第7話「デスマーチとオーバーヒート」
納期まで、あと1ヶ月。
スタジオ・ピクセルは、地獄の追い込み期間――業界用語で言う「デスマーチ」に突入した。
オフィスの窓から差し込む朝日も、夕日も、もはや誰も気にしていなかった。時間の感覚が麻痺し、昼と夜の境界が曖昧になり、全員が同じ空気を吸い続けている。
デスクの周りには、エナジードリンクの空き缶が山積みになり、仮眠用の寝袋が常備され、誰もが目の下に深いクマを刻んでいた。
社長の氷室でさえ、普段の飄々とした態度を捨て、スタッフたちと共にキーボードを叩き続けていた。
「あと1ヶ月で、全てを完成させる。このプロジェクトが失敗したら、会社は終わりだ。みんな、頼む」
氷室の言葉は、冗談めかしていなかった。
大手ゲーム会社が同じテーマの恋愛ゲームを発表してから、状況は一変していた。競合他社は潤沢な予算と大量のスタッフを投入している。対して、スタジオ・ピクセルは、わずか十数名の小さなインディーゲーム会社だ。
勝算は、ない。
しかし、負けるわけにはいかなかった。
柑奈と九条も、例外ではなかった。
二人は、前日の給湯室での約束――「明日、屋上で話をしよう」という約束を、暗黙のうちに保留にしていた。
理由は単純だ。今、個人的な感情に構っている余裕はない。
プロジェクトが終わるまで、全てを後回しにする。
それが、二人の出した答えだった。
柑奈は、連日連夜、デバッグ作業に没頭した。
モニターに映る膨大なエラーログを見つめながら、一つ一つ、致命的なバグを潰していく。
彼女の目は、血走っていた。指先は、キーボードを叩きすぎて痛みを感じなくなっていた。
しかし、作業を止めるわけにはいかない。
(――このプロジェクトが失敗したら、会社が終わる。みんなの努力が、無駄になる。それだけは、許せない)
一方、九条も、シナリオの最終調整に追われていた。
ゲームの第7章と第8章――主人公とヒロインが、互いの気持ちを確かめ合い、結ばれるクライマックスのシーン。
しかし、九条は、そのシーンを書くたびに、手が止まってしまう。
主人公の告白の言葉が、どうしても嘘くさく感じる。
(――僕自身が、自分の気持ちを理解していないのに、どうして主人公の気持ちを書けるんだ……)
九条は、何度も文章を書き直した。しかし、納得のいく言葉が見つからない。
深夜2時。
オフィスには、柑奈と九条、そして美波とサウンド担当の田中だけが残っていた。
美波は、ゲーム内のキャラクターデザインの最終調整をしていた。ヒロインの表情パターンを描きながら、ふと柑奈を見る。
柑奈は、モニターに顔を近づけて、目を細めていた。明らかに、視力の限界を超えて作業を続けている。
「柑奈、少し休んだら?」
美波が、心配そうに声をかける。
「大丈夫。あと50件のバグを潰せば、今日の目標は達成」
柑奈の声は、機械的だった。
美波は、それ以上何も言えなかった。
(――みんな、限界まで頑張ってる。私も、負けてられない)
美波は、再びペンタブレットに向かった。
その隣で、田中もまた、ゲームのBGMを調整していた。
彼は、美波の横顔をちらりと見て、すぐに視線を戻した。
(――こんな状況で、恋愛なんて考えてる場合じゃないよな……)
田中は、自分の想いを心の奥に押し込めた。
オフィスには、キーボードを叩く音、マウスをクリックする音、エナジードリンクの缶を開ける音だけが響いていた。
徹夜が3日続いた頃、柑奈と九条の間に、奇妙な変化が生まれていた。
二人は、ほとんど会話をしなくなった。
しかし、その連携は、不思議なほどスムーズだった。
柑奈がバグを発見すると、九条は、彼女が何も言わなくても、該当するシナリオ部分を修正した。
九条がシナリオの矛盾に気づくと、柑奈は、彼が指摘する前に、プログラムを調整していた。
言葉にしなくても、互いの考えていることが、手に取るように分かった。
それは、まるで、二人が一つの生き物になったかのようだった。
ある日の深夜、柑奈がデバッグ中に、重大なバグを発見した。
ゲームの第6章で、ヒロインの好感度が一定値を超えると、ゲームがクラッシュする。
「……これは、まずい」
柑奈は、すぐに九条に連絡しようとした。しかし、その前に、九条が彼女のデスクに現れた。
「第6章のバグ、見つけましたか?」
「……なんで分かったの?」
「君の打鍵音が、いつもと違ったから」
九条の答えに、柑奈は驚いた。
(――私の、打鍵音……?)
「急に打つ速度が遅くなった。それは、君が重大な問題に直面している証拠です」
「……相変わらず、変なところで鋭いのね」
柑奈は、少しだけ笑った。
九条も、小さく微笑んだ。
「では、原因を特定しましょう。僕のシナリオに問題があるかもしれません」
「ええ。一緒に、見てみましょう」
二人は、並んで座り、モニターを見つめた。
柑奈が、エラーログを指差す。
「ここ。好感度が85を超えた瞬間に、メモリーリークが発生している」
「メモリーリーク……プログラムが、メモリを解放していないということですか?」
「そう。原因は、恐らくシナリオ分岐の処理。好感度85以上の時に、特定のイベントが発生する設定になっているでしょ?」
「はい。ヒロインが、主人公に告白するイベントです」
「そのイベントのデータが、メモリに残り続けているのよ。処理が終わっても、解放されない」
九条は、自分のシナリオファイルを開いた。
「……確かに。このイベント、終了処理が書かれていない」
「なら、ここに終了フラグを追加すれば、解決するはず」
「分かりました。すぐに修正します」
九条が、コードを書き直す。柑奈は、その隣で、修正内容を確認する。
二人の距離は、数センチしかなかった。
柑奈は、九条の肩越しに画面を見ながら、彼の匂いを感じていた。
コーヒーと、少しだけ汗の匂い。
それは、不快ではなく、むしろ心地よかった。
(――私、この匂い、嫌いじゃない……)
九条もまた、柑奈の髪の匂いを感じていた。
シャンプーの、優しい香り。
(――なぜ、こんなに落ち着くんだろう……)
二人は、何も言わなかった。
ただ、互いの存在を、確かに感じていた。
修正が終わり、再びテストを実行する。
エラーは、消えた。
「……やった」
柑奈が、小さくガッツポーズをする。
「お疲れさまです」
九条も、安堵の息を吐いた。
その時、柑奈の手が、九条の手に触れた。
ほんの一瞬。
しかし、その一瞬が、二人の心臓を激しく跳ねさせた。
柑奈は、慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめん」
「いえ……」
二人は、顔を逸らした。
しかし、その後も、二人の手は、微かに震えていた。
徹夜が5日続いた朝。
柑奈は、限界だった。
視界が、ぼやけている。頭が、重い。体が、鉛のように動かない。
しかし、作業は止められない。
(――あと、少し。あと少しで、全てのバグを潰せる……)
柑奈は、エナジードリンクを一気に飲み干し、再びキーボードに向かった。
しかし、その瞬間――
彼女の意識が、途切れた。
「……あれ……?」
柑奈の体が、椅子から崩れ落ちた。
「穂積さん!」
九条の悲鳴に近い声が、オフィスに響いた。
九条は、倒れた柑奈に駆け寄り、彼女を抱き起こした。
「穂積さん! 穂積さん! 目を開けてください!」
しかし、柑奈は応答しない。
彼女の顔は、血の気が引いて、真っ青だった。
「誰か! 救急車を!」
美波が、すぐに電話をかけた。
氷室も、駆けつけた。
「大丈夫か!?」
「分かりません……意識がありません……」
九条の声が、震えていた。
彼は、柑奈を抱きしめたまま、何度も彼女の名前を呼んだ。
「穂積さん……お願いです……目を開けてください……」
その時、九条は気づいた。
自分が、どれだけ彼女を大切に思っているか。
自分が、どれだけ彼女を失いたくないか。
「僕は……君が……」
言葉にならない想いが、溢れ出した。
救急車が到着し、柑奈は病院へ搬送された。
診断結果は、過労と栄養失調。
命に別状はないが、数日間の安静が必要だという。
夕方、柑奈は会社の医務室のベッドで目を覚ました。
病院での点滴治療を終え、医師の許可を得て、オフィスに戻ってきたのだ。
(――私、倒れたのか……)
柑奈は、天井を見つめながら、ぼんやりと考えた。
(――情けない。まだやることが、たくさんあるのに……)
その時、医務室のドアが開く音がした。
柑奈は、目を閉じたまま、誰かが入ってくる気配を感じた。
足音。
そして、椅子を引く音。
誰かが、ベッドの横に座った。
柑奈は、薄目を開けた。
九条だった。
彼は、柑奈が眠っていると思っているのか、じっと彼女の寝顔を見つめていた。
その表情は、いつもの冷静さを失い、どこか苦しそうだった。
九条は、柑奈の髪を、そっと撫でた。
「……すまない」
九条の声は、震えていた。
「僕が、君を追い詰めたのか……? 僕が、君に無理をさせたのか……?」
柑奈は、目を閉じたまま、じっと聞いていた。
九条の、こんな弱々しい声を聞くのは、初めてだった。
「僕は、いつも完璧なシナリオを求めてきた。でも、現実は、シナリオ通りにはいかない。君が、それを教えてくれた」
九条の手が、柑奈の頬に触れた。
「君は、予測不能で、想定外で、僕のシナリオを全て破壊する。でも……それが、たまらなく魅力的だった」
柑奈の心臓が、大きく跳ねた。
「君がいないと……僕は、何もできない……」
その言葉が、柑奈の胸に深く突き刺さった。
(――この人、本当にそう思ってるの……?)
九条は、さらに続けた。
「君は、僕にとって……大切な……いや、大切なんて言葉じゃ足りない。君は、僕の……」
そこで、九条の声が途切れた。
彼は、言葉にできなかった。
しかし、柑奈には、分かった。
彼が、何を言おうとしているのか。
柑奈の目から、涙が溢れた。
(――私も……私も、あなたのことが……)
しかし、彼女は、目を開けることができなかった。
今、この瞬間を、終わらせたくなかった。
九条は、柑奈の涙に気づいた。
「……起きているんですか?」
柑奈は、ゆっくりと目を開けた。
二人の視線が、交わる。
「……聞こえてました」
「……全部?」
「……全部」
沈黙。
九条の顔が、真っ赤になった。
「あ、あの……今のは……その……」
「ありがとう」
柑奈が、小さく微笑んだ。
「心配してくれて。でも、大丈夫。私、まだ倒れるわけにはいかないから」
「でも、無理は……」
「あなたこそ、無理してるでしょ? 目の下のクマ、すごいわよ」
九条は、自分の顔を触って、苦笑した。
「……お互い様ですね」
「ええ。お互い様」
二人は、笑い合った。
そして、柑奈は、ぽつりと呟いた。
「……あなたも、私にとって……大切な人」
九条の目が、見開かれた。
「……本当ですか?」
「嘘は、言わない」
柑奈は、視線を逸らした。
「でも、今は……プロジェクトが終わるまで、この話は保留」
「……分かりました」
九条も、頷いた。
「プロジェクトが終わったら……ちゃんと、話しましょう」
「……ええ」
二人は、互いに小さく頷いた。
そして、柑奈は、ベッドから起き上がった。
「戻りましょう。まだ、やることがたくさんある」
「でも、体は……」
「大丈夫。あなたが、支えてくれるでしょ?」
柑奈の言葉に、九条は驚いた。
そして、小さく微笑んで、答えた。
「……はい。もちろんです」
翌日、オフィスに復帰した柑奈。
スタッフたちは、彼女を温かく迎えた。
「無理すんなよ、柑奈」
美波が、心配そうに声をかける。
「大丈夫。もう、倒れないわ」
柑奈は、力強く答えた。
氷室も、柑奈の肩を叩いた。
「無理はするなよ。君がいないと、このプロジェクトは成り立たないんだから」
「……はい」
柑奈は、嬉しそうに微笑んだ。
そして、自分のデスクに向かった。
すると、デスクの上に、栄養ドリンクとチョコレートが置いてあった。
付箋が貼ってある。
『無理をしないでください。――九条』
柑奈の顔が、真っ赤になった。
(――この人、本当に……)
柑奈は、付箋を、そっと胸ポケットにしまった。
一方、九条のデスクにも、変化があった。
彼のコーヒーカップの横に、角砂糖が一つ、置いてあった。
付箋が貼ってある。
『甘いものを摂ると、脳が活性化するらしいわよ。――穂積』
九条は、その付箋を見て、小さく笑った。
(――彼女は、僕が甘党だと知っていたのか……)
九条も、その付箋を、大切にポケットにしまった。
二人の間の空気は、相変わらずぎこちなかった。
しかし、何かが、確実に変わっていた。
言葉にはしない。
でも、互いを気遣う、不器用な優しさ。
それは、二人の関係が、新しい段階に進んでいることを示していた。
美波は、そんな二人を見て、静かに微笑んでいた。
(――やっと、あの二人も前に進み始めたわね)
美波は、自分のデスクに戻りながら、ふと田中を見た。
田中は、ヘッドホンをつけて、真剣にBGMを調整している。
(――私も……勇気を出さないと)
美波は、小さく拳を握った。
オフィスには、再び、キーボードを叩く音が響き始めた。
納期まで、あと1ヶ月。
戦いは、まだ続く。
しかし、今の彼らには、一つの確信があった。
このプロジェクトは、必ず成功する。
なぜなら、みんなが、互いを信じているから。
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