天上デンシロック

第2話 斜陽の放課後(後編)

　恥の多い生涯を送って来ました。

　第一の手記はこうして幕を開ける。人間失格者の彼は、『自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安のために、発狂しかけた事さえあります』と述べている。

　椀田詩貴（わんだしき）は、“世と自分が食い違っている不安”という言葉に似た想いを抱く一方で、道化と成（な）ってまで人との繋がりを求めた彼を、最後まで理解することができなかった。

　人間失格の彼が、恥の多い生涯を送って来たというのなら、自分なんかはもはや、生まれて来たこと自体が恥だったのではないだろうか。

　多くの人が恐らく嫌悪感や軽蔑（けいべつ）、または昭和初期という時代への同情、といった機微（きび）を感じるであろう名作を読んでも、なお詩貴の心は微動だにしない。あるのは中途半端な微々たる共感と、無理解という解釈だけだった。

　そんな自分を、詩貴は“人間未満”か、“人間失敗作”のどちらかだと思った。

　女は引き寄せて、つっ放す、とはよく言ったものだ。令和の時代に生きている詩貴には、それは時代錯誤（さくご）な表現だった。しかし女性に限らなければ、その表現は言い得て妙だ。他人は皆、波の押し引き、または潮の満ち干きのようなものだった。

　急にやってきたかと思えば、瞬く間に引いていく。そうして波に揉まれた流木のように、だんだんと干からびていったのが今の自分だろうか。そんなことを考えてから、詩貴はそもそも自分には、生きた木だった時期すら無かったな、と思い改めた。

　幼い頃の詩貴は、家族や周囲から賢いと褒めそやされて生きていた。確かに彼は賢かった。そろばん、書道、絵画、プログラミング、そしてピアノなど、大抵の習い事は始めてわずか二、三日で、人並み程度にこなせるほどだった。

　しかし、ただそれだけだった。それ以上でも以下でもなかった。詩貴は確かに賢かったが、それはただ賢いだけだった。

　書道も絵画もプログラミングも、数日で上手くなり、こなせるようになったその瞬間は、周囲の注目を一身に集めた。だが、常にその瞬間だけが頂点だった。人より少し上手い。いつもその程度で詩貴の上達は止まってしまう。上達が止まったとわかれば、集まった者たちは皆興味を失って引いていくのだ。

　だから習い事なんてものは、大抵が続かなかった。人並み程度に出来るようになって、そこで止まり、終わる。その繰り返しだ。

　詩貴は生まれつき体力がなく、病弱だったこともあり、両親は共に彼に甘かった。そのため詩貴が『やりたくない』と言えば、稽古（けいこ）はそこで終わるのだった。

　ただ一つ、ピアノを除いて。

　詩貴は、ピアノが好きだった。ピアノは鍵盤を叩けば音が鳴る、至ってシンプルな楽器だ。しかしその音は同じ鍵盤を叩いても、指に込める力や、ペダルの踏み方一つでたちまち表情を変えていく。ピアノは繊細な楽器でもあった。

　ピアノを弾くときの詩貴は、まるでもう一人の自分と談笑を交わしているかのようだった。見えやしない自分の内側が、音となって目の前に現れているかに思えたのだ。

　そうして奏でた旋律を周囲から褒められれば、詩貴は満たされた気持ちになった。他の稽古と同様に上達の頂点が見えてしまっても、詩貴はピアノを弾くことだけはやめなかった。

　たとえ人からの評価が衰（おとろ）えようと、ピアノを奏でること自体が好きだった彼は、弾き続けることができたのだ。

　しかし、それすらも挫折（ざせつ）した。あれは小学校の四年生、いわゆる二分の一成人式と呼ばれる、十歳の門出（かどで）を祝われた時期のことだ。

　当時の詩貴は、まだ九歳だった。詩貴は入学前から弾き続けていたピアノを、ついに発表会という舞台で初めて披露することになっていた。

　演目は、ショパンの革命だった。小学生にはやや難易度の高い譜（ふ）だったが、詩貴は弾きこなせる自信があった。革命のエチュードは、たとえ練習の時間でなくとも自ら何度も弾き、譜面を覚えてしまうほど好きな曲だったのだ。

　それほど慣れ親しんだはずの譜であったにも関わらず、詩貴の革命は失敗に終わった。あの舞台での失態は、乱にすら満たない無様なものだった。

　練習のときは、楽譜など見ずとも流れるようにユニゾンをこなしたはずの手が、人前に出た途端、思うように動かなくなってしまったのだ。革命は左手の動きが激しい曲だ。左手がうまく動かないことに動揺し、右手の主旋律も乱れていった。

　結局、最後までまともに弾くことすらできずに、詩貴は舞台から下りることになった。周囲の人々はそんな彼のことを、『たった九歳の少年が、革命のエチュードを初の舞台で披露しようとした』ことを褒め称えた。

　その必要最低限とも言える賞賛は、却って詩貴のプライドを粉々に砕いてしまった。

　詩貴はそれから、ピアノだけでなく何に対しても、挑戦するということ自体を恐れるようになっていった。上達しても頂点が見える。楽しんでも失敗をする。期待されればその分失望される。

　彼は、自分自身に対して失望しきっていた。

　当時の詩貴は、ピアノを弾くこと以外の趣味と言える嗜好（しこう）を持っていなかった。詩貴は賢い少年だったが、他者の気持ちには鈍感で、交友は常に上手くいかなかった。

　時にはクラスメイトの一人と口論になり、詩貴は持ち前の賢さと共感性の無さを以（も）って相手を正論で打ち負かし、却って周囲から避けられることすらあった。

　そんなふうに他者と衝突するたびに、詩貴は自分自身にますます失望していった。失望はやがて空虚となって、詩貴の中身を空白で満たしていった。

　そうして詩貴は、表情を失っていった。やがて感情を表に出すどころか、感じることそのものを忘れるようになっていった。

　時折、詩貴のことをよく知らない人物が、彼の表向きの賢さと整った容姿に惹かれて近づいてくることがあった。しかし、人というのは案外聡（さと）いものだ。すぐに彼の空虚さを見抜き、皆すぐに離れていってしまう。その繰り返しだった。

　人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於（お）いては欠けている。人間失格者の言葉は、またも中途半端に詩貴に当て嵌（は）まってしまうのだった。

　ただ詩貴の場合は、そこに彼の思う恐怖や道化といった芝居じみた想いはない。只々（ただただ）、空洞ばかりが大口を開けているのだ。何もなかった。

　何もないということだけが、彼の内側の全てを支配していた。

　電子歌姫に出会ったのは、それから中学へと進学した後のことだった。

　当時の詩貴はインターネットを、勉学に必要な情報を得る程度にしか利用していなかった。電子歌姫が歌う音楽に出会ったのも、たまたま観ていた動画の広告で聴いたから、という粗朴（そぼく）なものだった。

　他に趣味はなく、貯めていた小遣いにも余裕があった。また音楽がやりたいというほどの熱意があったわけではなかったが、仮想現実の空間で、架空のボーカリストが歌う電子音楽の世界は、詩貴が貯めた小遣いを崩してみようかと思う程度に、興味を惹くものがあったのは確かだった。

　詩貴は自らソフトウェアを購入し、自ら電子音楽の作り方を学んだ。そして持ち前の賢さで、わずか一週間後には初めての楽曲を作り上げていた。

　詩貴は周囲の電子歌姫作家に倣（なら）い、ネット上では仮名（ハンドルネーム）を名乗って活動を始めた。自分と同じ名前の詩人、正岡子規の代表作である『病牀六尺（びょうしょうろくしゃく）』をアーティスト名として掲げ、初の楽曲を音楽アプリケーションへ投稿した。

　初めはそれほど反応があったわけではなかった。しかし、地味ではあったがコメントが付くこともあった。『次回作に期待』、などという言葉は少々皮肉めいていたが、詩貴の動機を煽（あお）るには十分だった。

　それならもっと上手くなってやろう。詩貴は仮想現実という海へ自ら飛び込んで行ったのである。

　そうして一年ほどが経ち、詩貴が数曲目を投稿した頃。ある事件が起こった。事件といっても大したものではない。しかし当時、地味ではあったが着実に愛好者（ファン）を獲得していた詩貴にとって、それは彼のアイデンティティを揺るがす出来事だった。

　何者かが、詩貴が現役の中学生であることを漏洩（ろうえい）したのだ。詩貴ははじめ、年齢程度は特に取るも足らない情報だろうと思い、黙認していた。

　しかしその情報は瞬く間に拡散され、そして本人の想像を遥（はる）かに上回る反響を呼んだ。詩貴の音楽は、彼が自分で思っているよりも、過大に評価されることになったのである。

　良くも悪くも賢い詩貴は、すぐにその理由を理解した。若さだ。彼がまだ、中学生であることが評価されたのだ。

　それは音楽への絶対的な評価ではなく、彼の幼さへ対する相対的な評価だった。詩貴は焦った。彼の空虚でありながら尊大なプライドは、その相対的な評価を絶対的なものに覆（くつがえ）したくてたまらなかった。しかしまたも、彼のその尊厳（そんげん）さが、彼自身の好奇を打ち砕くことになってしまった。

　どうあがいても、詩貴の幼さへの相対的な評価を、詩貴の音楽の絶対的な才能が上回ることはなかった。詩貴は大衆が好くジャンルを懸命に研究し励んだが、それでも再生数、評価の数は伸び悩んだ。

　やがて中学生のアーティストなんていう、現代において特段珍しくもない冠は、濁流（だくりゅう）の如く速い流行の前には瞬く間に飽きられていき、評価の数は右肩に下がっていった。

　詩貴は中学生という若さを評価された。それが電子音楽における彼の頂点であり、詩貴はついにその頂点を、実力で破ることはできなかった。仮想現実の世界でさえ、結局は現実の延長でしかなかったのだ。

　波はまたも引いていき、詩貴は砂の上へと打ち上げられるように現実を叩きつけられた。

　結局はどこへ行こうと、何をしようと、彼が彼である限りは、全て同じ結末になってしまうのだ。波打ち際で無気力に転がる、干からびた木片のような無惨な状態になって、詩貴はようやく悟った。

　だから彼は、音楽という形で全てに別れを告げることにした。もちろん、自決などという馬鹿げたことをするつもりではない。遺作を作ることにしたのだ。

　自分の全てにおける頂点、天井が見えてしまった今。できることはもう、この哀れなアーティスト気取りの屍（しかばね）の、後始末くらいしかなかったのだ。

　せめて、あの青い蓴菜（じゅんさい）模様の椀へと積もった、みぞれのように。この渇ききった心にさえ、びちゃびちゃと降り続けるどうしようもない気持ちが、いずれどんな形でもいいから誰かへと伝わって、それが“さいわい”となるように。

　詩貴は最後の一曲に、憧れの詩人の言葉を借りて、わずかに残った想いを詰め込んだ。

　彼は、本当は誰かの役に立ちたくて仕方がなかった。褒めて欲しかったわけではなく、認められたかったのでもなく、ただ自分が何か良いことをして、誰かに喜んでほしいだけだった。

　体が弱い彼は、人より出来ないことが多かった。けれど別の何かが上手くできたとき──書道も、絵画も、プログラミングも、そしてピアノを弾けたときも──あの瞬間は確かに、嬉しそうに笑う母が、父が、そして自分のことが、好きだった。

　ただ、その生き方を続けるには、彼はあまりにも不器用だった。詰め込みすぎた永訣は、みぞれの白さにはほど遠い混沌とした楽曲になってしまった。

　やはりこれが自分の天井なのだろう。そう理解した詩貴は、永訣を遺作に音楽を辞めたのである。

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　あれからまた、いくつかの年月が過ぎた。高校一年の春は、生温い通り雨が過ぎていくのを、ぼんやりとやり過ごすように迎えた。

　共立高等学校は、県内では有数の進学校だ。恐らく入学者の殆どが、都内や国立の大学への進学を目指しており、何らかの夢や目標を持っているはずだ。入学式当日、そうして思い思いに迎えただろう周囲のざわめきが、詩貴にはさざめく雨音か何かのように聞こえていた。

　詩貴は依然（いぜん）として賢くはあったが、もはや夢も目標もない。ただ単に偏差値が高いという理由で、この共高を選んでいただけだった。

　その後のロングホームルームの自己紹介で、口をつくようにして出た『特に何もないです』という言葉は、半ば自分自身への当て付けだった。

　彼には趣味も特技も夢も希望も、本当に何もなかったのだ。真の意味で己を紹介するのならば、何もないと言う他はなかった。

　初対面の自己紹介という場で、それも一番際立（きわた）つだろう最後の席で、一人だけそんなひねくれたことを口走ったものだから、詩貴は入学早々悪い意味で目立つこととなった。とはいえ詩貴本人は、椀田という苗字が常に五十音順で最後の方になるため、悪目立ちをすることには慣れきっていた。

　高校入学という節目だろうと、所詮はただ波の大きさが少し変わるくらいである。いくら悪目立ちしようが、黙っていればそのうち波はまた引いていく。

　そうしてまた一人になる。こうして自分の一生は、流されるままの流木のようにつまらなく終えるのだろう。

　その日も詩貴は、鬆（す）の入った枯れ木のような気持ちで放課後を過ごしていた。今朝図書室で借りた本を読み終えそうだったので、今日のうちに返してから帰ろうと思っていたのだ。

「ごめん、そこ拭きたいんだけど」

　前方から聞こえてきたのは、不機嫌なのを隠す気すらない疲れた声だった。詩貴は仕方なく一旦本を閉じ、席を離れた。

　机の前に立っていた金髪の少年は、まるで面倒だというしかめ面で、詩貴の机をやや乱雑に拭き始めた。

　なるほど。読書に夢中で気がつかなかったが、彼がどうやら“うっか成谷くん”の成谷らしい。初日から遅刻をし、遅刻の罰掃除の校則に気づかず帰宅したことを揶揄（やゆ）して、クラスメイトの一部がそう呼び始めていたのだ。

　成谷のあだ名だけは詩貴も知っていた。一方、自分が彼らからつけられたあだ名は“お葬詩貴（そうしき）”だ。うっか成谷くんのほうがまだマシだろう、とつい不毛なことを考えた。

　そんなうっか成谷くんこと成谷は、机を拭き終えるとさっさと雑巾を片付けて、そのまま流れるように床の掃き掃除へと取り掛かった。まるで詩貴のことなんか、はじめから存在していないと思っているような手際（てぎわ）の良さだった。

　それでいい、と詩貴は思った。読書の邪魔をされるくらいなら、自分のことなど無視してくれた方が好都合だ。再び視線を本に落とす。

　人間失格者の男は、薬物中毒に溺れ、脳病院へと強制入院させられたところだった。哀れな男は父の重圧に怯え、世間に怯え、異性に怯え、友人にすら怯え、ついに自身に失格の烙印（らくいん）を押したのだ。詩貴はそんな葉蔵（ようぞう）の人生を、他人事のように読み流した。

　やがて日は沈んでいく。人間失格者が、廃人という烙印を喜劇名詞に例えたところだった。

　ふと、斜陽（しゃよう）の放課後には似合わない、陽気な歌声が耳に入ってきた。顔を上げると、成谷が自在箒を振りながら歌を歌っていたのだ。

「ウィーアーザチャンピョンズ──」

　成谷の英語の発音は、とてもじゃないが褒められたものではなかった。海の向こうの人たちが聞けば、『Eng“r”ish』と揶揄するだろう拙（つたな）さだ。

　しかしその声量は、沈みゆく陽を押し上げるかのごとく熱を増していく。「ウィーアーザチャンピョンズ、ウィーアーザチャンピョンズ」……気づけば四十畳ほどの教室は、彼の単独ライブ会場となっていた。

　歌いながら彼自身も熱を上げたのだろう、箒はスタンドマイクへと変わり、成谷は拳を掲げて熱唱し始めた。若くして天へと旅立った、かのボーカリストの如く。

　詩貴は、何もないはずの自分の内側が震えているように感じた。理由はわからないが、この少年の恥も世間体もかき捨てた大胆な歌声が、振動となって自分へ伝わっているように思えたのだ。もしも詩貴が楽器だったなら、共に音を鳴らしただろう。彼は、成谷の歌う姿に見惚（みと）れていた。

「オーブザヴァール……」

　教室中に、拙い英語の熱いファルセットが轟いた。もしも詩貴がアリーナ席の観客だったなら、このうら青きボーカリストに歓声と拍手を浴びせたはずだ。

　しかし教室の隅で小さく佇（たたず）んでいた彼は、代わりに一言の感想を発するのみだった。

「ずいぶん古い曲を知ってるんだね」

　熱くなった胸の内からでさえ、そんなありふれた言葉しか出てこなかった。詩貴は空っぽの胸中（きょうちゅう）から、やっとの思いで声を吐き出した。

　自分から他人へと話しかけるのなんて、随分（ずいぶん）と久しぶりのことだった。

「えっ⁉︎」

　成谷はよほど驚いたのか、素っ頓狂（すっとんきょう）な声をあげてこちらを向くと、そのまま黙りこくってしまった。

　なるほど。確かに彼はカナリヤだ、と詩貴は思った。成谷の隣の席の、ザネリの野郎──沢根英里（さわねえいり）のことだ。詩貴は彼を心の中でザネリと呼んでいた──がそう言っていたのを、盗み聞いていたのだ。

　炭鉱のカナリヤは、有毒ガスの発生を感じると鳴くのをやめ、周囲に危機を知らせるという。ならば彼の美しい鳴き声を止めてしまった自分は、メタンか一酸化炭素といったところだろうか。詩貴は自嘲（じちょう）した。

　一方成谷は、自分でも人前で歌っていた自覚がなかったのだろう、慌てて口を塞ぎながら視線を泳がせ、狼狽（うろた）えている様子だった。

　どうやら彼は、思っていることをそのまま顔に出してしまう性合（しょうあ）いらしい。まるで顔に動揺という字が書いてあるかのような、わかりやすい仕草だった。

「……知ってるのか？」

　少しして、落ち着いたらしい成谷がそう言った。彼の表情にかすかに嬉しげな赤みが差したのを見て、詩貴はひとまず安堵した。

　彼の歌っていた“伝説の勝者達”という楽曲について、詩貴は知っていることを語った。詩貴や成谷の年齢からすれば、それは少々古い世代の曲だ。

　しかし一時的とはいえ音楽を趣味にしていた詩貴にとっては、十分すぎるほどメジャーなロックバンドだ。クラシックや電子音楽に傾倒（けいとう）しがちだった彼でも、ジャンルを越えた魅力を感じるほどだったのだ。

「僕は生憎、ロックにはそこまで詳しくないけれど……ピアノが好きなんだ。良い趣味だと思う」

　詩貴は空っぽだと思っていた自分の内側から、湧き出るように言葉が溢れてくることに驚いていた。

　作曲者のボーカリストはピアノが好きで、詩貴が幾度（いくど）も焦がれていた“革命”のショパンからも影響を受けていたという。音楽というものは、思わぬところに接点（ルーツ）があるものだ。詩貴は語りながら、音楽の世界に感服していた。

　気づけば詩貴の口から、自然と“放浪者の狂詩曲”という題名が出ていた。

　あの曲は前奏からオペラを彷彿（ほうふつ）とさせるコーラスと、ゆったりとしたピアノの旋律が流れ、その後もさらに激しい転調を繰り返す革新的な楽曲だった。詩貴は、伝説の勝者達の作品では、あの曲が一番好きだった。

　一方成谷は、急に増水した川のように話す詩貴に対し、少し驚いた様子だった。しかし暫（しばら）くすると彼はだんだんと懇意（こんい）的な表情になり、「“スカラムーシュ”って何かわかるか？」と尋ねてきた。

　放浪者の狂詩曲の、歌詞に登場する単語だ。成谷もあの楽曲が好きで、その難解な歌詞の意味を尋ねているのだろう。詩貴は知っていることを答えた。

　“スカラムーシュ”、“ファンダンゴ”、“ガリレオ”、“フィガロ”……どの単語の意味も、知識としては知っていた。しかし詩貴はそれらを語りながらも、こうして説明すればするほど、成谷が却ってあの熱い青さを失ってしまうのではないかと、徐々に不安になっていった。

　先程詩貴を響かせた成谷の歌声には、意味も知識もかなぐり捨てた魅力があったのだ。このまま無粋（ぶすい）な解説なんかを続けたら、彼の吹き抜ける空のような青さに、曇りが掛かりそうに思えてならなかった。

「……多分、彼はこうやって解説されることは、望んでいないと思うな」

　詩貴は作詞したボーカリストの言葉を借りながら、やんわりと成谷の探究心を止めようとした。

　しかし、どうやら言葉の選び方を間違えたらしい。成谷は額に皺を寄せ、憤（いきどお）りを感じているようだった。

　また間違えてしまった。詩貴は本当に、他人と会話を交わすということが大の苦手だった。今までの人生経験で、それは厭（いや）というほどわかっていたはずなのに。自分のような毒ガスなんかが、カナリヤくんに話しかけるべきではなかった。詩貴は後悔した。

　彼の後悔もむなしく、成谷は既に不機嫌そうな顔で俯いたり仰いだり、何やら考えあぐねている様子だった。彼の方も、もう何を言えばいいのかわからないのだろう。

　気まずくなって、詩貴は読書を再開するふりをして、本に目を落とした。“ただ、一さいは過ぎていきます。”

　すると成谷は何を思ったのか、詩貴が読んでいる本について尋ねてきた。面白いのかよ、と聞かれたので、面白くはない、と簡潔に答えた。しかしどうやら、その返答も彼の気に障（さわ）ってしまったらしい。

　その後も成谷は詩貴の読む人間失格に難癖をつけたので、詩貴は仕方なく正論を述べて彼を説き伏せた。そうして毒を突きつけられた成谷はやっぱりまた黙ってしまい、それからはもう、引き潮のように詩貴から離れていってしまった。

　あとがき。人間失格者の人生は、他者の視点で傍観（ぼうかん）され、彼のことは『神様みたいないい子でした』と表現されていた。

　詩貴は葉蔵の手記をもう一度斜め読んでみたが、彼が神様みたいないい子と表現された所以（ゆえん）は理解できなかった。どうやら案外、自分は読解力に欠けていて、あまり賢くもないらしい。

　それから帰り際に、既に無人となっていた図書室へと寄り、貸出台帳に名前を記入してから、人間失格を返却棚へと戻した。

　そうしてその本を手放したとき、詩貴の脳裏をよぎっていたのは、昭和初期の薄ら曇った光景ではなく、令和今日（こんにち）の斜陽の教室だった。

　一応詩貴は、その後もう一度教室を覗いてみた。しかし夕陽が落ちてすっかり暗くなった教室に、やはり成谷の姿は見当たらなかった。

　それから詩貴は、さっきは成谷と何を話したのかもわからない、混乱したとも腑抜（ふぬ）けたとも言えそうに管巻（くだま）く空っぽの体を、なんとか自宅へと歩いて運んだのだった。

　後に残ったのは、『話しかけるんじゃなかった』という、未練がましい後悔だけだった。

　例えるなら、毒ガスは間違いなく悲劇名詞だろう。カナリヤは、対義語（アントニム）だ。先の夕方のゲリラライブは、惑星直列のような偶然の奇跡で、自分はこの先もう二度と、あの青い歌は聞けないのだろう。悲しい、寂しい、というよりは、只々残念、という気分だった。

　波というものは、押し寄せるときよりも引き返すときのほうが強く感じるものだ。流木は、またも砂地に転がった。