第8話「一泊二日のバグ修正合宿」
納期まで、あと3週間。
デスマーチの真っ只中、社長の氷室が突然、全員を集めた。
「よーし、最終追い込みだ! 気分転換も兼ねて、温泉旅館で開発合宿するぞ!」
オフィスに、困惑の空気が流れた。
「社長、今そんな余裕ないですよ……」
美波が、疲労困憊の顔で抗議する。
「余裕がないからこそ、だよ。このままじゃみんな潰れる。一度リセットして、最後の追い込みに備えるんだ」
氷室の表情は、いつになく真剣だった。
「一泊二日。温泉につかって、美味い飯を食って、それから最後の仕上げに入る。文句は言わせない」
そして、氷室は柑奈と九条に向かって、悪魔のような笑みを浮かべた。
「あ、そうそう。君たち二人の部屋なんだけど――一部屋しか取れなくてさ。恋人(仮)なんだし、問題ないよね?」
「「!?」」
柑奈と九条の悲鳴が、オフィスに響き渡った。
箱根の温泉旅館『湯けむり荘』。
創業百年を超える老舗旅館は、山の中腹にあり、眼下には芦ノ湖が広がっていた。
柑奈と九条は、旅館の玄関で、重い荷物を抱えながら立ち尽くしていた。
「……本当に、一部屋なんですね」
九条が、仲居さんから受け取った鍵を見つめながら、呟いた。
「そうみたいね」
柑奈も、諦めたような表情で答えた。
二人の間には、あの医務室でのやり取り以来、微妙な空気が漂っていた。
互いに「大切な人」と認めた。
しかし、その先の言葉を、二人はまだ口にしていない。
「プロジェクトが終わるまで保留」――そう約束したはずなのに、社長の悪意ある采配で、二人は一つの部屋に閉じ込められることになった。
「とりあえず、部屋に行きましょう」
柑奈が、仲居さんの後に続く。
九条も、無言でついていった。
案内された部屋は、八畳の和室だった。
窓からは、夕暮れ時の芦ノ湖が見え、山々が茜色に染まっている。
そして、部屋の中央には――布団が二組、きちんと並べられていた。
「……」
「……」
二人は、その布団を見つめたまま、固まった。
「お食事は、六時からでございます。ごゆっくりどうぞ」
仲居さんが、にこやかに部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
静寂。
柑奈と九条は、互いに目を合わせないまま、荷物を置いた。
「……私、先に温泉に行ってくるわ」
柑奈が、着替えを持って、逃げるように部屋を出た。
「……はい」
九条は、一人残された部屋で、布団を見つめていた。
(――これは……完全に、フラグ乱立状態だ……)
彼の脳内に、ゲームのシナリオ分岐が次々と表示される。
選択肢A:このまま何もなく過ごす(好感度±0)
選択肢B:思い切って気持ちを伝える(好感度+50 or ゲームオーバー)
選択肢C:自然体で接する(好感度+10、安定ルート)
(――どれが正解なんだ……)
九条は、頭を抱えた。
しかし、現実には「選択肢」など存在しない。
彼は、自分の心と向き合うしかなかった。
夕食の時間。
旅館の大広間には、スタジオ・ピクセルのメンバー全員が集まっていた。
美波と田中は、少し離れた席で、気まずそうに食事をしている。
氷室は、上機嫌で日本酒を飲んでいた。
そして、柑奈と九条は、テーブルを挟んで向かい合っていた。
柑奈は、浴衣姿だった。
普段のボサボサのポニーテールは、きれいにまとめられ、浴衣の襟元からは、白い首筋が見えている。
九条は、その姿を見た瞬間、完全にフリーズした。
(――これは……想定外の……イベントCG……!?)
彼の脳内で、警告音が鳴り響く。
【WARNING:心拍数異常上昇】
【WARNING:視線制御不能】
【WARNING:システム過負荷】
「……どうしたの? 顔、赤いわよ」
柑奈が、不思議そうに九条を見る。
「い、いえ……何でもありません……」
九条は、慌てて視線を逸らし、お茶を飲んだ。
しかし、喉に詰まって、むせた。
「大丈夫?」
柑奈が、心配そうに背中を叩く。
その瞬間、九条の背中に、彼女の手の温もりが伝わった。
(――これは……バグだ……心臓のバグだ……)
九条の心臓が、制御不能なほど激しく鼓動する。
一方、柑奈もまた、九条の浴衣姿に動揺していた。
普段のきちんとしたシャツ姿とは違い、浴衣の九条は、どこかリラックスしていて、表情も柔らかい。
(――なんか……いつもと違う……)
柑奈の心臓も、不規則に跳ね始めた。
【ERROR:心拍数の予測不能な変動】
【ERROR:体温調節システムの異常】
(――これは、デバッグが必要……でも、修正したくない……?)
柑奈は、自分の感情に困惑していた。
食事の間、二人はほとんど会話をしなかった。
しかし、互いの存在を、異常なほど意識していた。
箸を持つ手が震える。
視線が、何度も相手に向かいそうになる。
しかし、すぐに逸らす。
その様子を見ていた美波は、小さくため息をついた。
「お前ら、いい加減素直になれよ……」
美波の呟きは、誰にも届かなかった。
夕食後、柑奈は一人で縁側に出た。
夜風が、心地よい。
月が、空に昇り始めている。
柑奈は、縁側に腰を下ろし、月を見上げた。
(――私、どうしちゃったんだろう……)
医務室での、九条の言葉が、何度も脳内に再生される。
「君がいないと……僕は、何もできない……」
あの時の、九条の震える声。
彼女の頬に触れた、彼の手の温もり。
全てが、鮮明に思い出される。
(――私も……あなたがいないと……)
柑奈は、胸に手を当てた。
心臓が、まだ高鳴っている。
「……穂積さん」
背後から、九条の声がした。
柑奈は、振り返った。
九条が、同じように浴衣姿で、縁側に立っていた。
「……隣、いいですか?」
「……ええ」
九条が、柑奈の隣に座る。
二人の間に、30センチほどの距離がある。
しかし、その距離が、とても近く感じられた。
「月が、綺麗ですね」
九条が、空を見上げながら言った。
「……ええ」
柑奈も、同じように月を見上げた。
沈黙。
しかし、それは、不快な沈黙ではなかった。
むしろ、心地よい静けさだった。
しばらくして、九条が、ぽつりと語り始めた。
「僕は……いつも、正解を選ぼうとしてきました」
柑奈は、黙って聞いていた。
「両親は、完璧主義者でした。僕が何かを失敗するたびに、『なぜ正しい選択をしなかったのか』と問い詰められました」
九条の声には、かすかな苦しみが混じっていた。
「だから、僕は、全ての行動を計画するようになりました。シナリオを書いて、そのシナリオ通りに生きる。そうすれば、失敗することはない、と」
「……でも、それって、苦しくなかった?」
柑奈が、静かに問いかけた。
「苦しかったです」
九条は、素直に答えた。
「でも、それが正しいと思っていました。計画通りに生きることが、正しい人生だと」
「……」
「しかし、あなたと出会って、僕のシナリオは全て崩壊しました」
九条は、柑奈を見た。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか儚く、美しかった。
「あなたは、予測不能で、想定外で、僕の計画を次々と破壊する。最初は、イライラしました。なぜ、あなたは僕のシナリオ通りに動いてくれないのか、と」
柑奈も、九条を見た。
「でも……気づいたんです」
九条の声が、少し震えた。
「あなたといる時間が、一番楽しかった。シナリオ通りにいかない、予測不能な時間が、一番幸せだった」
柑奈の心臓が、大きく跳ねた。
「僕は……あなたといると、自分が自由になれる気がするんです。計画も、シナリオも関係ない。ただ、あなたと一緒にいる。それだけで、幸せなんです」
「……九条さん」
柑奈も、自分の想いを言葉にし始めた。
「私も……ずっと、感情を否定してきた」
柑奈の声も、震えていた。
「子供の頃、父親に『お前はバグだらけだ』って言われて。それから、私は感情を信じられなくなった。感情は、邪魔で、修正すべきもので、排除すべきものだって」
九条は、黙って聞いていた。
「でも……あなたと出会って、私の心は、バグだらけになった」
柑奈の目に、涙が浮かんだ。
「あなたを見るたびに、心臓がオーバーヒートする。あなたの声を聞くたびに、思考回路がエラーを起こす。あなたが近くにいると、システムが全部おかしくなる」
「……」
「でも……そのバグを、修正したくないって、初めて思ったの」
柑奈の涙が、頬を伝った。
「あなたといると、私の心はめちゃくちゃになる。でも……それが、すごく温かくて、すごく幸せで……」
九条の手が、柑奈の頬に触れた。
そっと、涙を拭う。
「……僕も、同じです」
九条の声は、優しかった。
「あなたといると、僕のシナリオは全部崩れる。でも……それが、最高に楽しいんです」
二人の顔が、ゆっくりと近づいていく。
月の光が、二人を包み込む。
唇と唇の距離が、あと数センチ――
しかし、その瞬間。
二人の理性が、同時に緊急ブレーキをかけた。
「「……っ!」」
二人は、同時に顔を逸らした。
(――まだだ……まだ、プロジェクトが終わってない……)
(――今じゃない……今、この関係を壊したくない……)
二人は、立ち上がった。
「……そろそろ、部屋に戻りましょうか」
九条が、少し照れくさそうに言った。
「……そうね」
柑奈も、頷いた。
二人は、並んで部屋に戻った。
その背中は、少しだけ近かった。
部屋に戻った二人は、それぞれの布団に入った。
電気を消す。
暗闇の中、二人は、互いの存在を感じていた。
「……おやすみなさい」
「……おやすみ」
しかし、二人とも、眠れなかった。
柑奈は、天井を見つめながら、九条の言葉を反芻していた。
(――あなたといると、自分が自由になれる……)
その言葉が、胸に温かく広がる。
一方、九条も、柑奈の言葉を思い出していた。
(――そのバグを、修正したくない……)
その言葉が、彼の心を満たしていた。
二人は、同じ空間で、同じ月を見つめながら、互いを想っていた。
そして、いつの間にか、眠りに落ちていった。
翌朝。
柑奈が目を覚ますと、九条はすでに起きていた。
彼は、窓際でノートPCを開き、何かを打ち込んでいた。
「……おはよう」
「おはようございます」
二人の間に、昨夜のような重い空気はなかった。
むしろ、どこか清々しい雰囲気が漂っていた。
朝食後、チーム全員はロビーに集まった。
氷室が、全員に告げる。
「さて、午前中は自由時間。午後から、最後の作業に入る。各自、リフレッシュしてこい」
しかし、柑奈と九条は、ロビーの隅にあるテーブルに陣取り、ノートPCを開いた。
「……あなたも、仕事?」
「ええ。あなたも?」
「当然」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
そして、作業を始めた。
九条がシナリオの修正案を打ち込むと、間髪入れずに、柑奈がそれに合わせたプログラムの修正を始める。
柑奈がバグの原因を特定すると、九条が即座に、そのバグを逆手に取った面白いシナリオを提案する。
二人の間に、言葉は少なかった。
しかし、それは問題ではなかった。
言葉にしなくても、互いの考えていることが分かった。
柑奈がキーボードを叩く速度で、彼女が何を考えているか、九条には分かった。
九条が文章を書き直す回数で、彼が悩んでいることが、柑奈には分かった。
二人は、完璧な連携で、次々と問題を解決していった。
まるで、一つの生き物のように。
それを見ていた美波は、感心したように呟いた。
「あの二人、もう完全に息ぴったりじゃん」
田中も、頷いた。
「言葉にしなくても、分かり合ってる感じですね」
氷室は、満足そうに笑った。
「あの二人なら、このプロジェクトを必ず成功させるよ」
昼食後、チーム全員で最後のミーティングが行われた。
氷室が、全員に告げる。
「納期まで、あと3週間。これから、最後の追い込みに入る。全員、全力を尽くしてくれ」
「おー!」
全員が、拳を突き上げた。
柑奈と九条も、互いに頷き合った。
(――最後まで、やり抜く)
(――君と一緒なら、必ずできる)
二人の心は、一つになっていた。
旅館を出る時、柑奈と九条は、少しだけ遅れて歩いていた。
「……楽しかったわね」
柑奈が、ぽつりと言った。
「……ええ」
九条も、微笑んだ。
「また、来られるといいですね。プロジェクトが終わったら」
「……そうね」
柑奈は、少し照れくさそうに答えた。
そして、二人は、再び歩き出した。
その背中は、以前よりも、ずっと近かった。
オフィスに戻った後、柑奈は自分のデスクで、ふと昨夜の月を思い出した。
あの月の下で、九条と並んで座っていた時間。
あの温かさ。
あの幸福感。
(――私、本当に……この人のことが……)
柑奈の心臓が、また高鳴り始めた。
しかし、今は、その感情を受け入れることができた。
(――これは、バグじゃない。これは……私の、本当の気持ち)
柑奈は、小さく微笑んだ。
一方、九条も、自分のデスクで、同じことを考えていた。
(――僕は、彼女のことが……好きだ)
その言葉を、心の中で繰り返す。
(――プロジェクトが終わったら、ちゃんと伝えよう。僕の、本当の気持ちを)
九条は、決意を新たにした。
納期まで、あと3週間。
二人の物語は、クライマックスへと向かっていく。
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