第11話 永遠《とわ》の誓い(前編)


「成谷、この前は悪かった」


「えっ? 何が?」


 新学期登校初日の朝。真っ先に奏鳥へ声をかけたのは沢根だった。いきなり頭を下げられたので、わけもわからず呆然ぼうぜんとしていると、沢根は拍子ひょうし抜けした様子で顔を上げた。


「おいおい成谷、まさか覚えてないのか? 夏祭りの事だよ。俺、成谷にひでえこと言っただろ」


「あー……そんなことあったっけ」


 奏鳥は首を傾げた。あの日確かに彼は、夏祭りに二人きりで訪れていた奏鳥と詩貴へ向けて、あおるような態度をとっていた。


 あの時の沢根は狡猾こうかつそうににやにやと笑みまで浮かべていた。しかし今は何故か、急に別人になってしまったかのように弱気な様相ようそうで眉を下げている。


「……成谷はそういうの、あんまり気にしねえタイプなんだな」


 そう呟く沢根の顔は、むしろ自分の方が悲しんでいるかのように見えた。


「けど、埋め合わせはさせてくれよ。何かおごるでも良いし……この借りは必ず返すからさ」


 言うが早いか、沢根は気まずそうにそうげると、自分の席に戻っていってしまった。


 奏鳥が彼の背へと向けて「ああ、うん」と煮え切らない返事を投げかけると、沢根は黙って手を振り返した。


 やはりその背もどこか影を負っているようで、沢根のほうが余程よほど落ち込んでいる様子だった。


 奏鳥は入学したばかりの頃の、まだ隣の席の友人だった彼のことを思い返した。あの頃の沢根からは、気さくな明るい人物という印象ばかりを受けていた。


 しかし、ここ最近の彼はどこか様子がおかしい。先日は奏鳥の背筋を冷やすほどの悪意をちらつかせたかと思えば、今は気づまりした様子で顔を青くしているのだ。


 ふと、鞄の中に入れていたギターピックを取り出して、奏鳥は再び思案しあんした。これは沢根が夏休みに、奏鳥の誕生日プレゼントとしてくれた贈り物だ。


 奏鳥は沢根のことを、少なくとも悪い人物ではないと考えていた。けれども、あの夏の夜に垣間かいま見えた悪意も、確かに彼の一部なのだろう。


 恐らく、詩貴がかつてそうだったように。沢根もどこかに不器用な問題を抱えているのではないだろうか。


 ただ一つだけはっきりとわかるのは、その問題は奏鳥にはどうすることもできないということだった。




 午後のホームルームを終えた後。ふと前の席からため息が聞こえ、奏鳥は顔を上げた。


「どうしたんだ、詩貴?」


「どうしたもこうしたも……体育祭だよ。出ないと駄目かな……」


 振り返った詩貴はあからさまに疲れきった顔で呟いた。先程ホームルームで議題に上がった体育祭の話だ。


 彼にあまり体力がないという話は以前から耳にしていたが、詩貴がここまで露骨にいやそうな顔を見せるのは初めてだった。


「駄目っていっても、最低一種目だぜ? 一個ならなんとかなるんじゃないか?」


 共高の体育祭は一人一種目以上の出場が原則として決まっていた。運動が得意な者は複数目出場することもあり、奏鳥もたった今どの種目に立候補するかを悩んでいた所だった。


 とはいえ、その悩みの方向は詩貴とは真逆のものだ。


「その最低一種目が問題なんだよ。僕は走るのも遅いし、筋力もないし、コントロールも下手だから……リレーも綱引きも玉入れも、どれを選んでも憂鬱だ」


「ううん……」


 奏鳥はむしろ、どの種目にも出たいくらいの心持ちだった。とはいえ、体育が苦手な詩貴の気持ちを全く理解していないわけではない。


「その中なら、一番手を抜いてもバレなさそうなのは綱引きだけど……」


 意見を述べたものの、奏鳥には気がかりなことがあった。共高では、体育会系の人物は少数派だ。そのため綱引きは競争率の高い種目であり、抽選で選ばれなかった場合は第二希望、第三希望へと繰り下がってしまう。


 何より奏鳥は、そもそも詩貴が日頃から運動を嫌だ嫌だと避け続けていることも懸念けねんしていた。彼は他所よその高校より少ないはずの共高の体育の授業さえ、教師の隙をついて手を抜いているほどだった。


 運動音痴は運動を避ければ避けるほど悪化してしまう。このままだと詩貴の運動不足は日常生活にまで支障ししょうをきたすかもしれない。


 それならいっそ、と奏鳥は手を叩いてみせた。


「詩貴、短距離リレーにしようぜ。俺が走り方とバトンタッチのコツを教えるからさ!」


「えぇーっ⁉︎」


 リレーという単語を聞いた瞬間、詩貴はこれまでにないほどの嫌悪感を顔ににじませた。




 その日の放課後、すぐに河川敷で練習が始まった。練習といっても軽いジョギングと、走る姿勢を少々正す程度のものだ。


 しかしそれでも詩貴はものの数分もしないうちに疲れてしまい、息をきらせながら立ち止まってしまった。


「はあ……やっぱり無理だよ。こんなに走るのが遅いのに……リレーなんて、クラスで恥かいちゃうよ」


 対して奏鳥はというと、未だ元気が有り余っているのか、ひざに手をついて項垂うなだれている詩貴の周りをうろうろと走り回っていた。


 持久力には心肺機能も関わるというが、奏鳥の体力は相当のものだった。あれだけ大きな歌声を安定して出せるのだから、相当の肺活量を持つのだろう。


「大丈夫だよ詩貴。本番はたったの百メートルだぜ? 短距離なんだから体力がなくたって、コツさえ掴めばずっと早くなるって」


「そうかなあ……百メートルって、僕には結構長く感じるんだけど……」


 奏鳥の体力の高さも相当だが、詩貴の体力のなさも相当だった。これでは先が思いやられる──詩貴は早くも挫折ざせつしかけていたが、奏鳥は正反対だった。


 次の日も、その次の日も、奏鳥は嫌がる詩貴を文字通り引きずって練習へとり出した。とはいえ、走りに慣れない詩貴の脚が痛まないよう、あくまでも軽い練習に留めていた。


 走りを上手くするコツは継続だ。急がず焦らず、詩貴が少しでも運動嫌いを克服こくふくできるよう、奏鳥は毎日懸命に彼に寄り添った。


 奏鳥はあまりにもやる気に満ちており、詩貴が少しでもその気を見せると大はしゃぎして褒めたてた。詩貴の方も褒められるのが満更まんざらでもないのか、次第にきょうが乗ってきたらしく、日が経つにつれ練習を嫌がらなくなっていった。


 詩貴の心境の変化に伴い、奏鳥もまた満たされていくのだった。


 一学期の頃は、勉強も音楽も奏鳥のほうが詩貴から教わることばかりで、今まで彼は一方的に与えられるばかりの立場だった。これで少しは詩貴にむくいられただろうか。


 練習時間も走行距離も少しづつ伸びていくことに、奏鳥は充足感を感じていた。




「そうそう。上半身は力を抜いて、視線は意識して前に……だいぶ良くなってきたんじゃないか?」


「そ、そうかな? でも、確かにあんまり疲れなくなってきたかも」


 詩貴は、走りながらでも顔色を明るくさせられる程度には、運動に慣れつつあった。奏鳥はあらかじめ目標にしていた木の横を彼が横切ると、ストップウォッチのスイッチを切った。


「おう! 記録もまた更新してるぜ。すげーよ詩貴! どんどん出来るようになってるじゃんか!」


 やや大袈裟な褒め方だったが、詩貴は彼の言葉に照れ臭そうに口角を上げた。


 そもそも酷く苦手意識を持っていた運動を、これだけ長く続けられたのは、隣にずっと奏鳥がいたからだ。思わず顔をほころばせてうなずく詩貴に、奏鳥も眩しいほどの笑顔をみせた。


「じゃあ次はランニングの走り方だな! それが出来るようになったら、バトンタッチの練習だ!」


「ええっ……」


 追いついたそばから引き離されたような感覚に、詩貴は思わずまたため息をついてしまうのだった。


---


「椀田くん」


 数日後の放課後のことだった。詩貴はいつも通り練習に向かうべく、荷物を片付けて奏鳥を待っていた。すると、不意に見覚えのある少女から声をかけられた。


「……飯野さん」


 飯野長月──確か彼女は、委員長というあだ名で呼ばれていたはずだ。特徴的なおさげの髪型をした少女は、詩貴へとにこやかに笑みを向けた。


「あはは、話すの久しぶりだね。話しかけて大丈夫だったかな?」


「ううん。別にいいけど」


 彼女と会話を交わすのは、中学以来のことだった。一度だけ、三年の合唱コンクールの時期に話したことがあったはずだ。


 当時の詩貴はあまりいい返事をしなかったはずだが──委員長本人は、詩貴が自分のことを覚えていたのを嬉しく思っている様子だった。


「成谷くんから聞いたよ。体育祭に向けて練習してるって。頑張ってるんだね!」


「あはは、まあ……」


 詩貴は思わず苦笑した。奏鳥の口が軽いのか、彼女の口が上手いのか。いずれにせよ、練習のことは奏鳥以外の人物にも伝わってしまっているようだ。


 一方、愛想笑いいえど詩貴が笑みを見せたことに、委員長はますます喜びを感じたようだ。彼女はトンと手を叩いて、花を咲かせたように笑顔をみせた。


「椀田くん、最近すごく明るくなったよね。なんだか私、勝手に嬉しくなっちゃった」


「そうかな……」


 詩貴は彼女の言葉にわずかに戸惑とまどった。昔の自分だったら、明るくなったなんて言われたら『そんなことはない』と言って突き放していただろう。


 そう思えば、今は戸惑いつつも受け止められるだけ、確かに進歩しているのかもしれない。詩貴の心の内にも、ほんのりと嬉しさが込み上げてきた。


「文化祭も頑張ってね。楽しみにしてるよ。椀田くんの演奏、すっごいもん!」


「えっ、文化祭?」


 晴れやかにそう語られた彼女の言葉に、詩貴は急にはと豆鉄砲まめでっぽうを食ったような顔をしてしまった。


「あれっ、舞台に出てくれるんじゃなかったの? 成谷くんがすごく乗り気だったから、てっきり……」


 きょとんと目をまたたかせる委員長の姿に、詩貴は思わず頭を抱えた。どうやら、“奏鳥の口が軽い”が正解だったようだ。


---


「ごめん、詩貴……やっぱり舞台に立つのは無理そうか?」


 詩貴が文化祭のことを問うと、奏鳥はあっさりと自分の非を認めた。


 彼は委員長と、文化祭の舞台の参加枠について話をしているうちに、つい盛り上がってしまい、勝手に『舞台に出たい』と話してしまったのだそうだ。


 共高の文化祭の舞台演目には、部活動やクラス活動以外にも、いわゆる個人枠が存在する。実行委員会による選考を通過すれば、誰でも舞台に上がることができるのだ。


 奏鳥としては、あくまでも希望として口にしたに過ぎなかったらしい。しかしそこに自然と自分の存在が含まれていたことに、詩貴は二重にじゅうの意味で顔をしかめた。


 奏鳥は少々勝手なところがある。だが自分が音楽を共にする者として、当たり前のように一緒に数えられているのは、やはり満更でもないことだった。


 手を顎に当て、深く考え込む。『奏鳥の隣で音楽がしたい』──先日、詩貴は自分でそう宣言したばかりだった。『舞台に立つのは無理そうか?』──自分の心に、再度問いかけてみる。


 考えたすえに、詩貴はかぶりを振った。


「一緒に出よう、奏鳥。僕……頑張ってみる」


 過去の失態が怖くないかというと、それは嘘になる。しかし詩貴は、今の自分なら、そして奏鳥と一緒なら、舞台にだって立てそうな気がしていた。苦手な運動を克服しつつあることで、多少は自信をつけているのだろう。


「詩貴‼︎」


「うわっ」


 顔を上げると、奏鳥が急に腕を広げて飛びかかってきた。気づけば詩貴は奏鳥の腕の中にすっぽりと収まっており、嬉しさが有り余っているのか、彼は詩貴に抱きついたまま飛び跳ねて喜びはじめた。


「俺もすっげー頑張るから! 詩貴も頑張ろうな! 体育祭も文化祭も、絶対成功させるぜ!」


 ゆさゆさとなすすべもなく体をすられるがまま、詩貴は苦笑した。


 しかしその後に奏鳥の口から飛び出た発言によって、詩貴の笑みはますます苦々しくなるのだった。


「俺、実はもうバンド名も考えてあんだ! 早速実行委員に申請してこねーと!」


「えっ、バンド名?」


 嫌な予感がする。そして詩貴の予感は見事に的中してしまった。


「ワンダ&ナリヤ! シンプルで逆にカッコいいだろ⁉︎」


「だっっっさ‼︎」


 脱力のあまり崩れ落ちかける詩貴を、奏鳥は慌てて抱き上げた。




 しかし、自分達の名前をバンド名に組み込むという発想は悪くない。試行錯誤しこうさくごの末、ワンダの部分はそのままもじり、後半は奏鳥の名前の鳥をなぞらえて、ウォーブルと付けることにした。


 ワンダーウォーブル──直訳するなら、不思議なさえずり、または驚きの歌声、といったところだろうか。二人だけでロックを奏でようとするのは、確かに不思議なことだ。


 昨今さっこんは打ち込み音声の技術発展にともない、ロック音楽をデジタルで表現すること自体は難しくなくなった。


 しかしそれでも、ロックバンドの主流は四、五人以上のグループだ。それも舞台で演奏するとなると、奏鳥のギターと打ち込み音声の音響だけでは迫力に欠けるだろう。


 帰宅した後、詩貴は早速奏鳥に通販サイトの写真をえたメールを送った。


 夏休みに楽器店で見ていた、あのショルダーキーボードだ。ギターのように肩掛け出来る形状のキーボードなら、舞台での表現の幅も広がりそうだと考えたのだ。


 そもそも語源としての『ロック』は、50年代のアメリカで産まれたロックンロールを起源ルーツとしている。ロックンロールはずばり『揺れて転がる』という意味だ。ロックを表現するのに、動かないわけにはいかないだろう。


 とはいえ、若かりし頃の“先生”のように、ショルダーキーボードを派手に叩きつけてぶっ壊す──というレベルの大胆なパフォーマンスは、詩貴には到底とうてい不可能だ。


 しかしショルダーキーボードを上手く使いこなせば、奏鳥と一緒に立ち位置を変えたり、少しリズムに乗ってステップを踏んでみるくらいは出来るかもしれない。


 何より詩貴は、奏鳥の隣に立ちたくて仕方がなかった。明るく快活な彼を真似て、自分も少しくらいははじけてみたかったのだ。


 奏鳥と一緒に、壇上だんじょうでどんなパフォーマンスをしてみせようか──いやいや、先に実行委員の選考を通らなければ。はやる気持ちのまま、まるで詩貴の心もねるようだった。


 詩貴はすっかり浮かれ気分でいた。あまりにも調子が良すぎたのだ。最近は何をしても上手くいっている。隣に奏鳥がいるおかげだ──引っ込み思案じあんだった彼は、やっと前を向くことができるようになっていた。


 だからだろうか。詩貴は前ばかりを気にするあまり、自分の体調の変化に気がつかなかった。




 体育祭の本番を控え、予定通り代表に選ばれた詩貴のリレー練習は、佳境かきょうを迎えていた。


 ラップの芯をバトンの代わりに使い、詩貴から奏鳥へ、そしてまた詩貴へと、二人は交互にバトンタッチの練習を繰り返す。


 体力こそなかったものの、詩貴は手先が器用で要領ようりょうも良い。コツを掴んだ途端タイムはぐんと縮んでいき、その度に二人は声を上げて喜んだ。


「後は本番だな! あっ、緊張しないためのおまじないの練習もしとくべきかな?」


 呑気のんきにそう言う奏鳥に、詩貴は何気なく頷いて返事をしようとした。しかし、声を出そうとした途端にむせてしまい、返事の代わりにかわいたせきの音を出してしまった。


「おわ、詩貴? 大丈夫か?」


「っん……ちょっとむせたみたい。大丈夫だよ。あはは、緊張してるのかも」


「ううん……なら良いんだけど。熱が出たら無理せず休めよ?」


 笑顔を見せた詩貴に向けて、奏鳥も笑顔で返す。詩貴が奏鳥を信用するのと同じくらい、奏鳥も詩貴の『大丈夫』という言葉を信じていた。


 その時、無邪気そうに笑っている詩貴の顔からは、不思議と少しの不安さも感じられなかったのだ。

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