第一話 無音の日々に紛れる雑音
朝。
目覚ましの電子音が、部屋の空気を震わせる。
機械的なリズム。
それに目を開けて、顔を洗い、冷たい水でぼんやりとした意識を引き上げる。
朝食を口にして、歯を磨いて、着替えて、整えて、少し休む。
同じ動作、同じ時間。
毎日、ほとんど狂いもなく繰り返す。
時々、このまま布団の中で一日を終わらせてもいいんじゃないかと思う。
誰にも迷惑はかけない。
何かを失うわけでもない。
それでも、母の声がそれを許さない。
あの声にだけは、逆らえなかった。
家族が家を出てから、少し遅れて俺も出る。
春が終わりかけて、桜の花びらがまだ道端に残っている。
風は少し冷たい。
もうすぐ夏だというのに、肌の奥にひやりとした感覚が残る。
同じバス。同じ電車。同じ通学路。同じ景色。
繰り返される「いつも通り」。
それが、今の俺の一日だ。
「おは!」
「おはよう」
教室に入ると、すぐに声が飛んでくる。
「これ知ってっか!」
「森くん!」
「森ー!」
返事は適当に。
うなずくだけで、会話は自然と終わる。
俺が話さなくても、勝手に話は進んでいく。
「森くんって素敵だね」
笑顔で返しておけば、それで十分。
__あぁ、つまらない。
毎日が同じ。
顔ぶれも、声も、授業の内容も。
変わらないまま、ただ時間だけが流れていく。
「まだ授業あるぞ」
「森ー」
周囲の声が遠く聞こえる。
俺は立ち上がり、鞄を掴んで教室を出た。
「用があるから」
そう言い残して、ドアを閉める。
小さく鳴る蝶番の音が、妙に耳に残った。
___
校門を出て、コンビニに寄る。
適当にお菓子を選び、レジを済ませる。
袋を片手に歩く足は、家へは向かわない。
いつものように、別のバスへ乗り換える。
車窓に流れる街並み。
変わらない景色。
だけど、ここから先だけは少し違う。
バスを降り、角を曲がり、坂を下る。
遠くで子どもの笑い声がする。
その向こうに、かすかな電子音が混ざる。
ピッ、ピッ、と規則正しく響く音。
病院の音だ。
白く整った建物が夕陽を反射していた。
俺は迷いなく足を進める。
昼過ぎのこの時間は、人も少ない。
こんな理由でここに来る高校生は、たぶん俺くらいだろう。
受付を済ませる。
顔なじみの職員は、いつも通り軽く会釈して通してくれる。
慣れた手つきでエレベーターに乗り、階数を押す。
コンコン、、
扉を叩いて、返事を待たずに開ける。
「お! 今日も来たな!」
見慣れた笑顔。
白いシーツの上、逆さ向きで寝転んでいる。
点滴の管を器用に避けながら、手をぶらぶらさせていた。
「おはよう」
「おは〜」
声が明るくて、病室の空気が少し軽くなる。
その明るさが、この場所には場違いなほどだった。
「サボりは逮捕〜」
どこからか持ち出したプラスチックの手錠を片手に、俺を捕まえようとする。
「どうぞ」
コンビニ袋から、お菓子を見せる。
中にはポテチが二袋。
「釈放」
彼女は即答して笑った。
ベットから飛び起きてテーブルの準備をする。
「ポッテチ、ポテチ、ポポポホポテチッ」
鼻歌交じりに袋を開ける。
普通一つずつ開けて食べると思うが、
「塩、コンソメ、、おりゃっ!」
器用に二袋を同時に開けて、片方の中にもう片方を流し込む。
そして勢いよく振る。
混ざりあった具合で袋をパーティー開けにする。
「うんッま!」
誇らしげな声が響く。
この部屋の消毒液の匂いに、ポテチの濃い香りが混ざって広がった。
「一袋ずつ食べればいいのに」
相変わらずの独特な食べ方だ。
「バカだなぁ〜、これが一番罪深くて美味いのだよ」
パキ、パク、と軽い音が続く。
笑いながら食べるその姿を、俺はぼんやりと眺めた。
「高2、どお?なんか事件起きた?」
「いつも通り」
変わり映えのない日々。
進級して一ヶ月が過ぎたが、特に何もない。
あったとしても、クラス替えぐらい。
誰と離れ、誰と同じになったかも、興味がない。
「進級早々に事件が起きますように、って願ってたのに」
「何願ってんだよ」
「物騒なことが起きたらネタになるじゃん」
「暇つぶしに事件を起こすな」
「ちぇっ」
頬を膨らませながら、またポテチをつまむ。
その仕草が、どうしようもなく“生きている”感じがして、
俺は少しだけ息を吐いた。
――事件でも起きたら、少しは面白いのかもしれない。
こんな日々が変わるのかも、
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
でも、口には出さない。
「はい、ゴミよろしく」
「はいはい」
食べ終わった袋をまとめて受け取る。
俺は証拠隠滅係らしい。
まぁ、病人に濃いお菓子を持ち込んでいる時点で共犯か、
「ポテチ食べ過ぎたらバレそうだけどな」
「バレないよ」
「どうだか」
「それにこれはご褒美だし!」
「何の」
「毎日頑張ってるんでしょうが!」
「何を」
「毎日の惰眠!味のうっっっすいご飯!濃い味への禁断症状と戦ってるの!」
「それはお疲れ様で」
「匂いは窓開けてるし!」
「バレたら加齢臭って言ってな」
「おい、あんたのだろそれ」
笑い声が、風に混じる。
窓の外から吹き込む風が、冷たい。ポテチの濃い匂いは外へと運ばれていく。
カーテンが少し揺れて、光が滲んだ。
この時間が、いつまでも続けばいい。
そう思った。
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