第9話 ラヴェルのボレロ(前編)


 夏の空は高く青い。五日間のアルバイト体験をて、奏鳥も詩貴も、そのこころざしをわずかにあの空へ近づけたようだった。


 アルバイトを終えてから数日後。二人は“詩貴へのお駄賃”として徳野さんから譲り受けた、中古のエレキギターを持って楽器店へと向かっていた。


 アルバイトの最終日に、二人が音楽活動をしているという話を聞いた徳野さんは、彼の祖父が愛用していたというギターを奏鳥へと譲ってくれたのだ。


 勿論二人共驚いたし、はじめは断ろうとした。親族の遺品と言われると、その価値は物以上に重く感じられる。その上ギターは見るからに傷一つない良い状態のもので、それは素人目しろうとめに見ても、アルバイトの対価としては高すぎると思える品だった。


 しかし徳野さんが言うには、ギターは祖父の思い出深い遺品のため売るわけにはいかず、かといって楽器に詳しくない自分には扱うこともできない。その上、ただ保管しておくだけでは劣化してしまう。そのため信頼できる知人に引き取ってもらうのが一番良い、とのことだった。


 奏鳥は独学でアコースティックギターを弾いた経験こそあるものの、エレキギターに関しては触るのも初めてだった。しかし──彼は長考ちょうこうすえにギターを受け取った。本気でロックの世界へと向かうのなら、このギターは自分が受け継いで使うべきだと思ったのだ。


 徳野さん本人が言う通り、楽器の扱いがわからない家でこのまま壁飾りにされて古びていくくらいなら、たとえ奏鳥のような素人であろうと、人に演奏される方がきっとギターも幸せだろう。


 初めて触った木製のエレキギターは、ずっしりと重く感じられた。アコースティックギターとは違い電気系の部品がそなわるため、より重いのは当たり前なのだが──それ以上に、人の遺品を譲り受けるということが、奏鳥の腕だけでなく心へも重圧をかけるようだった。


 奏鳥はその重さに緊張感をおぼえると共に、どこか心がたかぶるように思えた。赤く塗装されたギターのボディは古い品であるにも関わらず、つややかな光を情熱的に放っている。


 徳野さんの祖父は一体、どんな風にこのギターを弾いていたのだろう。仏壇に飾られた古びたレコードジャケット──徳野さんいわく“ビートルズ”という、奏鳥の英雄達よりもさらに昔の洋ロックバンドらしい──を見て、彼の遺影に手を合わせてから、奏鳥はふとそんなことを想像したのだった。


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 楽器店では、まずギターのメンテナンスを勧められた。古いギターはいくら見た目が綺麗でも、弦の劣化やパーツの緩みがあるため、交換とクリーニングの必要があるそうだ。


 アンプも古い電化製品のため修理ができず、買い替えを勧められた。少々値は張るが、エレキギターに関しては奏鳥も詩貴も素人だ。二人共、素直に店員の勧めに従うことにした。


 メンテナンスを待つ間、二人は店内を見て回っていた。市内で随一ずいいち老舗しにせ楽器店なだけあり、店の中は広く、弦楽器だけでなく管楽器や打楽器、ピアノ等の鍵盤楽器も数多くそろっている。


 その他に楽譜がくふや教本などの書籍が並んでいる棚もあったので、奏鳥はひとまず“エレキギター入門”と書かれている初心者向けの入門書を手に取った。


 入門書にはエレキギターの発音の仕組みから、演奏のために必要なもの、そして具体的な音の出し方やアレンジの仕方にいたるまでが丁寧に書かれていた。


 写真やイラストが載っているページが多いためかこの本もやや高価だが、せっかく音楽活動のためにアルバイトでお金を稼いだのだ。こんなところで出し惜しみをするわけにもいかないだろう。奏鳥は入門書を買おうと決めて、ページを閉じた。


 そうしてふと顔を上げると、詩貴が少し離れた場所で鍵盤楽器のコーナーを見つめているのが見えた。その横顔がどうにも物憂ものうげに見えるので、奏鳥は思わず胸の内がざわつくのを感じた。


 鍵盤楽器には未だ詳しくないが、彼が見ている楽器は恐らくキーボードやエレクトーンのたぐいだろう。中にはギターのようにネックストラップが付いた、肩掛けできそうな形状のキーボードもある。


 それらの楽器を眺めながら、詩貴は今、一体何を考えているのだろうか。奏鳥の中に疑問が浮かぶと同時に、胸のざわつきはさらに増してきた。


 最近の自分は何かがおかしい。詩貴のことを考えると、つい気持ちが浮ついたり、逆に胸騒ぎがしたり、どちらにせよ落ち着かなくなるのだ。


「どうしたの、奏鳥?」


「えっ」


 不意に振り返った詩貴に尋ねられて、奏鳥は慌てて我に帰った。


「いや、なんでもない……あっ、これ。買おうかなって思って」


 奏鳥はつい詩貴のことばかり見入みいってしまったことを、勝手に気まずく感じた。咄嗟とっさに手に持っていた入門書を話題に出してごまかしながら、その脳裏では彼に不審ふしんがられていないかを心配していた。


 しかしその不安はどうやら杞憂きゆうに終わったようだ。詩貴は入門書を見ると、「いいね。僕もエレキギターには詳しくないし、基礎きそから頑張ろう」とにっこり笑って答えた。


 奏鳥は彼の笑みに安堵あんどすると共に、今度は胸の内にふわふわとした熱が込み上げてくるのを感じた。思わず顔がにやけそうになるのをこらえつつ、入門書をカウンターへと持っていく。


 そうして購入した入門書を、数ページほど読みふけった頃合いだった。楽器店の店長が、二人へメンテナンスの完了を告げに来た。


 店長からいくつかのアンプや付属品を勧められ、それぞれの音を実際に弾いて聴かされながら──奏鳥も詩貴も、結局どのアンプが“良い”のかはよくわからなかったので、ひとまずその中で一番安価あんかな小型のコンボアンプを買うことにした。


 安価とは言ったものの、家庭用とライブ用をねられる性能のコンボアンプだ。奏鳥が泊まり込みで稼いだアルバイト代の、おおよそ半分程度の値段がついていた。


 家にある、あのプラスチック製のギターが五本分……というまずしい考えをつい頭に浮かべながら、奏鳥はメンテナンス後のギターと、購入したコンボアンプ、そして付属のケーブルとクリップチューナーを受け取った。


 メンテナンス代と先程の入門書の金額も合わせて、この買い物でアルバイト代のほとんどがなくなってしまった。たった五日間とはいえ、あんなに汗水流してくたびれて得た成果が、わずか一瞬で消費されてしまったのだ。十代半ばの少年は、労働と経済のはかなさをいっぺんに感じていた。


 それからメンテナンスを受けてますます輝きを取り戻したギターを、黒く光るギターケースにしまった後。奏鳥達は、店の外で椀田家の迎えを待つことになった。


 その日、彼らは朝早くに出発し、午後は受け取ったギターを早速試し弾きしてみよう、という話になっていた。詩貴いわく、彼の実家には防音室があるらしい。詩貴はいつもそこでピアノを弾いているのだという。


 詩貴が自宅にスマートフォンで連絡するのを横目に見ながら、奏鳥は高鳴る胸を押さえるように、抱えているギターケースをぎゅっと抱きしめた。


 詩貴の自宅へとまねかれるのは初めてだ。その上、横で話している彼の口調を察するに、通話相手は恐らく詩貴の母親なのだろう。


 これから迎えに来るという彼の母は、どんな人なのだろうか。詩貴の部屋はどんな内装なのだろうか。そんなことを想像すると、思わず期待と緊張がない混ぜになって、奏鳥の鼓動はますます早まるのだった。


「奏鳥、あと数分で着くって。……大丈夫?」


 通話を終えた詩貴に不意に話しかけられ、奏鳥は高まっていた鼓動が急ブレーキをかけたかのように驚いた。


「えっ!? いや、なんでもない……大丈夫!」


 奏鳥の露骨ろこつな反応に、流石の詩貴も疑問を感じたようだ。彼は心配そうに眉を下げ、首をかしげたので、奏鳥は気まずくなって目をらした。


「大丈夫なら良いんだけど。もし体調が良くないなら、無理はしないでよね」


「うん、ありがとう……」


 奏鳥はギターケースに顔をうずめるようにして縮こまった。やはり最近の自分はどうも変だ。


 動悸どうきがするなら呼吸器内科か、循環器じゅんかんき内科にてもらうべきだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、彼は空返事をしたのだった。




 しばらく待つと、いかにも高級そうな銀色のセダンが、駐車場へと緩やかに徐行してきた。


 詩貴は車が停車線内に停まるのを確認すると、フロントドアの方へと駆け寄った。


「ありがとう、母さん」


「いいえ。お帰りなさい」


 詩貴の母が、ドアウィンドウを開きながら答えた。落ち着いた、品のある印象を受ける声だ。奏鳥も恐る恐る彼女の元へと近寄って、頭を下げた。


「こんにちは……」


 詩貴の母は奏鳥の姿に気づくと、はっとした様子で声を上げた。


「あぁ、こんにちは。初めまして。あなたが詩貴のお友達ですね。こんな所からごめんなさいね、今降りますから」


 おっとりとした様相は保ったまま、慌ててドアを開けて車を降りる母の姿に、詩貴は苦笑した。彼女は詩貴にとって自慢の、立派な優しい母親なのだが、時折こうして悠長ゆうちょうなのかそそっかしいのかわからない行動をとるのだ。


「息子がお世話になっています。改めて、よろしくお願いしますね」


「あっ、はい。こちらこそ……」


 車を降りた詩貴の母は、奏鳥に合わせて頭を下げた。彼女の長い髪は息子と似ているのか、サラサラとした髪質がよく整えられており、品行方正に感じられる雰囲気の女性だ。


 緊張した面持おももちでまごついている奏鳥を見て、詩貴は困った様子で笑ってみせた。


「母さん。僕、別に奏鳥に世話なんかされてないよ」


 詩貴の母は、息子の冗談にむっと顔をしかめた。


「何言ってるんですか。つい昨日だって、『一緒に出かけるような友達ができたなんて、生まれて初めてだ』って、あんなにはしゃいでいたじゃない」


「ちょっと母さん!」


 狼狽うろたえる詩貴の顔が、羞恥しゅうちでみるみる赤く染まっていく。そんな様子を見て、奏鳥はかえって安堵したのだった。




 車で送られている間に、奏鳥は詩貴の母へ、軽い自己紹介と挨拶を済ませた。


 改めて名乗ると、彼女の口から「いつも詩貴から聞いていますよ」という言葉が返ってきたので、奏鳥は思わず笑いをこぼしてしまった。隣の席に座っている詩貴は、気恥ずかしそうに目を逸らしている。


「いつもって。俺、詩貴からどんな風に言われてるんですか?」


 奏鳥は好奇心から思わず尋ねた。素直な母が「ええと……」と話し始めるのを、詩貴は慌てて止めに入った。


「母さん!」


「……だそうです。ごめんなさいね、成谷くん」


 運転席から「ふふふ」と可笑しそうな笑い声が聞こえて、奏鳥もつられてにやついた。横から視線を感じて振り向くと、詩貴は不機嫌そうに頬を膨らませて、奏鳥のことを睨みつけていた。


 その顔がやたら紅潮こうちょうしきっているので、今度は奏鳥の方が急に恥ずかしくなってしまい、彼は慌てて逆側のドアウィンドウへと顔を逸らした。


「……浮かれてたのは事実だよ。友達……いなかったから」


 後方から詩貴が小さく呟くのが聞こえて、奏鳥は「そっか」と頷いた。車窓しゃそうの外へとわざとらしく目をやって、気にしていないふりをしていたが、その内心では詩貴が自分のことで浮かれていたのを『嬉しい』と感じる自分がいた。


 ふと見ると、人のことを言えないほど浮かれた自分のにやけ顔が、窓に反射して視界に入り込んだ。居たたまれなくなった奏鳥は、目を閉じることにした。


---


「うわーっ! 家でけー! すげー!」


 椀田宅に到着して、開口一番に奏鳥がそう叫んだので、親子揃ってき出すのを堪えることになった。特に詩貴は、前にもどこかで聞いたような、語彙力のない奏鳥の反応が面白く感じてならなかった。


 二人の様子に気づいた奏鳥は、振り向くとはっと口を塞いで気まずそうに俯いた。詩貴の母はそんな彼へなごかな笑みを向けると、家の中へと案内した。


 奏鳥は自宅のアパートと同じくらいの大きさがある戸建こだてに、少々緊迫きんぱくした気持ちを抱きつつ、彼女の後へとついて行った。


 アール・ヌーヴォー風の流線型の装飾がほどこされた、いかにも高価そうな玄関扉が開かれる。黒く艶めいている玄関床は、大理石か何かでできているのだろうか。その向こうの白い廊下は寸分すんぶんの汚れも見当たらず、まるで貴族の邸宅ていたくのような様相だ。


 こんな豪邸ごうていに自分が足を踏み入れてもいいものだろうか。思わず奏鳥がためらっていると──どこかから、カタカタと小さな足音が迫ってくるのが聞こえてきた。


「フォルテ!」


 詩貴がそう言うと、廊下の曲がり角の向こうから、金色の毛並みの大型犬が「ワン!」と一声ひとこえ鳴いて飛び出してきた。


 フォルテと呼ばれた犬は、ふさふさの大きな尻尾を嬉しそうに振りながら、詩貴へと飛びついた。


「ワフッ! ワンッワンッ!」


「ただいま。こらこら、わかったからはしゃがないで。今日はお客さんがいるんだよ」


 詩貴から“お客さん”という言い回しをされたことに、奏鳥は気恥ずかしいような、むずかゆいような気持ちになった。


 フォルテは詩貴の言うことを聞いたのか、相変わらず尻尾は元気そうに振り回しながらも、大人しくその場に座ってみせた。賢い犬なのだろう。


 詩貴がよしよしと頭を撫でると、フォルテは嬉しそうに舌を出した。


「はじめまして、フォルテ。俺は奏鳥だ」


 奏鳥は自分もフォルテを撫でようと思って、手を下の方から差し出した。


 すると驚くことにフォルテは、小さく「ワン」と吠えながら、奏鳥の手の平へ片方の前足を乗せてみせた。挨拶のつもりの“お手”なのだろうか。奏鳥は目を丸くして驚いた。


「偉いなぁ、お前。えっと、なんちゃらレトリバー?」


「ゴールデンレトリバーだよ。奏鳥よりも賢いかもね」


 まさか犬と比較されるとは。隣の詩貴が悪戯いたずらっぽく笑ってそんな冗談を言ったので、奏鳥は顔に熱が込み上げるのを感じた。


 廊下を少し進むと、右側にリビングがあり、その反対側の廊下に詩貴の部屋と、さらに隣に防音室があるらしい。トイレやシャワールームは廊下のさらに奥、寝室は家の中心に堂々とたたずむ吹き抜けの階段を上がって、二階にあるそうだ。


 二階には広いベランダや書斎、さらにはフォルテの部屋もあると聞き、奏鳥は椀田家のあまりの広大さに目眩めまいがしそうになった。犬専用の部屋がある家庭なんて、初めてだ。




 詩貴の母は一通り家の案内を終えると、「お茶を用意しますね」とリビングの方へ向かっていった。一方、詩貴は目的の防音室へ行く前に、一旦荷物を置くため自分の部屋へと入っていった。


 奏鳥は興味本位で、こっそり詩貴の後ろから彼の部屋を覗き込んだ。が、その想像以上の簡素かんそさに驚いた。


 詩貴の部屋はよく言えば整理整頓せいりせいとんされており、綺麗だった。しかし自分と同級生の少年の部屋としては、だいぶ殺風景さっぷうけいに感じられる。


 床には無地のカーペットが一枚かれ、その上にあるローテーブルには小物のたぐいは何も置かれていない。壁際にある木製のベッドも、これまたシンプルな無地のデザインだ。そして窓辺に配置されたラック付きのデスクには、薄いノートパソコンがぽつんと置かれている。


 よく見ると壁に収納スペースの扉らしきものがあるので、着替え等は恐らくそこに入っているのだろう。それにしても、真っ白な壁紙にはポスターの一枚すらも飾られていないし、デスクにはペン立てとパソコンとマウス、ラックには恐らく勉強に使われているであろう教科書と参考書くらいしか見当たらない。


 いくら眺めても、おおよそ趣味や嗜好しこうといったものを感じられない部屋だった。


 奏鳥はあまりに質素な詩貴の部屋に、どこか切なさを感じてしまい、ひっそりと眉を下げた。来る前はどんな部屋なのか、彼は何が好きなのだろうか、と色々勝手な想像を巡らせていたのだが、実際は殆ど何もなかったのだ。


 そう思ってから、自分は詩貴と数ヶ月も行動を共にしていたのに、詩貴のことを──彼が本当に好きなものが何なのかすら、知らなかったのだと思い至った。


「奏鳥、どうしたの?」


 目の前を詩貴の白い手がひらひらと横切って、奏鳥は我に帰った。


「ああ、ごめん! ちょっとボーッとしてた」


「なら良いけど……僕の部屋、変だった?」


 詩貴が苦笑いを浮かべながらそう言うので、奏鳥は慌てて首を横に振った。


「いや、変じゃない! むしろすげー綺麗だよ。俺んちぶっちゃけ散らかってて汚いから、詩貴ってすげーなって思ってさ」


「そうかな。だと良いんだけど。家族以外の誰かに部屋を見せるのは初めてだから、ちょっと緊張してたんだよね」


 詩貴は困った様子ではにかんだ。彼が無邪気に苦笑してみせるので、奏鳥はまた胸が締め付けられるような気持ちになった。


 それから詩貴の部屋を後にして、二人は隣の防音室へと入ることにした。


 奏鳥は部屋へ入るとまた驚いた。部屋の中に、さらに小さな部屋が鎮座ちんざしているのだ。箱の中に箱が入っているかのような、奇妙な光景だった。詩貴いわく、元々使わずに空いていた部屋に、後から防音室を設置したのだという。


 フォルテが健気について来ようとするのをやんわりと交わし、くうんと寂しげに鳴く彼(彼女かもしれないが)へ「ごめんね、後で遊ぼうね」と一声かけてから、詩貴は部屋の扉を閉めた。


 部屋の中には、防音室の他に一台のデスクトップパソコンと、そして何やらボタンやツマミのようなものが沢山ついた、いかにも近代的な見た目の鍵盤が置かれていた。


 奏鳥が物珍しげにそれらを眺めていると、詩貴が「それがシンセサイザーだよ」と述べた。シンセサイザーからはケーブルが伸びており、パソコンに繋げられているようだ。


「あぁ、あれが前言ってたシンなんちゃら……これ、弾けるのか?」


「どうだろう。最後に使ったのは中学の頃だし、それからずっと触っていないから、もしかしたらどこか悪くなってるかも……」


 詩貴は言葉を濁しながら、「それより今は奏鳥のギターだよ」と防音室の扉を開けてみせた。


 防音室の中は思っていたよりも広さがあり、奏鳥と詩貴の二人が入ってもまだ多少の余裕がありそうだった。そして、その壁際にはまたしても鍵盤楽器が置いてあったので、奏鳥は中へ足を踏み入れながら首を傾げた。


「あれ、詩貴って鍵盤二つ持ってんの?」


「そっちはピアノだよ。前にも言ったけど、それがアップライトピアノってやつ」


 詩貴はコンボアンプのケーブルを繋ぎながら答えた。以前『ピアノが好きなんだ』と言っていたわりには、少々よそよそしい素振りの返答だ。


 その様子に奏鳥がわずかに気まずさを感じていると、詩貴は防音室の扉を閉めた。それから手早く奏鳥のギターケースを開き、チューニングの準備をし始めた。


「さっき楽器店で調整してもらったばかりだから、音程は大丈夫だと思うけど……一応クリップの使い方も確認しておこう」


 クリップチューナーをヘッドに挟むと、詩貴はギターを奏鳥に手渡した。試しに六弦ろくげんを軽くはじいてみると、『ブン』と鈍い音が響き渡った。


 コンボアンプから思っていたよりも大きな音が鳴ったので、二人は一斉いっせいに驚いた。思わず同時に跳ねるような反応をしたので、二人とも面白くなってしまい、くすりと笑った。


「奏鳥、チューニングの時はく弦以外をミュートするんだって」


 詩貴はいつの間にか奏鳥が買った入門書を持っており、チューニングのページを覗いていた。彼は奏鳥にも見えるようにページを開いてみせたので、奏鳥は入門書の教えに従って、六本の弦を一から順に弾いていった。


 奏鳥のあまりにも慣れない手つきに、今度は詩貴の方が驚いてしまった。


「奏鳥。アコースティックとはいえ、ギターは弾いてたんじゃなかったの?」


「だから言ったじゃん、俺は独学だって。チューニングってやつも知らなかったんだよ」


 奏鳥は顔をしかめつつ、一弦をポンと弾きながら答えた。


「弦の数は同じだけど……これとか、うちのギターとちょっと音程が違うんだ。こっちの方が正しいんだろ? うちのは確か“半音くらい低かった”から、俺の弾き方のほうを直さないと……」


「何だって?」


 詩貴は思わず目を丸くした。今の発言が聞き間違いでなければ、奏鳥は自宅のギターの音程を覚えており、今弾いた音と比較しているのだ。


「まあ、つまり……ほぼゼロからの初心者なのは認めるぜ。今まではそれっぽい音を真似して、適当に鳴らしてただけだし……むしろ独学って、変な癖付いてるわけだしなぁ」


 奏鳥は困った顔でうつむいた。気まずさからか、彼は妙に口数が増えはじめていた。


「け、けど、これからはちゃんと勉強して基礎から頑張るから! 入門書だって買ったしよ!」


「ちょっと待って」


 焦りながら張り切ってみせる奏鳥を横目に、詩貴は口に手を当てて、何やら考えているようだった。


 そんな詩貴の様子に奏鳥が困惑し始めると、彼は途端にきびすを返して防音室を出ていってしまった。


「待ってて、ノート取ってくる」


「えっ? ノート?」


 奏鳥は防音室に一人残された。そして詩貴の唐突な行動の意味を、呆然と考えているうちに──詩貴は、切迫せっぱ詰まった様子で部屋に戻ってきた。


「こら、フォルテ。ごめんね、もう少し待ってて」


 ドアの向こう側で再度愛犬とのじゃれあいを終えた詩貴は、片手にノートとペンケースを持って防音室へ入ってきた。


「奏鳥、楽譜の読み方と書き方は前に教えたよね?」


 詩貴は珍しく興奮しているのか、白い頬を上気じょうきさせて尋ねた。詩貴の動機は読めないが、彼の様子が真剣であることは奏鳥にも伝わっていた。


 再び防音室の扉が閉められ、小さな空間は緊迫した空気に満たされる。


「う、うん。音符記号の種類はまだ覚えきれてないけど……」


「“音程さえ”わかればいいよ。奏鳥、予定を勝手に変えて悪いんだけど──」




 奏鳥は詩貴から渡された五線譜ごせんふノートを、防音室内の小さなテーブルに開き、ピアノ椅子に座って背を丸めていた。


 詩貴が言うには、『これから鳴らすピアノの音を、奏鳥は一つづつ五線譜へ書き込んでいき、後ほど聴き取った音程がどれだけ正確かを確かめたい』のだという。


 これは聴音ちょうおんという基礎練習の一つらしいが、奏鳥が実際に行うのはもちろん初めてだった。緊張しなくていいと言われたが、ようするに聴き取りテストだ。そう思うと、奏鳥の肩はどうしても強張こわばってしまうのだった。


「いい? これが五線の一番下の線、“ミ”の音だよ」


 詩貴は立ったままピアノをトンと鳴らした。奏鳥は黙って五線譜へ“ミ”を書き込んで、頷いた。


 続けていくつかの音が次々に鳴らされていく。奏鳥は上下する音の流れを、一つ一つ掴み取っていくように五線譜へと書き込んでいった。果たして自分が掴んだこの音達は、正しい音程なのだろうか。




 詩貴が演奏を終えると、奏鳥も聴音を終えた。緊張のあまり硬くなった手を、膝にぎゅっと乗せたまま座り込んでいる奏鳥を、詩貴は後ろから覗き込んだ。


 ノートの五線譜に書き込まれた印の位置を見て、後ろの詩貴がはっと息を呑むのが聴こえてきた。その驚きはどちらの意味なのだろうか。


 奏鳥が思わず視線を詩貴へと向けると、彼はこれまでにないほど高揚こうようした様子で目を見開いているのが見えた。


「凄いよ、奏鳥! 初めてなのに完璧だ。趣味で耳コピしてるって聞いてたから、まさかと思ったけど……素人でこんなに音感が良い人、初めて見たよ」


 詩貴は気持ちが高ぶるあまり、立て続けに奏鳥を褒めそやした。瞳を輝かせてうきうきと語る詩貴を見ていると、奏鳥の気持ちは不思議なことに、却って張り詰めていくようだった。


 そんな奏鳥の気持ちはつゆ知らずか、詩貴は話を続けた。


「奏鳥なら音大だって夢じゃないよ! 楽器科は流石に高校からじゃ間に合わないだろうけど……これだけ才能があるんだから、声楽せいがく志望ならきっと! もっとみがけば、プロのボーカリストだって!」


 奏鳥はいつの日だったか、彼に『音楽の才能がある』と同じように褒められた時のことを思い出した。


 しかし、今日は何故かあの時のような、調子に乗る感覚が湧いてこない。それどころか、褒められているはずなのに、心の中にもやのようなものがかかってくるのだ。


「そうだ。奏鳥にもっと良いプロの講師をつけて貰えないか、父さんに頼んでみようかな……奏鳥くらいの才能なら、僕が教えるよりももっと伸び代があると思うんだ」


 詩貴の話がだんだんと飛躍ひやくしていく。楽しそうに語る詩貴に反して、奏鳥は胸の内に名状めいじょうしがたい陰りが差し込むのを感じた。


 それでも返す言葉が思いつかない奏鳥に対し、詩貴の想いはさらにせ回っていく。


「父さんだって、奏鳥のあの歌声を聴いたら、きっと投資を考えてくれるはずだよ。どうかな奏鳥、一度父さんに……相談を……」


 詩貴は話しながら奏鳥の方を向いた。そしてやっと気が付いた。


 奏鳥の表情は、他人の機微きびうとい自分にすら見て取れるほど、すっかり曇りきっていた。それでも彼の口元だけは、詩貴を困らせまいと笑っていた。


 思わず言葉を詰まらせる。そんな詩貴を見て、奏鳥はゆっくりと口を開いた。


「……なぁ、詩貴。俺って、“お前と”上手くやっていけそうかな?」


 奏鳥なりに、選んだ言い回しだった。異常に褒めたてられるあまり、奏鳥はまるで自分が詩貴から突き放されているようにすら感じていた。


 詩貴に離されたくない一心で、奏鳥は笑顔を作った。


「俺は……頑張りたいって思ってるよ」


 奏鳥の切なげな笑みに、詩貴は凍りついたように固まってしまった。「僕は……」口を開きかけたものの、詩貴はその後を何と続けていいかわからず、そのまま黙りこくってしまった。


 気まずさに空気がよどんでいくのが感じられる。払いけるようにかぶりを振ると、奏鳥は大げさに笑みを浮かべてみせた。


「な! 一緒に頑張ろうぜ、詩貴。 俺もエレキギターはゼロからだけど、頑張るからさ!」


 詩貴は『一緒に』という彼の言葉を、苦々しい顔で噛み締めると、黙って頷いた。

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