第10話 夏の終わり(前編)
楽しい時ほど早く過ぎるものだ、という言葉を耳にしたことがあるだろう。
彼らは先日共にしたボレロのセッションを
奏鳥は詩貴の家に、
成谷家がブルーレイどころかDVDですらなく、VHSのビデオデッキを使っていたことに、詩貴は『生きた化石だ』と驚いた。
寝る時も、ベッドではなく薄い敷布団に、それも一枚の狭さへ二人一緒に寝ることになったので、朝を迎える頃には詩貴の関節はすっかりカチコチになってしまった。
それでも友達の家に招かれるのが初めてだった詩貴は、少々くたびれたものの、帰宅するのが
余談だが、突然の
『御坊ちゃまにこんな汚い部屋を見せるなんて恥ずかしいじゃない!』などと言い、既に訪れている詩貴を玄関先に待たせてまで掃除を始めようとした際には、奏鳥は実の息子いえど母に呆れかけてしまった。
そんな彼ら二人の音楽性は、どちらかというと真逆に近い。しかしその
奏鳥は詩貴の好きなクラシックやテクノ音楽を通じて、音楽基礎の
ジャンルは違えど、音楽というものはいつだって人の心を揺さぶり、影響を与えるものなのだった。
そしてある日。奏鳥はまるでもう
その日の詩貴は午前中に何やら用事があるらしく、午後まで不在になる予定だった。その間奏鳥は自主的に詩貴の音楽教材を借りて、彼の帰宅を待ちながら勉強をすることになっていた。
遊ぼうとすり寄ってくるフォルテをやんわりといなしつつ、奏鳥は目の前の教材に向き直った。
コード進行のルールを一から学ぶのは、なかなか骨が折れた。何しろ覚える量が多すぎる。その上ドミナんとかだの、ツーなんとかだの、コード進行の世界は奏鳥の苦手なカタカナ言葉のオンパレードだった。
奏鳥は必死に理解を深めようと集中しながら、要点をノートへ書き写し、アウトプットを重ねることで情報を脳裏へ焼き付けようとした。
しかし
しかし当の奏鳥はというと──もちろん悪事を働くつもりは
奏鳥は、まるで冒険気分でリビングから順に家じゅうを観て周った。最新式の家電やいかにも高価そうな家具の
二階には確か、
一体どんなものだろうと思いながら吹き抜け階段を登りきると、早速目の前に広々としたベランダへ続くガラス扉が広がった。
ガラス扉越しに見えるベランダには、観葉植物が美しく整えられている。きっと丁寧に育てられているのだろう。奏鳥は思わず誰も聞いていないにも関わらず、「おぉ!」と声を上げて驚いた。
続いて奏鳥は書斎へと立ち寄った。詩貴の部屋は驚くほど物がなく
その中には詩貴の父が仕事に使っている資料も置かれているらしいので、奏鳥はそういったものからは視線を
ふとその中で、古そうな本が多く
奏鳥はその
棚に仕舞われている書籍は、どれも
どの本も背に触れるとカバーがざらついており、やはり古さを感じられる。しかし破れや
中学時代は図書館に通い詰めて勉強をしていた奏鳥は、本のことなら多少は自信があるつもりでいた。しかし、やはり上には上がいるものだ。この見知らぬ作家の本達は、詩貴の趣味なのか、それとも彼の父親の趣味のどちらなのだろうか。
いずれにせよ、椀田一家は家族ぐるみで
宮沢賢治。確か、詩貴と初めて放課後に挨拶を交わしたとき、彼が読んでいた“銀河鉄道の夜”の作者の名前だ。
あの春の夕方のことなら、今でも鮮明に思い出せるほど印象強く残っている。奏鳥はなんとなく惹きつけられたように感じ、不意にその本を手に取った。
表紙には“
宮沢賢治といえば、奏鳥にとっては“雨ニモ負ケズ”や、“やまなし”や、“注文の多い料理店”のような、教科書によく載っているお
しかし春と修羅に関しては、ページをめくれどもめくれども、初めて見る詩ばかりだった。賢治という人物は早死にだったと聞いていたが、彼は亡くなるまでに相当な数の作品を世に送り出したようだ。
ぱらぱらとページをめくり続け、奏鳥の目にようやく
読み進めると、やはり見覚えのある、独特な表現の言葉
中学の頃の授業に想いを
確か授業でこの詩を習ったときは、ここは“天上のアイスクリーム”という表現だったはずだ。これも独特の言葉遣いだったので、よく覚えていた。
奏鳥は改めて詞を読み返した。“兜率の天の食”──読めないはずのその言葉が、何故か奏鳥の頭の中で、ある一つの記憶を掘り起こそうと働きかけてくるように感じた。奏鳥は以前どこかで、この言葉を聞いた記憶があるのだ。
頭の中をめぐる雑音を、手探りするように
『私がいつか“トソツノテンノジキ”となり……』
いつだったか、聴いたことのある旋律が奏鳥の記憶を呼び覚ました。目の前の詩の題名を
永訣。永訣の朝だ。ずっと奏鳥の心に刺さり続けていた、あの小さな魚の骨だ。
あの日電子の世界で、中学生の作曲家が残した
詩貴だ。あの永訣のピアノは、やはり詩貴だった。
奏鳥は、書斎の
---
「驚いたよ、まさか人の家を勝手に“探検”するなんて。フォルテもどうして止めなかったのかなあ」
スーツ姿で帰宅した詩貴は、呆れた顔で一人と一匹を見下ろした。奏鳥もフォルテも、いかにも申し訳なさそうに
詩貴は自分が帰ってくるなり、二階から奏鳥が慌てて階段を降りてきたのを見て、まずは
良くも悪くも正直者の奏鳥は、詩貴が問い詰めるとすぐに
奏鳥を見つけたのが自分だったから良かったものの、これが父だったら彼はどうなっていただろうか。奏鳥には現代社会においてプライバシーがいかに重いものであるか、改めて説明をする必要がありそうだ。
詩貴が思わず再びため息をつくと、しょぼくれている奏鳥の隣でおすわりをしているフォルテが「くぅん」と鳴いた。二人
「ふふ、もういいよ。奏鳥、フォルテ。とりあえず本は元の場所に戻してこよう」
「ごめん、詩貴。ありがとう」
奏鳥が
「それで、どうして春と修羅だったの?」
本を書斎に戻してから、詩貴は改めて奏鳥に尋ねた。奏鳥は何から説明しようか迷ってしばらく考え込んだが、やはり単刀直入に聞こうと思い切った。
「詩を読んでたんだよ。その中に一個、気になる表現があってさ」
詩貴の方も何かを察したらしい。はっと見開かれた
「なぁ詩貴。もしかして──」
防音室が置かれている部屋のパソコンとシンセサイザーは、しばらく使われていなかったため少々埃が被ってしまっていた。
奏鳥と詩貴は二人
「これだよ」
パソコンの起動を終えると、詩貴は作曲ソフトと楽曲のデータを開いてみせた。いくつかの横棒が画面に並んでおり、その一つ一つが音の高さや長さを表しているらしい。
初めて見るDTMソフトウェアを、奏鳥が物珍しそうに眺めていると、隣の詩貴は「本当はね」と
「このデータも、投稿したアカウントも、消してしまおうかと思ってたんだ。けど、できなかった」
二年前、
遺作だなんて
「消さなくて良かったよ」
詩貴が顔を上げると、奏鳥は
「詩貴。お前は前に、俺に『“君には”才能がある』って言ってくれたじゃないか。この前だって、『僕なんか』とか言って
奏鳥は自身の胸に手を当てた。熱い想いが心臓に込み上げるのを、押さえつけるようにシャツをぎゅっと握った。
「俺だって、詩貴の音楽に
晴れやかに笑顔を見せてそう宣言する奏鳥に、詩貴は
喉元にまで込み上げる切なさを飲み込んで、無意識に
午後はそれぞれ楽器の練習をしながら、二人は今後の
今まで奏鳥は、
“自分たちの”オリジナルの楽曲も作りたい。奏鳥が瞳を輝かせながらそう言うと、詩貴は少しだけ照れ臭そうに頷いた。
とはいえ、奏鳥は作曲に関してはど素人だし、詩貴だって二年のブランク持ちだ。すぐに曲が浮かんでくるはずはなく、二人は揃って首を傾げながら鼻歌を歌ってみたり、
が、やはり出てくるメロディはどれもどこかで聴いたことのあるようなものばかりで、しっくりとこないのだった。
「なあ詩貴。一旦気分転換しないか? このままこんな狭い部屋に居続けても、いいメロディは浮かんでこないと思うんだ」
日が暮れはじめた頃に、不意に奏鳥がそう言い出した。
「いいけど、何をするの?」
ほんのりと詩貴の表情が明るくなったのを見て、奏鳥はうきうきと前のめりに立ち上がる。
思わずのけぞった詩貴へと向けて、彼は幼い子供のようにはしゃいでみせるのだった。
「花火しようぜ! 夏なんだからさ!」
詩貴は奏鳥の突拍子もないアイデアに、一瞬呆然としかけた。しかし、夏休みの夜に友達と花火という、いかにも青春めいたシチュエーションに憧れる気持ちがないかというと──やはり、そこは彼も年頃の少年だ。
無意識に口角を上げ、詩貴は首を縦に振った。
---
「水バケツよし、ゴミ袋よし、周囲の安全よし、見晴らしもよし。ええっと後は……」
「奏鳥。点火用のろうそく、倒れちゃってるよ」
奏鳥は、
そうしてようやく立ったろうそくは、石の山から斜めに頭だけを突き出して、なんだか格好がつかないのだった。
二人は椀田家近くのコンビニを経由して、人気のない
二人は
ふと見ると、花火を手に持った奏鳥が浮かない顔をしているのが目に入る。
「あれ。奏鳥、一本づつ点けるの?」
詩貴は尋ねた。花火セットを買う前は、手持ち花火を一度にたくさん点けたいと豪語していた奏鳥だったが、彼はいざ実物を前にして何を思ったのか、一本の花火を持って顔をしかめているのだ。
「いや……これ、一本30円くらいするんだよなって思ったら、やっぱり
奏鳥は数学が苦手なはずなのに、お金が
「お金なんか気にしないでいいよ。困ってるなら僕が
それでも奏鳥はうんうんと悩んでいるので、詩貴は花火を数本
奏鳥はさっきまで『危ないからやめなよ』と自分を止めようとしていたはずの詩貴が、急に思いきった行動に出たことに驚いた。
「わわわっ! 何してんだ詩貴!」
「あははっ、煙がすごいよこれ!」
左右の手で二本づつ花火を構え、それらが思いのほか激しく火花を上げることに驚いたのか、詩貴は奏鳥から距離を取りながら笑ってみせた。
最近の詩貴はずいぶんと
すすき花火はジュワジュワと音を鳴らし、火花を色とりどりに変えながら、華やかに光を散らしていく。二人はきらめく光景に心を踊らせて、ときどき煙にむせたりしながら一時を楽しんだ。
奏鳥は興奮のあまり調子に乗ったのか、花火を振り回してはしゃごうとしたので、結局詩貴は慌てて『危ないからやめなよ』と彼を止めることになった。
その後は火花が危なくないようにと、花火は
水面に光を映しながら激しく飛び散る火は、川の水へ落ちるとたちまち消えていく。そんな
やがてすっかり暗くなった河川敷で、二人は花火セットの締め
二人とも砂利の上で向かい合って
夏休みの夜に友達と花火。いかにもなシチュエーションの
今まで夏季休暇の終わりを
唯一の違いは、彼の存在だろう。この胸に込み上げる淋しさの正体は、楽しい時間への
そう考えを
「そういえば」
花火を見て、不意に詩貴は思い出した。口を開くと、驚いた奏鳥が「うわっ」と姿勢を崩してしまった。
詩貴もつられて動いてしまい、二人の火は砂利の影の中へと消えてしまった。
「ああっ、急に話しかけるから落としちゃったじゃんか」
「話しかけただけなのに驚きすぎだよ。真っ暗になっちゃったね」
詩貴は言いながら平然と懐中電灯を取り出した。夜の闇の中を急にライトの強い光に照らされて、奏鳥は反射的に身構えた。
「うおっ、
「うん。花火を見て思い出したんだけど、そろそろ夏祭りの時期だと思って」
奏鳥はああと納得して頷いた。中学からは行かなくなって久しいが、毎年八月末になると近くの神社が祭りを
夏祭りではたった今詩貴が連想した通り、花火も打ち上げられる。観光地や都会の花火大会なんかと比べると規模はだいぶ小さいものの、地元では評判の行事だった。
懐中電灯を持つ詩貴は、あの楽しげな祭りのことを口にしながらも、その視線は低く伏せていた。
奏鳥は思わず尋ねた。
「行ってみるか? 夏祭り」
彼の問いに、詩貴は黙ったまま顔を上げた。しばらく瞳を
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