第6話「フレンドゾーンという名の無限ループ」

遊園地の一件以来、二人の関係は、より一層「こじれて」いった。

互いを意識しすぎるあまり、柑奈は「この感情はバグだ」と彼との接触を徹底的に避け、九条は「これは想定外のルートだ」と彼女との会話を業務連絡のみに限定した。

結果、二人は、「仕事のパートナー」「最高の同僚」という、最も安全で、最も残酷なポジションに、自ら逃げ込んだのだ。

月曜日の朝、オフィス。

柑奈は、いつもより30分早く出社した。理由は単純だ。九条と顔を合わせたくなかったからだ。

自分のデスクに座り、PCを起動する。画面に映る開発中のゲーム『ラブ・アルゴリズム』のデバッグリストを見つめながら、柑奈は深く息を吐いた。

(――あの日から、おかしい。彼の顔を見るだけで、心拍数が上がる。これは明らかにシステムエラーだ。でも、修正方法が分からない……)

柑奈の脳内に、赤い警告文字が点滅する。

【WARNING: 感情制御システムに異常が検出されました】 【原因: 九条巧との接触による予期せぬ反応】 【推奨対応: 距離を置く】

「……そうよ。距離を置けばいい。これは一時的なバグ。時間が経てば、自然に修正される」

柑奈は、自分に言い聞かせるように呟いた。

しかし、その直後、オフィスのドアが開く音がした。

九条だ。

彼もまた、いつもより早く出社していた。理由は、柑奈と同じ。彼女と二人きりになる時間を避けたかったからだ。

しかし、皮肉なことに、早朝のオフィスには、二人しかいなかった。

「……おはようございます」

九条が、硬い声で挨拶する。

「……おはよう」

柑奈も、視線を合わせずに答える。

気まずい沈黙。

二人は、それぞれのデスクに向かい、黙々と仕事を始めた。しかし、互いの存在を、異常なほど意識していた。

九条は、柑奈の打鍵音を数えていた。一秒間に平均4.2回。いつもより0.3回遅い。彼女が集中できていない証拠だ。

(――彼女も、僕のことを意識している……? いや、それは希望的観測だ。根拠のない推測は、バグを生む)

柑奈は、九条のキーボードを叩く音のリズムを聞いていた。いつもより不規則だ。彼が何度も打ち直している証拠だ。

(――彼も、集中できていないのかしら。もしかして……いえ、違う。これは私の妄想。データに基づかない仮説は、エラーを招く)

二人とも、相手のことばかり考えていた。


その日の午前中、進捗共有のミーティングが開かれた。

会議室に集まったのは、柑奈、九条、美波、そして社長の氷室。

氷室が、ホワイトボードに開発スケジュールを書きながら言った。

「さて、『ラブ・アルゴリズム』の開発も、佳境に入ってきた。リリースまで、あと2ヶ月。進捗はどう?」

九条が、資料を開いて報告する。

「シナリオは、全8章のうち6章まで完成しています。残り2章も、プロット段階は終了しており、執筆に入れます」

「デバッグは?」

氷室が、柑奈に視線を向ける。

「……致命的なバグは、ほぼ潰しました。ただ、一部のイベントシーンで、原因不明のフリーズが発生しています」

「原因不明? 珍しいね、柑奈が原因を特定できないなんて」

氷室の言葉に、柑奈は少し顔を曇らせた。

「……再現性が低く、特定の条件下でしか発生しないため、原因の切り分けが困難です」

「どのシーン?」

「……恋愛イベントの、接触シーンです」

美波が、ニヤリと笑った。

「接触シーン? 具体的には?」

「……手を繋ぐ、抱きしめる、キスをする、などの……親密な接触を伴うシーンです」

柑奈の声が、少しだけ小さくなる。

美波は、九条を見た。九条は、視線を資料に落としたまま、何も言わない。

「ふーん。で、そのバグは直せるの?」

「……努力します」

柑奈の答えに、氷室は小さく溜息をついた。

「君たち、本当に大丈夫? なんか、遊園地デートの後から、ぎこちなくない?」

「大丈夫です」

二人が、同時に答える。

氷室は、呆れたように笑った。

「まあ、いいけどさ。とにかく、2ヶ月後のリリースは死守。それまでに、全てのバグを潰して、最高の恋愛ゲームに仕上げてね」

「了解です」

会議が終わり、全員が部屋を出ようとした時、氷室が柑奈と九条を呼び止めた。

「ちょっと、二人とも残って」

美波が意味深な笑みを浮かべながら出て行き、ドアが閉まる。

氷室は、二人を見つめて、静かに言った。

「君たち、お互いのこと、好きなんでしょ?」

「!」

二人が、同時に顔を上げる。

「違います」

「そんなことは」

二人が、同時に否定する。

氷室は、笑いながら首を振った。

「分かりやすいなあ、君たち。でもね、それでいいと思ってる?」

「……どういう意味ですか」

九条が、警戒したように聞く。

「君たちが、今の関係を続ける限り、このゲームは完成しないよ」

「……!」

「恋愛ゲームを作るには、本物の恋愛感情が必要なんだ。君たちは、その感情を持っている。でも、認めようとしない。逃げている。その"こじれ"が、そのままゲームに反映されてるんだよ」

氷室の言葉は、二人の胸に突き刺さった。

「君たちの関係が、このゲームの限界だ。君たちが一歩踏み出さない限り、このゲームも、一歩先には進めない」

柑奈と九条は、何も言い返せなかった。

「考えてみて。締め切りは、あと2ヶ月。それまでに、自分の気持ちと向き合えなかったら……このプロジェクトも、会社も、終わりだ」

氷室は、そう言って、会議室を出て行った。

残された二人は、しばらく沈黙していた。

「……僕は」

九条が、口を開きかけて、止まった。

「……私も」

柑奈も、言葉を続けられなかった。

二人は、互いに視線を合わせることなく、会議室を後にした。


その日の午後、柑奈は一人でデバッグ作業を続けていた。

モニターに映るのは、ゲーム内の主人公とヒロインが、夕日の公園で向かい合っているシーン。

主人公が、ヒロインの手を取る。

その瞬間――画面がフリーズした。

「……また」

柑奈は、エラーログを確認する。しかし、そこには何の記録も残っていない。プログラム上、何の問題もないはずなのに、このシーンだけがフリーズする。

(――これは、プログラムのバグじゃない。私自身のバグだ……)

柑奈は、キーボードから手を離し、深く息を吐いた。

「なぜ、このシーンだけ……。まるで、私が拒否しているみたい……」

モニターの中の主人公とヒロインは、手を繋いだまま、動かない。

柑奈は、ふと、遊園地での雨宿りを思い出した。

九条のジャケット。彼の匂い。彼の優しい言葉。

「君のバグは、魅力的です」

その言葉を思い出すと、胸が苦しくなる。

柑奈の脳内に、赤いアラートが表示される。

【FATAL ERROR: 感情制御システムの停止を検知しました】 【デバッグ方法: 不明】 【推奨対応: システムの再起動】

「……再起動なんて、できるわけないでしょ」

柑奈は、画面を見つめたまま、呟いた。

一方、別のデスクで作業していた九条も、同じように苦しんでいた。

彼が書いているのは、ゲームの第7章。主人公がヒロインに告白するシーン。

キーボードに、文章を打ち込む。

『私は、あなたのことが――』

そこで、九条の手が止まった。

(――好き、と書けない。なぜだ……)

九条は、何度も文章を打ち直した。しかし、どの言葉も、嘘くさく感じた。

『私は、あなたのことが、大切に思っています』 『私は、あなたのことを、尊敬しています』 『私は、あなたといる時間が、楽しいです』

全て、間違っている。

九条の脳内に、警告が表示される。

【ERROR: シナリオ進行不可能】 【原因: 主人公の感情が不明瞭】 【解決策: 作者自身の感情を明確にすること】

「……僕自身の、感情……」

九条は、キーボードから手を離し、天井を見上げた。

彼の頭に浮かぶのは、柑奈の顔。

雨宿りの時の、彼女の震える肩。

メリーゴーラウンドでの、彼女の懐かしそうな笑顔。

コーヒーを飲みながら、「シナリオ通りにいかない方が、人間らしい」と言った彼女の言葉。

(――僕は、彼女のことが……)

九条は、その先の言葉を、心の中で完成させることができなかった。


夕方、柑奈がトイレから戻ると、デスクに美波が座っていた。

「あんた、本当に鈍いわね」

美波は、呆れたように言った。

「……何が?」

「九条のことよ。あいつ、あんたのこと好きじゃん。誰が見ても分かるわよ」

「違う。あれは、仕事上の協力関係に過ぎない」

柑奈は、真顔で答える。

美波は、深く溜息をついた。

「あのね、柑奈。あんた、本当は気づいてるんでしょ? 自分が九条のこと、好きだって」

「……」

「でも、認めたくないんでしょ? だって、認めたら、自分の『感情はバグ』っていう理論が崩れるから」

美波の言葉は、核心を突いていた。

「あんたは、ずっと自分の感情を『バグ』だって否定してきた。でもね、恋愛感情は、バグなんかじゃないのよ」

「……でも」

「人間だもん。好きになるのは、当たり前じゃん。それを『バグ』だって言って逃げるのは、ただの臆病よ」

柑奈は、何も言い返せなかった。

美波は、柑奈の肩を掴んで、真剣に言った。

「あんたは、自分が欠陥品だって思い込んでる。でもね、欠陥品なんかじゃないわ。あんたは、誰よりも真面目で、優しくて、仕事もできる。そして、九条を好きになった。それは、あんたが人間らしいってことよ」

「……美波」

「もし、このまま逃げ続けたら、あんたは一生後悔するわよ。九条も、同じ。あいつも、あんたのこと好きなのに、認められなくて苦しんでる」

美波は、柑奈を抱きしめた。

「勇気を出しなさい。自分の気持ちに、正直になりなさい」

柑奈の目に、涙が浮かんだ。

「……でも、怖い」

「何が?」

「告白して、拒絶されたら。またあの時みたいに、『論理的じゃない』って言われたら」

「九条は、そんなこと言わないわよ。あいつは、あんたのバグを『魅力的』だって言ったんでしょ?」

「……うん」

「じゃあ、信じなさい。自分を、そして九条を」

柑奈は、美波の肩に顔を埋めて、小さく頷いた。


その夜、深夜のオフィス。

柑奈と九条は、それぞれ別のデスクで、黙々と作業を続けていた。

オフィスには、二人しかいない。

九条は、ヒロインの告白シーンを書いていた。

『私は、あなたのことが、好きです』

そのありふれた言葉を打ち込みながら、彼は、無意識に、柑奈の方を見た。

彼女は、モニターに向かって、真剣な顔でキーボードを叩いている。

(――この感情は、間違っているのか? 僕が彼女を好きだという気持ちは、シナリオ外の、想定外の、エラーなのか?)

九条は、自分の胸に手を当てた。

心臓が、速く打っている。

(――でも、このエラーは、修正したくない)

一方、柑奈は、キスシーンのバグ修正に苦戦していた。

モニターの中で、主人公とヒロインが、唇を重ねようとしては、フリーズする。

何度デバッグしても、原因が分からない。

(――これは、プログラムのバグじゃない。私自身のバグだ。私が、このシーンを受け入れられないから……)

柑奈は、モニターを見つめながら、小さく呟いた。

「……私は、九条さんのことが……」

その先の言葉を、彼女は声に出せなかった。

しかし、彼女の心の中では、答えは既に出ていた。

【FATAL ERROR: 感情制御システムの停止を検知しました】 【デバッグ方法: 不明】 【新たな選択肢: このエラーを受け入れる】

柑奈は、初めて、そのエラーを「修正すべきもの」ではなく、「受け入れるべきもの」として認識した。

深夜2時。

九条が、コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。

柑奈も、同じタイミングで、給湯室に向かった。

二人は、給湯室の入り口で、鉢合わせした。

「……」

「……」

沈黙。

しかし、今までの沈黙とは、何かが違っていた。

二人は、互いに何かを言いたそうにしていた。

「あの」

「あの」

二人が、同時に口を開いた。

「……どうぞ」

「……いえ、あなたから」

また沈黙。

九条が、意を決したように言った。

「穂積さん、明日、時間はありますか」

「……明日?」

「話したいことがあります。仕事以外の、話です」

柑奈の心臓が、大きく跳ねた。

「……私も、話したいことがある」

「では、明日。会社の屋上で」

「……分かった」

二人は、互いに小さく頷いて、給湯室を後にした。

柑奈の脳内に、新しいメッセージが表示された。

【新規イベント発生: 告白フラグ】 【選択肢A: 逃げる】 【選択肢B: 向き合う】

柑奈は、初めて、「B」を選んだ。

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