第3話 ほんとうの幸《さいわい》(前編)


「一昨日は悪かった、成谷! 俺も遅刻したら罰掃除なんて校則があるって、知らなかったんだ」


 奏鳥が登校するやいなや、沢根はいかにも切迫した様子で、開口一番にそう言った。わざわざ手まで合わせて、真摯しんしすぎる謝罪に奏鳥は却って唖然あぜんとした。


「別に、沢根が悪いわけじゃないだろ。俺がうっかりだったのは……その、事実なわけだし」


 奏鳥は弱った顔で答えた。そんな彼の気落ちした様子を見て、沢根は気をらすようにつんと顎を上げてみせた。


「そもそも、遅刻したくらいで罰掃除なんて校則があるのが古いんだよ。清掃の時間があるのに二度も掃除なんかさせやがって、全く時間の無駄だぜ。反省文とかを書かされるほうがまだ有意義じゃねえか。なぁ、成谷。俺が悪くないならお前も悪くないぜ」


 沢根らしい切れの良い励ましに、奏鳥の落ち込んだ気持ちもわずかに上向いた。しかし正直なところ奏鳥本人は、反省文を書かされるくらいなら、罰掃除のほうがいくらかマシだと思っていた。


 彼は長い文章を書くのが苦手だった。思わず中学の頃、夏休みの宿題で読書感想文が最後まで残ってしまった苦い思い出が脳裏を過ぎる。勉強は苦手だ。


 そもそも奏鳥は頭があまり良くないのか、どの教科も得意とは言い難い浅学せんがくさだった。彼にとって唯一自信が持てることといえば、音楽への情熱だけだった。


 そうしてふと奏鳥の心の中で、まるで火傷あとうずくような感覚がした。昨日の人形少年のことだ。あの青灰色の髪の少年は、それこそ実際に、海の向こうの世界も見てきたかのような博識さだった。


 一日が経ったにも関わらず、彼に口論で負けた奏鳥の悔しさが消えることはなかった。


「ありがとう、沢根。お前って、話をするのが上手いよな」


 奏鳥は本心からそう思っていた。あの人形少年は相当賢かったが、沢根の口ぶりもまた、ただならない様相を放っているのだ。


 電子音楽を勧めてきたことといい、彼は奏鳥の知らない多くを知っている。人形少年との違いは、沢根は奏鳥の味方だということだ。


「いやいや。上手いは上手いでも、俺みたいなのは“口先”が上手いって言うんだぜ」


 皮肉めいた自虐を、さも可笑おかしそうにウインクしてみせる彼のことは、やはり一枚上手だと感じざるを得なかった。




 昼食の後、奏鳥はこっそり後ろを振り返り、教室後方の席へと目を向けた。人形少年は、今日は太宰治ではない、別の本を読んでいるようだった。


 思い返せば確か、今朝の登校直後も彼は本を読んでいたはずだ。どうやらあの人形少年の博識さは、絶えざる読書の賜物たまものらしい。


 奏鳥はそれなら自分も本を読んでみようか、と一瞬思いかけた。しかしそれではやはりあの少年を真似するようで、しゃくだと思い直した。


「なぁ成谷、聞いてるか?」


「えっ?」


 低い声で不意に話しかけられ、奏鳥は驚いて前を向いた。昼食の時間から席をくっつけていた沢根が、何やら釈然しゃくぜんとしなさそうな苦笑いを浮かべていたので、奏鳥は慌てて謝罪した。


「ごめん沢根、聞いてなかった」


「いいぜ。それよりさ、夏休みだよ」


 沢根は首を横に振ると、さっきまでの苦虫を噛んだような苦笑は振り落としたように、いつもの浮ついた笑みを見せた。


「ちょっと気が早いけど、特に予定が無いなら、この前言ったバイトの話をしようかと思ってさ」


 先日聞いていた、夏休みの短期間アルバイトの話だ。沢根いわく、彼の伯父おじの知人が観光地で飲食店を経営しており、泊まり込みの給仕きゅうしを募集しているらしい。


「伯父さんの知り合いの店だからさ、できれば早めに決まると有り難いんだ。あそこ、繁忙期はんぼうきはいつもあり得ないくらい混雑するから、毎年人手不足なんだよ」


「なるほど。それで収入がいいぶん死ぬほど忙しいバイト、ってわけだ」


「成谷としても収入は高い方が良いだろ? 音楽やるならどっちにしろ、金は要るわけだしさ」


 沢根の指摘は鋭い。金銭面のことは、今しがた奏鳥の前に立ちはだかっている、大きな課題だった。「お節介かもしれないけど」と前置きをしてから、沢根は続けた。


「成谷、共高で休みにバイトなんかできるのは、一年生のうちだけだぜ」


「えっ、そうなのか?」


 沢根は飄々ひょうひょうとした態度をやめ、いかにも真剣そうに表情を強張らせて言った。張り詰めた空気に、奏鳥は思わず背筋が伸びるのを感じた。


「二年からはすぐ受験勉強が始まるからな。授業スケジュールも他所よその高校より早いんだ。稼ぐなら一年のうちだぜ。それと……」


「それと?」


 奏鳥は天敵を前にしたネズミのごとく固まって、沢根の話に耳をそばだてた。


「音楽のこともだ。もし音大に進学するつもりなら、今年中に腹をくくった方が良いぜ。それこそ、共高からの転学も視野に入れるぐらいの覚悟が必要だ」


 まるで心の隙間を突風が抜けていくような言葉だった。進学の予定のことなど、奏鳥はまだ考えていなかった。


 それと同時に、入学して数日しか経たないのにも関わらず、ただ隣の席の友人という間柄あいだがらの奏鳥のことを、先のことまで案じていた沢根にも驚きを感じた。


「この前俺、成谷に電子音楽を勧めただろ? ああいうネットを用いた手段もあるけど、正直あれでプロデビューを目指せるのは余程よほどセンスのある奴だけだ。音楽の道なら他の手もあるぜ。例えば一つの楽器を極めて演奏家、または声楽せいがくを極めてボーカリスト、って道もある。バンドはレーベルにさえ入れれば、それからでも拾ってもらえる可能性がある。どちらにせよ本気で一つを極めるなら、音大だ。けど、音大を目指すのはリスクも高いぜ」


 賭けで例えるなら大穴狙いだ、と沢根は続けた。


 確かに音楽専門科というのは、普通科と比べて就職率が低く、堅実けんじつ的、もとい現実的とは言い難い。


 その上、そもそも音大の入試に挑むような人物は、幼少期から音楽のみに振り切ってきたような猛者もさたちばかりであり、そこには入学することすら至難しなんの域だ。奏鳥のように独学だけで形作った力量では、受験戦争に打ち勝つのは難しいだろう。


 そのことは奏鳥も知っていた。いや、むしろその現実を知っていたからこそ、今まで奏鳥は音楽の道へと踏み切れずにいたのだ。


 ましてや成谷家は母子家庭だ。普通科ですら大学へ進学できるか危うい状況なのに、音大だなんて、奨学金を借りたとしても足りるかどうか怪しいところだ。


 もしも入試に落ちて、浪人または高卒なんてことになってしまったら? たとえ入学できたとしても、就職活動が上手くいかなかったら? 母さんはどうなるだろう──奏鳥の脳裏を、嫌な想像が過ぎっていった。


 母のことを思うと、胸が苦しくなる。実は奏鳥は今の今まで、母親に音楽の道へ進みたいという気持ちを打ち明けられずにいたのだ。


 共高への進学を決めた時も、表向きは軽音楽部への憧れを隠して、普通科の進学校として選んでいた。その軽音楽部が廃部になっていた以上、このまま勉学にはげみ、普通科の大学へと進学して、安定した企業への就職を目指すという道も考えていた。


 たった一つの夢と、たった一人の家族が、天秤てんびんに掛けられてしまった。自分は一体、どうするべきなのだろうか。


「……ごめん成谷。俺、今意地悪なこと言ったわ」


「えっ?」


 沢根はばつが悪そうに目を泳がせ、首をかいた。彼が困った様子を見せるのは初めてだった。何故かそれがとても意外なことであるように感じて、奏鳥は目をまたたかせた。


 困りながらも、沢根は口角を上げてみせた。彼は口が上手いが、笑顔を作るのも上手かった。


「いいや、まだ何も決まってない成谷相手に、立て続けに色々言いすぎたなって思ってさ。いては事を仕損しそんじる、とは言ったもんだ。今の話、一旦置いといていいぜ。焦るとろくなことになりゃしねえからな」


「確かにそうかもしれないけど……でも、沢根のアドバイスはその通りだったよ。意地悪なんかじゃないぜ」


 奏鳥は本心からそう思っていた。自分は確かに世間知らずだし、沢根の言うことはいつも的確だったのだ。


 しかしそれでも、「いや」と沢根はかぶりを振った。


「今、俺は確かに意地悪だったんだ。悪い、成谷。完全に“こっちの”話だから、今のは忘れてくれ。ごめんな」


 彼の言うこっちの話とやらが、一体どちら様の話なのかはさだかでなかったが、奏鳥はとりあえずうなずいた。




 やがて昼休みの終わりを告げる鐘の音が聞こえたので、二人は机を元の位置へと戻すことにした。


 そのとき一瞬、沢根は奏鳥──ではなく、その後ろの席の方へと目をやったように見えた。しかしやはり奏鳥には、沢根が一体どちら様のことを気にしているのかはわからなかった。


 それより奏鳥は、沢根から言われた先のことが気がかりでならなかった。『急いては事を仕損じる』と彼は言ったが、奏鳥本人としては、それは中学時代から後回しにし続けた問題だった。沢根の言う通り、早く腹を括らなければならないだろう。


 奏鳥の胃の中では、食べたばかりの昼食が煮えるように焦りがたぎっていた。


---


 けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。


 本の中の一節いっせつで、ジョバンニがう。詩貴にはやはり、カムパネルラと同じく『わからない』という答えしか出せなかった。しかしそれでも、銀河鉄道は線路を進んでいく。


 人の幸せのためなら、どんなことでもしようと決意を改めるジョバンニの一方で、カムパネルラは天上の世界へ消えていってしまう。現実に戻って、友を失ったジョバンニは、ただ父の帰りを知らせるため母の元へと帰っていく。


 こうしてこの物語は、ぼんやりと疑問を残したまま終わってしまうのだ。


 しかし、詩貴はこの銀河鉄道の夜という作品が好きだった。作中で語られている“ほんとうのさいわい”は様々な意味を持つ。


 気の毒な鳥捕とりとりが消えたときは、ジョバンニは自分の持つものを譲ればよかったと思う。難破船なんぱせんで亡くなった青年達の話を聞いたときは、彼らが他人の幸のために、家族を犠牲にしなければならなかったことを知る。


 理想の幸と、現実の幸はあまりにも違う。そういった背景が描かれているからだろうか、詩貴はこの物語を読むとき、どこか心持ちが落ち着くように感じたのだ。


 詩貴にも彼なりの理想の幸がある。しかし、所詮しょせんは理想でしかない。厳しい現実の前では、成せない綺麗事など無いに等しい。けれども心の内側では、その綺麗な理想は抱き続けていて良いものなのだろう。


 銀河鉄道の夜の物語は、そうしてふらつく詩貴の理想を、まるで肯定してくれているように感じられた。賢治ともしもどこかの銀河で会えたなら、詩貴は『僕はあなたのおかげで幸いです』と伝えたかった。




「なぁ成谷、聞いてるか?」


「えっ?」


 前方で聞き覚えのある声が、聞き覚えのある名前を呼ぶのが耳に入った。詩貴は本を読みふけるふりをしながら、こっそりと視線をそちらへとやった。


 ザネリ──銀河鉄道の夜の登場人物のことではなく、沢根英里のあだ名のことだ──のやつが、成谷と何やら話をしている様子だった。流石に話の内容までは聞き取れないが、彼らの様子を見るに、どうやら真剣な話をしているようだ。


 普段はヘラヘラとしているザネリのやつが、成谷に真摯な顔をして何かを訴えている。成谷はどうも何か迷っているのか、考えあぐねているらしく、ザネリの話に時折ときおり首をかしげたり、頷かせるのが見えた。


 まだ初登校から数日目だというのに、彼らはもう親しい間柄になったらしい。


 ザネリは自分と違い口が上手く、友人を作るのも上手かった。小学校の頃から彼と何度も同じクラスになっていた詩貴は、そのことを嫌になるほど知っていた。


 そうして詩貴は、もう一度本へと視線を戻した。今更成谷のことを気にするだなんて、未練がましくて、全く自分らしくないと思ったのだ。


 どうせ二人とも、自分とはとっくに関わりのない人物だ。ザネリとはもう数年の間、会話すら交わしていないし、成谷だって昨日はあんな酷い口喧嘩をしたのだから、これから先関わることはないだろう。


 それでも未練が後ろ髪を引いてしまうのは、きっとあの赤い夕のこくに聴いた、成谷のあまりに青々とした歌声のせいだ。


 その後の詩貴はもう、顔を本へとうずめるようにして昼休みの時間を過ごしていた。あの二人があんな風に親しそうに話しているのを見ると、詩貴でさえ悔しいと感じるのだ。自分には、至って対人関係能力という技術が欠けていることを痛感する。


 そうしてまた思い返す。やはり自分の一生は、こんな風に延々と本とばかり顔を合わせて、人とはろくに話すことはなく、それこそ文字通り“葬式”のように終えてしまうのだろう。詩貴はもう、自分の先のことはそうだと決めつけるような気持ちでいた。


 だからその日の夕方、彼は度肝どぎもを抜かれるほど驚くこととなった。


 どういう風の吹き回しかはわからないが、成谷の方から詩貴を訪ねてきたのだ。




「今日は太宰じゃないんだな」


 放課後、急に成谷からそう言われ、詩貴は驚きのあまり何も答えることができなかった。


 一方成谷の方はというと、詩貴が返事をしないことを疑問そうに、きょとんとした顔をしつつ、その注意は詩貴の読んでいる本の方へ向いているようだった。


「銀河鉄道の夜? 宮沢賢治って、雨ニモマケズの人だっけ。確か小学校の頃に習ったような……」


 詩貴は、成谷が勝手にああだこうだと話すのを、ただ呆然ぼうぜんと眺めるほかなかった。何をどう返事すればいいのか、皆目かいもく見当が付かなかったのだ。


 そもそも彼は何故、こうしてまた自分に話しかけてきたのだろう。詩貴には成谷の考えていることが全く読めなかった。


 しばらくすると、成谷は唐突に「あっ」と口走り、これまた急に手を差し伸べて、やや大仰おおぎょうそうに口上こうじょうを述べ始めた。


「俺は成谷奏鳥。お前は?」


 成谷の方からそう名乗られたことで、詩貴はようやく、自分は成谷の名前を知らなかったし、成谷にも名前を教えていなかったことに気がついた。


「……椀田詩貴」


 詩貴の口からは、これまた簡素に、名前だけが小さく吐き出されるのみだった。


 そんな彼の様子に、成谷は差し出したままの右手を、見せびらかすようにふらふらと揺らし始めた。


「いや、手。お前も出せよ」


 その表情はとても握手を求める友好的な態度とは思えない、むしろ好戦的ともいえる歪んだ笑顔だった。


 詩貴は恐る恐る手を出した。すると成谷に勢いよくつかまれたので、思わず「わっ」と情けない声をあげる羽目になった。


「よろしくな、詩貴」


 詩貴の手をしっかりと握りながら、にやりと不敵に笑う成谷は、何かに勝ち誇っているかのようだった。


 一体彼が何と戦っていたのかはわからない。しかし詩貴もひとまず彼を真似て、緩やかに口角を上げてみせた。


「えっと……よろしく、奏鳥」

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