第9話 ラヴェルのボレロ(後編)
帰宅してから、夕食を済ませてシャワーを浴びた後。奏鳥は広げた
あの後は居心地の悪そうな詩貴を励ましつつ、エレキギターを軽く弾き、詩貴の母が
余談だが、彼女はわざわざ紅茶のお供にと洋菓子店のケーキを買ってきてくれていた。友人の家に行ってケーキをご
紅茶もケーキも美味しかった。しかし詩貴とは少々気まずい雰囲気になってしまった。今の奏鳥は、ただ彼のことばかりが気がかりだった。
思えばあの時、詩貴の提案を受けるという選択もできたはずだ。自分はもともとミュージシャンを目指しているのだし、プロの音楽講師から指導を受けられる可能性があるなら、むしろ絶好のチャンスだったはずだ。それなのに、自分は詩貴の提案を拒否した。
胸に手を当てて、もう一度考える。あの提案を断ったのは正しかったのだろうか。本気でプロの世界を目指すのなら、受けるべきだったのではないだろうか。
頭ではそう考えたものの、やっぱり心はその選択を拒絶した。
自分はどうしても、詩貴と一緒に音楽がしたいのだ。四月の夕方に詩貴が弾いた、奏鳥の心境までもを改革した、大海のごとき革命。誕生日の夜の、ケーキのろうそくの暖かい
今までのことを思えば、どうしたって彼を手放すという選択肢は、自分の中に存在しなかった。
それでも胸騒ぎが止まらないのは何故だろう。奏鳥は胸に当てた手を、ぎゅっと握りしめた。
自分は一体、このままで何を目指しているのだろう。本当は、何がしたいのだろう。憧れの音楽の世界、母さんのこと、そして詩貴のこと──様々な葛藤が、奏鳥の心の中を
奏鳥はうつ伏せになって枕へ顔を
英雄のバラードが脳裏に語りかける。“どのみち風は吹くんだ。俺にはどうでもいいことなんだ”──ガリレオ、ガリレオ、ガリレオフィガロ──
次の日の朝。相変わらずけたたましい電子音を鳴らす時計に叩き起こされた後、奏鳥は携帯電話を覗いて驚いた。
昨晩、詩貴の方からメールが送られていたのだ。今まで奏鳥の方から連絡を取ることはあっても、詩貴の方から連絡が来るのは初めてだった。
一体どんな内容だったのだろう。少し不安を抱きながらメールを開くと、その内容の
もちろん奏鳥はその誘いを受けた。返事に日を
奏鳥はメールに返信してから早速着替えと
詩貴が待ち合わせ場所に選んだ駅の前に着くと、昨日乗ったばかりの銀色のセダンが既に待ち構えていた。
奏鳥は運転席の詩貴の母に頭を下げてから、後部座席へと乗り込んだ。
「昨日ぶりだね、奏鳥」
隣の座席に乗っていた詩貴は、少々ぎこちなさそうに奏鳥へと微笑みかけた。彼の様子に、奏鳥もつい肩が強張るのを感じた。
「う、うん。おはよう、詩貴」
「おはよう。急に呼んだのに、来てくれてありがとう。本当は父さんが一緒に来る予定だったんだけど、急に仕事が入ったからチケットが余ったんだ。奏鳥はクラシックにあんまり興味がないかもしれないけど、せっかくだからと思って……」
言葉尻を
「興味ないなんてことないぜ。あんまり詳しくはないけどさ。それより誘ってくれて嬉しかった。やっぱり詩貴って、クラシックが好きなのか?」
「うん。まあ、
奏鳥が笑って返すと、詩貴は照れ臭そうに顔を
クラシックといい、よく読んでいる本のジャンルといい、やはり詩貴は少々古風で
ぽかぽかと暖まった気持ちを抱きながら、奏鳥は詩貴に尋ねた。
「なあ、コンサートってどんな曲をやるんだ? 詳しくはないけど、クラシックなら多分有名な曲だよな」
「うん。待ってて、今プログラムを出すから」
詩貴は鞄からプラスチックのクリアファイルを取り出し、その中から一枚のチラシを抜き取った。
プログラムと書かれた一覧には、様々な曲名が並んでいる。しかしクラシックに
作家名のベートーヴェンやバッハは、かろうじて授業で習ったのを覚えているが──果たしてどんな曲を作った人だっただろうか。ついチラシと
「そんなに
「うぅん……」
今度は恥ずかしさで顔に熱が込み上げてきた。こんなことなら、学校の音楽の授業をもう少し真面目に受けておけば良かった。
奏鳥はクラシックといういかにも格式ばった世界に対し、小さく不安を抱き始めた。
会場に着いた後。奏鳥がわずかに抱いていた不安は、ますます大きくなってしまうように感じられた。何しろ会場の建物自体が大きく、これまた立派なのだ。その中でも最も広い大ホールへと入ると、奏鳥の心の糸はまたも張り詰めるのだった。
大ホールの客席は、奏鳥が千人は座れそうな数の座席が並んでいた。後で聞いた話だが、実際の客席数は二階席も含めて千五百を越えるのだという。シューボックス型構造のホールは天井が高く、白く波打った形状の壁面がますますの
二人は詩貴が予約をとっていた、やや前方の席に並んで座った。周囲の客足はあまり多くはないが、決して少なくもないといった様相だ。客層は親子連れが多く、中には奏鳥や詩貴より幼い子供も訪れているようだった。
慣れないコンサートホールの空気に奏鳥がそわそわと身じろいでいると、やがて開演を告げるアナウンスが響き渡った。照明が暗くなっていき、辺りは
まずは楽団の紹介と代表者の挨拶が始まる。奏鳥はその様子を眺めつつ、かしこまった空気に思わず
詩貴は凛とした顔立ちで、真剣に
が、いざ演奏が始まると、緊張しきっていた奏鳥の心境はたちまち落ち着いていった。
深みのあるオーケストラの音響は、胸の奥まで解きほぐすように染み渡っていく。ゆったりとなだらかなメロディが続いたと思えば、聴き覚えのあるフレーズが湧き立つように、高らかに響き渡る。
これは何の曲だろうか。そう思い、奏鳥は開演前に詩貴から渡されていたコンサートのチラシに目をやった。
“交響曲第七番第一楽章”。その題だけ見たところで、やはり曲名と旋律が頭の中で結びつきそうにはなかったが、作曲者のベートーヴェンという名前には見覚えがあった。
奏鳥はベートーヴェンといえば、『デデデ、デーン』の“運命”くらいしか知らなかったが、これを
何より隣の席で聴いている詩貴が、食い入るように楽団の演奏を真剣に見つめているのだ。彼が好きな
ベートーヴェンの次は、バッハの曲が流れ始めた。これもまた、どこかで聴いたことのある優雅な雰囲気の楽曲だ。テレビ番組か何かのBGMにでも使われていたのだろうか。
ヴァイオリンの奏でる
曲名には、“G線上のアリア”と書かれている。G線上のアリアというタイトルは、どういう意味なのだろうか。ギターの三弦はG線とも呼ばれることがあるが、関係はあるのだろうか?
後で詩貴に
そのまま数曲ほど、寝過ごしてしまったようだ。
奏鳥はコンサートホールと夢の世界を、ぼんやりとした意識の中で、行ったり来たりを
とろけた舞台の上で、『トン、トトトトン、トン、トン』と一定のリズムが
そのうち一人の管楽器がふわりと浮いて、何やら楽しげにバレエを踊り始めた。やがて
他の楽器達もつられるように立ち上がって踊り出したので、奏鳥は自分も仲間に入ろうと席を立った。不思議なことに、奏鳥の身体は楽器達と同じくふわふわと浮いて、壇上の方へと引き寄せられていく。
バレエなんて生まれてこの方踊ったことはないはずだが、奏鳥の手足は楽器達に囲まれた途端に勝手に動き出した。彼の踊りに楽器達もますます楽しくなってきたのか、演奏は激しさを増していく──
「──っ」
白熱した旋律に目を覚まし、奏鳥は思わず息を
現実の舞台はクライマックスに向け、ますます
スネアドラムは激しくリズムを刻み、オーボエ、クラリネット、ホルンなど……とにかく大勢の楽器達が、
シンバルが盛大に
そして──やがて落ちていく火花の一つ一つのように、オーケストラは一斉に
しばらくの間、曲が終わったことに気づかないほど、奏鳥は圧倒されていた。思わず呆然と座りつくしていると、周囲の観客が拍手をし始めたので、奏鳥は慌てて自分も手を叩いた。
続けて会場内に終演を告げるアナウンスが流れ始める。どうやら今の楽曲が、コンサートのフィナーレを飾っていたようだ。
「目、覚めた?」
拍手が止むと同時に、横から小さく声がかかった。振り向くと、隣の詩貴がいたずらっぽく笑っているので、奏鳥は照れ臭くなりながらも
「うん。最後の曲、凄かった。途中寝ちゃったけど……」
「ふふ。あんまり気持ち良さそうに寝てるから、起こしたら悪いかなって思ったんだ。クラシックはリラックス効果のある曲が多いから、眠くなるのは不思議じゃないよ」
アナウンスが終わり、周囲の観客が続々と客席を立ち始める。二人も続けて立ち上がった。
「……ねえ、奏鳥」
帰り支度をしていると、ふと詩貴が奏鳥の名を呼んだ。振り向くと、詩貴は何故か困ったような顔をして、まるで奏鳥に目を合わせないように、自身の荷物へと視線を向けていた。
「その……この後、またうちに来ない? コンサートの感想とか……色々、話せたらと思って」
奏鳥は「もちろん」と即答した。それはもう、自分でもちょっと恥ずかしく思うほど、食い気味にそう答えてしまった。
---
リビング横のキッチンでは、たった今
ふと部屋のドアが開く音が聞こえ、彼女は振り向いた。
「母さん、今日もありがとう」
詩貴ははにかみながらキッチンへやってくると、トレーを手に取った。
「いいえ。それより詩貴、成谷くんとは仲直りできた?」
詩貴の母はふと思い出して尋ねた。唐突に奏鳥の名前を出されて、しどろもどろになりながらも、詩貴は頷いた。
「えっ? えっと、うん。たぶん……」
「ふふ。その調子なら大丈夫そうね。けど何も『父さんの都合』なんて、嘘までつかなくても良かったんじゃないかしら?」
「それはそうかもしれないけど……一応、誘う
詩貴は気まずそうに笑った。今朝は『父さんが来る予定だったチケットが余った』という
昨晩詩貴は、彼を家の近くまで送った後、『奏鳥に嫌われてしまったかもしれない』と不安でいっぱいになってしまっていた。そんな息子の様子を見かねた母は、『それなら仲直りしましょう』と、詩貴へ友人を遊びに誘うよう提案したのだ。
友人と遊んだ経験のない詩貴は大いに悩んだ。映画やアミューズメント施設は別に好きではないし、欲しいものもないのにショッピングなんかは論外だ。
悩んだ末に、結局自分と奏鳥の共通点になるものは音楽しかないと思い、ジャンルとしてはやや自分の好みに
「それに“夏休みファミリーコンサート”なんて、小さな子供向けのプログラムだよ。高校生が二人きりで行くなんて、恥ずかしくて断られちゃうよ」
詩貴が苦笑いすると、母は首を
「そうかしら。詩貴が素直に『一緒に行きたい』って言えば、成谷くんなら来てくれたと思うけど」
「……母さん」
詩貴はティーセットをトレーに並べながら
「僕にそれが言えたら、最初からこんなに苦労してないよ」
本心からの言葉だった。自分には、たった一人の友達の顔色を
詩貴はどうすれば奏鳥のためになるのか、奏鳥を喜ばせられるのか、そればかりを考えていた。けれど
「そうね。だったらあともうひと頑張りよ」
詩貴の母は息子の肩を優しく叩くと、トレーに焼き菓子の乗った小皿を乗せた。
「ほら、一緒にオヤツでも食べて。昨日のケーキほど
そう言いながら、彼女はもう一つ別の焼き菓子を小皿に乗せた。トレーはたちまちお茶とお菓子でいっぱいになってしまった。
「ありがとう。……あはは、この量はちょっと多いよ。後で母さんも一緒に食べよう」
「ええ。お母さんのぶんもとっておいてね」
心配されなくても余る量だ。そう思いながら、詩貴はずっしりと重くなったトレーを持って、部屋を出ようとした。
ふと思い出して、彼はドアの前で一旦止まり、振り返った。
「母さん。本当にありがとう」
「どうしたの? 改まって」
詩貴はこれまた気恥ずかしそうに、笑みを浮かべるのだった。
「昨日、背中を押してくれて。あのままだったら僕、何もできなかったよ」
「そんなことないわよ。成谷くんと仲直りしたいって、コンサートの予約をとったのは自分でしょう」
確かに彼女の言う通り、奏鳥とコンサートへ行くことを選んだのは自分だ。それも、クラシックにはあまり詳しくないであろう奏鳥のことを考えて、あえて子供向けの有名曲ばかりのコンピレーションを選んだのも、自分の意志だった。
それでも『万が一断られちゃったら、代わりに一緒に行くから』と言ってまで背を押してくれた母の存在は、一人では友人付き合いすら上手くできない詩貴にとって、かけがえのないものだったのだ。
ティーセットを部屋へと運んでいると、ふと防音室の方からギターの音が聞こえてきた。恐らくさっき、扉をきちんと閉め忘れたのだろう。聴き慣れたそのメロディに、詩貴は無意識に口角が上がった。
奏鳥はクラシックには詳しくないと言っていたが、先程のコンサートのことは
エレキギターの切れのいい音で、ロック風にアレンジされたボレロを聴きながら、詩貴は部屋へと入った。昨日の今日でギターの演奏自体はまだ少々
思わず防音室のドアを、『トン、トトトトン』とスネアドラムのリズムでノックしてから入ると、奏鳥と目が合った。
「奏鳥、お茶持ってきたよ」
「おう! ありがとう!」
お互い自然と笑みがこぼれるのを感じる。そして二人は、一斉に互いの名前を呼んだ。
「ねえ奏鳥」
「なあ詩貴」
二人は同時に話し始めてしまい、慌てて一緒に話を譲り合うことになってしまった。そしてそれすら面白くなってしまって、いっぺんに笑い始めた。
結局奏鳥の方が譲ってきかないので、詩貴の方から話すことにした。
不思議なことに、詩貴は今まで言いたくても言い出せなかったはずの言葉が、考えるよりも先に飛び出してしまうようだった。
「奏鳥。一緒に演奏してもいいかな」
そして奏鳥もまた、その言葉を待っていた、とばかりに笑顔をみせた。
「俺も今、そう言おうと思ってたんだ」
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