第3話 ほんとうの幸《さいわい》(後編)
話は少々
沢根からは気まずそうに声を掛けられたが、「それこそ“こっちの”話だから、気にしなくていいぜ」と緩くかわしておいた。
こういう時は、まずは優先順位を
つまりは、二年に進級するまでに音楽科も普通科も選ぶことができるよう、余裕のある状態になるべきということだ。ようするに、
強引なやり方かもしれないが、どちらかに腹を括るまでは、それらを両立する以外の道はなかった。
そこまで考えて、ふと奏鳥はあの人形少年のことを思い出していた。
彼こそまさに、文音両道の者ではないだろうか。あの少年は博識だが、その上で奏鳥たちの英雄、もとい七十年代の海外ロックバンドにも、あれだけ
振り向くと、やはり今日も人形少年は教室の隅で、放課後に残ってまで読書に
今朝までは
いずれにしろ、奏鳥は人形少年に関わるべきだと考えた。たとえ昨日のように正論で叩き潰され、豊富な知識に焼き焦がされようが、食ってかかってやるくらいのつもりでいたのだ。
そもそも奏鳥は、極度の負けず嫌いだった。むしろ昨日の口論があったからこそ、人形少年には、
奏鳥は手始めに、彼の読んでいる本について尋ねることにした。
「今日は太宰じゃないんだな」
本の背には、“銀河鉄道の夜 宮沢賢治”と書かれていた。
そういえば、賢治も明治生まれの文豪のはずだ。確か小学校の国語の授業で、詩や童話を習ったような記憶がある。この人形少年も、奏鳥が沢根から
奏鳥は彼のあの博識さの根源が、一体どこから湧いているのかが気になって、その後も人形少年に色々と話しかけてみた。
しかし昨日はあれほど
また読書に夢中になって、無視をされているのだろうか。奏鳥はそう思ったが、よく見ると人形少年の視線は本ではなく、確かに奏鳥の方へと向けられていた。
人形少年のそんな
しかし未だ思春期の最中にいる男子高校生にとって、相手より優位に立ちたいというプライドは、大人が思うより優先順位が高いものなのだ。
奏鳥はもう、すっかり調子に乗っていた。何故か今なら、この博識の少年に対して、こちらの熱意が勝つだろうという自信すらあった。
奏鳥は自ら手を差し出して、まるで武将にでもなったかのような勢いで名乗りを上げた。
「俺は成谷奏鳥。お前は?」
人形少年は何を思っているのか、ぽかんと口を開けて
椀田詩貴──どこかで聞いたことのある名前だ。どこで聞いたのだろうか。
思考を巡らせて、奏鳥は入学式直後のロングホームルームの、自己紹介のことを思い出した。教室の一番後ろの、一番端の席で、一番最後に『特に何もないです』と言い放った彼だ。
他の誰もが『マンガが好きです』とか『野球観戦によく行きます』など、
けれど奏鳥は知っていた。詩貴には本当に“何もない”わけがない。少なくとも、何世代も前のロックバンドを、あんなに
だが、それなら
奏鳥は差し出した右手をそのままひらつかせてみせた。明らかに困惑している様子の詩貴に、お前も手を出せと握手を求めた。
詩貴は少しの間迷っていたが、やがて恐る恐るといった
「わっ」と怯えた声をあげた彼は、やっぱり人形なんかではなかった。
その手は奏鳥の体温よりも冷えてはいたが、ほのかに暖かかった。生きた、人の手だった。おまけにわずかに震えているようだった。
奏鳥は詩貴の手の震えを、押さえつけてやるようにしっかりと握った。
「よろしくな、詩貴」
自分でそう言ってから、奏鳥は自らの
「えっと……」
言い
「よろしく、奏鳥」
詩貴は不器用に口角を上げて見せた。しかしその目は怯えきっていて、ちっとも笑っていない。彼は口下手なようだが、笑顔を作るのも下手だった。
それでも下手なりに笑顔を見せた詩貴の姿に、奏鳥は自分の世界が、まるで安らかに転調していくかのような心持ちを感じていた。
奏鳥は震えがおさまった詩貴の手を、そっと離してやった。
そして、いっそ「俺に話しかけられるの、嫌か?」と尋ねてみた。しかし詩貴はその問いには首を振って、「そういうわけじゃない」と答えた。
そういうわけじゃないというのなら、一体どういうわけなのだろうか。奏鳥は理解できないながらも、まずは詩貴のことを知りたいと思っていた。
詩貴は明らかに、自分自身のことを隠そうとしている。しかし奏鳥は、そうして隠されれば隠されるほど、却って気になってしまう
暫くすると、ためらっていた詩貴はようやく何かを決めたのか、顔を上げた。奏鳥も勝手に話しかけるのをやめて、彼の話に耳を
「あ、あのさ」
詩貴の声はやはり震えていた。一体何がそこまで怖いのだろうか。確かに奏鳥は中学の頃、不良のように振る舞っていた時期があった。しかし自分のことが怖いのなら、何故昨日の詩貴は怯えていなかったのだろう。
「……君は、どうして僕に話しかけるの」
「ええっ?」
思ってもいなかった質問が返ってきたので、奏鳥は
「どうしてって、逆に理由もなく話しかけたらいけないのかよ?」
奏鳥は当然のようにそう答えた。詩貴は一旦何かを考えてから、やはりどこか後ろめたそうに話し始めた。
「君の隣の席、沢根……君、でしょ。彼から何か、聞いてない?」
詩貴の視線は完全に奏鳥から
奏鳥はいつだったか、確かに沢根から、『あいつとはあんまり関わらないほうがいいぞ』と言われていたことを思い出した。詩貴が怖いのは、沢根のことなのだろうか。
そのことをそっくりそのまま言うと、話を聞いた詩貴は「じゃあ、何で僕に関わろうとするの」と答えた。
これでは堂々巡りだ。
「だから、関わったらいけないってわけじゃないだろ? それともお前は、俺に関わられるのが嫌なのか?」
もう一度改めて尋ねたが、詩貴はやはり首を横に振った。奏鳥は詩貴の恐れているものが一体何なのか、ますますわからなくなった。
一方。それは詩貴も同じだった。詩貴の方こそ、自分が何に怯えているのか、どうして奏鳥と話すのが怖いのか、わからなかった。
けれど、確かに自分で首を振った通り、彼と関わりたくないわけではなかった。むしろもう一度、あの青い歌声を聴く機会が与えられるのなら、
それなのに、自分でもわからない何かが怖くて仕方がなかった。その理由を、奏鳥に説明することができなかった。
しかし一向に
「だったら、別に良いじゃねーか」
詩貴は顔を上げた。奏鳥の笑みは、もう好戦的でも、
今の奏鳥の笑顔は、詩貴にとって、優しい、と感じられる青さを
あの歌声と同じだ。吹き抜ける空のような、高く広大な青。または芽生えたばかりの新芽ような、力強い生命の青。気持ちのいい青さだった。
奏鳥は続けた。
「っつーか俺、確かに沢根から“関わらない方がいい”って言われたけど……“関わるな”とまでは言われてないぜ」
奏鳥の話す言葉の切れ味は、どうやら彼の隣の席の友人に似てきたようだ。
「っていうか、たとえ関わるなって言われてたとしても、そんなの知らねーよ。関わるかどうかは俺の勝手じゃんか」
そうだ。勝手だ。彼の美しい青さは、ひどく自分勝手で未熟な青さなのだ。今の彼は、隣の席の友人のことなんか気にもかけず、詩貴の方へと青い笑みを向けている。
奏鳥は歯に
笑ったのなんかいつぶりだろう。一体何がこんなにおかしいのだろう。わからないけれど、よくわからないのに笑ってしまった自分のことすらおかしくて、それがまた笑えてしまうのだ。
奏鳥は少し驚いたが、やがて「わかった」と何かに納得したように言った。
「俺、多分お前のそういう顔が見たくて、お前に話しかけたんだ」
詩貴の笑いが一旦おさまった。
「何それ。多分、ってどういうことなの。意味がわからないよ」
「俺もよくわかんない。けど、なんか今、急にそんな気がしてきたんだよ」
そして、もう一度笑いが込み上げてきた。もう、おかしくて仕方がなかった。今の詩貴には、さっきまであんなに酷く怯えていた自分のことが、
「そうか。そうだね。君自身にすらわからないことが、僕にわかるわけがないんだ」
詩貴は自分でそう言って、
怯える必要なんか、最初からなかったのだ。
意味もなく笑う詩貴につられたのか、奏鳥の方も笑いが込み上げてきた。西陽の差す春の教室が、彼らにはやけに熱く感じられた。
その後、夕焼けに染まった教室でひとしきり笑い合ってから、奏鳥と詩貴は
「じゃあ俺、こっちだから」
少し歩くと、奏鳥はもう家が近いらしく、詩貴に手を振って別れを告げた。それから詩貴が別れを惜しいと思う間もなく、奏鳥は詩貴の目を見て話し始めた。
「明日も話そうぜ、詩貴。なんだか沢根には悪いみたいだから、また放課後にさ」
「うん。また、放課後に」
よく見ると奏鳥の瞳は、今しがた傾きつつある、夕陽のような黄金色をしていた。
詩貴は生まれて初めて、夕陽のことを暖かいと思った。そしてもう今にでも、また明日の夕方に、陽が傾き始めるのが待ち遠しくなっていた。
彼らの長かったイントロは、ようやく終わったようだ。しかし音楽が盛り上がるのは、これからだ。
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