているようだった。


 背後からは「頑張れよ」という野次やじと、挑発するような口笛が再びヒュウと飛んでくる。気づけば奏鳥は後ろめたい気持ちで顔を真っ赤にして、泣き出しそうなほど瞳をうるませていた。


「どうしたの奏鳥? 大丈夫?」


 人気ひとけれて木陰に入った詩貴は、奏鳥の青い顔を覗いて驚いた。


「ああ、うん。大丈夫。ごめん……詩貴、手……」


 詩貴は奏鳥の手を離した。握っているうちに汗ばんでいたのか、夜風が熱を奪って冷えていくのを感じた。奏鳥も詩貴も、ようやく緊張が解けて、深くため息をついた。


「奏鳥は悪くないよ。僕の方こそごめん」


 詩貴の言葉に奏鳥は首を傾げた。


「どうして詩貴が謝るんだよ? さっきのは……」


「さっきのは」


 さえぎるように言い放った詩貴の顔は、何かを思い返しているのか、遠くを見るように目をせ、うつむいていた。


「……元を正せば、僕が悪いんだ」


 奏鳥は返す言葉が出て来なかった。彼が何かを言うより先に、詩貴は「今度ちゃんと話すから」と話題を逸らし、顔を上げた。


「だから、今日は一旦忘れてくれないかな。夏祭り、最初で最後かもしれないから」


 詩貴の切なげな笑みを見て、奏鳥も同じように微笑み返して頷いた。


---


 ヒュウ。ザネリのあの耳ざわりな口笛の音は、数年以上の時が経った今でさえ、頭から離れそうになかった。詩貴がまだ小学生だった頃──同じく幼かった彼は、よく詩貴をからかうときにあの口笛を吹いていた。


 詩貴が良い成績をとって教師に褒められたとき。持病のせいで授業に出られなかったとき。事あるごとに何処どこからかあの甲高い音が飛んできて、詩貴はその度に苛立いらだちを覚えたものだった。


 あまりに不快だったので、詩貴は教師に沢根を叱るよう頼んだこともあった。しかし、事態が良い方へ向くことはなかった。


 当時周囲の人々は、大人だけでなく同級生もふくめ、どこか沢根のことを避けている様子だった。彼が何かをしでかしてもまともに叱る者はおらず、その矛先ほこさきの大半が自分へと向かってくる。


『あの子は可哀想な子だから仕方ない』という理由で、詩貴は幾度いくども我慢を強いられた。


 幼かった詩貴には、あの頃の大人達が何故沢根をかばうのかが理解できなかった。しかし数年が経った今は、あの頃の大人達が何を考えてあんな対応をしていたのか、大体予想がつくようになっていた。


 大方おおかた、大人達からすれば、あの頃の彼は“面倒な人物”だったのだろう。噂に聞いた程度で詳細は知らなかったが、当時の沢根は家庭に深刻な問題を抱えていたらしい。


 裕福で円満な家庭で育った詩貴には、想像もつかない状況だ。クラスでさほど交友関係を持たなかった自分にすら、噂話が耳に入ったほどなのだから、実際に彼の置かれた環境は相当酷かったのだろう。


 大人達は優しさから沢根を庇っていたわけではなかった。ただ問題を抱えている人物への対応が面倒で、より恵まれた環境にいる詩貴の方が、少し我慢をすれば良いだけのことだと考えていたのだ。


 しかし当時の詩貴には、そんなことは理解ができなかった。むしろ、理解している今でこそ納得がいかなかった。


 もしもあの頃の自分が大人達の考えを知っていたとしても、その後にとった行動は変わらなかっただろうし、彼との関係も今と変わらなかっただろう。


 小学四年生の頃──あの失態しったいの舞台の少し前のことだ──いつものように口笛と野次を飛ばしてきた沢根に対し、詩貴はついに我慢ならなくなって言い返した。


 当時の詩貴が正論だと信じて放ったその言葉が、沢根には相当“いた”らしい。急に泣きじゃくって取り乱した彼は、その後中学に進学するまで学校に来なくなってしまった。


 たった一言、言い返しただけなのに。これではまるで自分の方が悪者みたいじゃないか。


『お前は賢いし能もある。常に正しいことを判断し主張できる。けれどそれだけで人生が上手くいくと思ってはだめだよ』──父の言葉を思い返す。


 一体、自分は何を間違えたのだろうか?


---


「詩貴!」


 隣にいた奏鳥に名前を呼ばれ、詩貴は我に帰った。顔を上げると、ちょうど花火が打ち上がったところだった。


 真っ黒いそらの中で、かがやが盛大な音を鳴らしながら弾け飛んでいく。


 綺麗だ──次々と上がってくる花火たちは、さっきまで詩貴の頭の中をおおっていたもやのような考えを、全て吹き飛ばしてしまうかのようだった。


 するとどこからか、誰かがわあっと歓声を上げるのが耳に入った。提灯ちょうちん薄明うすあかりに、花火の鮮彩せんさい明滅めいめつしながら入り混じる。辺りはすっかり賑やかさを増していた。


「やっぱ花火って、でっけえ方が綺麗だな」


 ふと奏鳥が呟いた。先日の手持ち花火のことを思い出したのだろう。横目に見やると彼の黄金色の瞳は、まるで現れては消えていく光の一粒一粒を、全て収めようと瞬いているようだった。


 自分も、今にも過ぎ去っていくこの楽しいひと時を、しっかりとその目に焼き付けよう。詩貴は奏鳥へと一歩近づいた。


「うん。打ち上げ花火をこんなに近くで見たのは初めてだ」


 自宅から遠目に眺めていたときよりも、よほど大きく見える花火の下で、詩貴は輝く空をあおぎ見た。次々と色を変えていく光が、彼の青灰色せいかいしょくの視界をいろどっていく。


「本当に綺麗だ。……けど僕は、やっぱり奏鳥と見た河原の花火も綺麗だったと思うよ」


 奏鳥は詩貴の言葉に驚き、思わず隣にいる彼の顔を覗き見た。


 詩貴にとっては、奏鳥と遊んだあの河川敷の手持ち花火も、今しがた眺めているこの大輪の打ち上げ花火も、どちらも比べようがないほど美しく見えているのだろう。


 バイオレットブルーの瞳に花火の色彩が反射して、いつもは伏せがちな詩貴の表情はきらきらと明るくともっていた。夏の夜の暑さでほんのりと赤く染まった頬を少し上げ、詩貴は楽しそうに微笑んでいる。


 彼の笑顔を見ていると、やはり奏鳥は心がたかぶり、どこか気持ちが落ち着かなくなるのだった。先程沢根に煽られたときとは違う意味で、またも心臓がばくばくと高鳴り始めた。


『ずいぶん“仲良し”になったんだな』──今は空いている右手から、さっきまで繋がっていた詩貴の温もりを思い出す。この胸騒ぎは、やはり恋心なのだろうか? ああしかし、彼は自分と同じ男性じゃないか! 男の子に恋なんかしてしまったら、母さんにどう説明したら良いのだろうか。


 “ママ、貴女を泣かせるつもりじゃなかったんだ”──不意に、放浪者の狂詩曲が脳裏を過ぎる。“どのみち風は吹くんだ”──揺れる奏鳥の背中を押したのは、やはり英雄その人だった。


「なぁ、詩貴」


 無意識に上ずる声で尋ねると、詩貴は無邪気そうに笑って振り返った。


「どうしたの?」


「あ、あのさ……俺、言いたいことが……」


 緊張で張りけそうな胸を押さえて、奏鳥は必死で言葉を選ぼうとした。何から伝えるべきだろうか。そもそも、この気持ちは彼に伝えてもいいのだろうか?


 まごつく奏鳥を見て何を思ったのか、詩貴は微笑みながら首を傾げた。


「大丈夫? なんだか顔が赤いみたいだけど。夏風邪でもひいちゃった?」


 奏鳥は勢いよく首を横に振った。赤面しているのが詩貴にバレているとわかってしまうと、彼のあせりは余計に積もるばかりだった。このままでは更に気まずい空気になってしまうだろう。


 勢いに任せて奏鳥は口を開いた。


「詩貴! 好き……」


 瞬間、詩貴が目を見開いたように見えて、彼は慌てて言葉をつむぐのだった。


「……な、人とか、いる?」


 言ってしまってから、奏鳥は頭の中でがっくりと項垂うなだれた。好きだとはっきり告白する度胸もなければ、言わずにとどめておく理性もない。どちらにも転べず、つい中途半端なことを言ってしまった。


 やっぱり今の言葉は聞かなかったことにしてほしい。そう言おうとする前に、詩貴は突然けらけらと笑い始めてしまった。


「っふふふ……」


「な、なんで笑うんだよ?」


 狼狽うろたえている奏鳥はさておき、詩貴はかぶりを振った。


「ううん、ごめんね。馬鹿にしているわけじゃないよ。急に話が逸れたから笑っちゃった。あいにくだけど、僕は恋のアドバイスとかはできないよ」


 どうやら詩貴は、奏鳥が恋愛関係の助言を求めているものだと勘違いしたようだ。彼はおかしそうに笑いながらも、その表情には少しづつ陰りが差していく。


「……詩貴?」


 奏鳥が心配そうに眉を下げると、詩貴は深く頷いた。


「僕、今までちゃんと人を好きになったことがないんだ。好きな人なんていたことがないし、参考になる話はできないよ」


 何かを思い返しているのか、やがて詩貴の表情がうれいをびていく。今の奏鳥には彼のそんな顔さえも、どこかはかなげで、愛しく感じてしまうのだった。


「昔……中学の頃だったかな。付き合っていた女の子がいたんだけど、すぐに別れちゃって。あれからもう、誰とも付き合わないって決めてるんだ」


 どこかで聞いたような話だった。奏鳥が思わず「どうして」と小さく尋ねると、詩貴は神妙しんみょうな面持ちのまま話を続けた。


「向こうから告白されて……最初は断ったんだ。僕は人付き合いが下手な方だし、うまく付き合える自信なんてなかったから。けれどその子はあんまり必死だったから……つい、可哀想かな、なんて思って。好きでもない子と同情心で付き合うなんて、僕の方が間違っていたんだ」


 周囲が打ち上がる花火にき立つ中、二人の間の空気だけが静まり返る。奏鳥は黙って詩貴の話に聞き入った。


 詩貴の心境は痛いほどわかる。真面目で心優しく、不器用で臆病な彼のことだ。頼まれたらつい受け入れてしまうのだろう。それがたとえ詩貴自身の本心ではなかったとしても。


「それに、もしかしたら付き合ううちに、本当に彼女のことを好きになれるかもしれないって思ったんだ。けれど、間違ってた。僕は付き合うどころか、手を握るのも怖かったし、会話をするのさえ苦しかった。彼女も僕が嫌々付き合ってるってことに、すぐ気がついたんだと思う」


 詩貴は脳裏に浮かんだ過去の記憶を、入れ替えるように深く呼吸した。屋台の食べ物と、火薬の匂いが入り混じる、少し湿った暑い空気が胸の内を満たす。詩貴の顔色が再び明るくなった。


「『ちゃんと私のこと好き?』って聞かれて、その度に僕は心にもない『好きだよ』って言葉を言って。そんなことをしてたから、最後には『あなたを好きにならなければ良かった』なんて言われちゃった。そりゃそうだよね、僕なんか良い人のフリをしたくて、ずっと嘘をついていたんだから」


 わざとらしくおどけて笑いながら、詩貴は吐き出すように言いきった。彼の切なげな笑みに、奏鳥は胸が締め付けられるような気持ちになった。


「ね、ひどいやつでしょ。ごめんね奏鳥、せっかく聞いてくれたのに役に立てなくて」


 まるで仮面を被ってつくった笑顔に、小さなひびが入っていくように見えた。奏鳥が何も答えられずにいると、詩貴は取りつくろうように空を仰ぎ、話をすり替えた。


「あぁ、そうだ。奏鳥の言いたいことって何だったの? もしかして、また好きな人ができたの?」


 期末テストの頃のことでも思い出したのだろう。詩貴は今度は作り物ではない、純粋な笑みをして尋ねた。奏鳥は俯きながらかぶりを振る。


「ううん。やっぱりいい。言う必要、なくなったから」


 一体何のことだったのだろうか。詩貴が呆気あっけにとられていると、奏鳥は振り払うように空を仰ぎ見た。


 詩貴も今一度空を見上げる。頭上で花開く光の輪は、二人のぼんやりとした陰りを照らし、小さな窮愁きゅうしゅうなんかはかき消してしまうのだった。


 ふと、いつの日か沢根が言っていた、『恋と愛は違うものだ』という言葉を思い出す。奏鳥は、詩貴に言いたくて仕方がなかった『好きだ』という気持ちを、心の奥へとしまい込んだ。


 こんな欲求じみた恋心は、ほんとうに詩貴のことを想うなら、隠しておくべきだ。優しい彼のことだから、もしもこの気持ちを打ち明けてしまったとしても、きっとこばまないだろう。そうしたら、彼には代わりにもっと辛い思いを強いてしまうのだ。


 すると不思議なことに、奏鳥の頭の中はすっきりと晴れて、心の中は暖かく満たされていった。これが恋ではなく、愛だというのだろうか。


 その暖かさがあまりにも胸の中をいっぱいに満たしているので、奏鳥は少しだけ息苦しいと感じていた。




「そうだ。僕も奏鳥に言いたいことがあったんだ」


 たった今思いついたように、隣の詩貴が呟いた。


「奏鳥。僕……やっぱり奏鳥と一緒に音楽がしたいよ」


 唐突な詩貴の言葉に、奏鳥は狐につままれたような気分になった。


「なんだよ改まって。もう、既に一緒じゃないか」


 詩貴は首を横に振る。奏鳥と同じ夜空を見上げて、同じ光をその目に宿やどすうちに、彼の中にはある決意があふれてくるのだった。


「ううん。僕の方は違ったんだ。僕は今までずっと、奏鳥の音楽への熱意に、ただ便乗してついて行ってるだけだった。けれど、本当は憧れていたんだ。君みたいになりたかった」


 詩貴の口から自分に対し、憧れという単語が向けられたことを、奏鳥は意外に感じていた。


 しかし言葉を紡ぐうちに詩貴の声は強張っていき、さらに熱意が込められていく。


「奏鳥は、君自身はそんな風に思っていないかもしれないけれど……初めて君の歌を聴いたときから、ずっと凄いって思っていたんだ。奏鳥のことは、自分なんかよりずっと上の人だって思ってた。だから今までは、奏鳥の後ろをついていくだけで満足してたんだ」


 そんな。そう声に出しかけて、奏鳥は口をつぐんだ。詩貴は奏鳥が思うより、ずっと立派なはずだ。けれど彼は、ずっと勇気が足りなかった。そんな詩貴が、今は懸命けんめいに前に進もうとしている。


「今は、一緒に進みたいって思ってる。奏鳥の、隣で音楽がしたい」


 奏鳥は思わず詩貴の手をとった。堅く握り返す詩貴の手は、前よりずっと熱くなったようだ。


「一緒にやろう、詩貴。俺、やっぱりお前のことが好きだ」


「ありがとう、奏鳥。一緒に頑張ろう」


 奏鳥の言葉に、詩貴は嬉しそうに応えた。勢いで口から飛び出していった奏鳥の『好きだ』という言葉は、詩貴には恋愛感情として受け取られなかったようだ。


 それでも良い。むしろそうであって欲しい。奏鳥は喉元のどもといっぱいにまで込み上げる暖かさが、目蓋まぶたからあふれ出てしまわないように、視線をひたすら花火の光へとそそいだ。


 光の花びらが、音を立てて散っていく。夏が、終わっていく。

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