生きる練習、死ぬ準備

春紗

あの子の音。

チャイムが鳴る。

終業を告げる鐘の音が、夕方の校舎に溶けていく。


教室はいつも通り、騒がしい。

椅子を引く音、笑い声、机を叩く軽いリズム。

誰かが名前を呼び、誰かが冗談を言い、誰かがスマホを取り出す。

音の波が押し寄せては消える。


その中で、俺はただ、椅子の脚をそっと床に滑らせる。

音を立てないように。

誰にも気づかれないように。

窓の外の光が赤く染まりはじめていた。

季節は変わりかけの春。空気の中に、少し湿った風が混じっている。


「もう帰る?」

誰かが言ったような気がしたが、振り向かない。

俺は手を振り答える。

鞄を片手に、廊下を歩く。

床のきしむ音。遠くで掃除用具を片づける音。

どれも、毎日の中で聞き飽きた音。

でも、どこか遠くで、別の“音”が聞こえる気がする。


昇降口を出ると、風の音が変わる。

ざわめきが遠ざかり、外の世界の音が近づいてくる。

信号機の電子音。車のタイヤがアスファルトをなでる音。

誰かの笑い声が、少しだけ風に乗って流れてきた。


通学路を外れた足は、家の方には向かわない。

習慣のように、体が別の方向を選ぶ。

それは決して、特別な理由じゃない。

行く理由、は特にない。

ただ、向かう場所がそこにある。


バスに乗る。角を曲がり、坂を下る。

遠くで子どもの笑い声が聞こえた。

その笑い声の向こうに、かすかな電子音が混じっていく。

ピッ、ピッ、と、規則正しく。

病院の音だ。


足元の舗装が変わる。

靴の裏が床にあたる音が、少しだけ硬くなる。

自動ドアが開くと、空気が入れ替わる。

冷たい。少し薬品の匂いがする。

人の声が遠くで響き、

子供がなく声。

親が慰める声。

誰かの咳払い。

カートの車輪が床を擦る音。

ナースコールの呼び出し音が、一瞬鳴っては止む。

そのすべてが、この場所の“生活音”だ。


俺はエレベーターに乗り、静かな階を選ぶ。

昇降の音。

扉が開くと、少し明るい廊下。

夕陽が窓を通して差し込んでいて、

白い壁を薄い橙色に染めていた。


歩くたび、足音が響く。

どこかでラジオが小さく流れている。

流行りの曲なのか、懐かしい童謡なのか分からないけれど、

その曖昧さが、この空間の静けさを柔らかくしていた。


その部屋の前で、足を止める。

ドアの向こうからは、いくつもの音が混じっていた。

点滴の滴る音。

紙をめくる音。

笑い声。

そのどれもが、あの子の“生きている音”だった。

[河上 星奈]

数字の下にはあの子の名前。

コンコン、とノックをする。

返事を待たずに、扉を開ける。


白いカーテン越しに、光が揺れている。

窓際のベッド。

そこに座っている。

髪が少し伸びた。

顔色は悪くない。

でも、腕にはいつものように細い管が通っている。


俺を見つけると、あの子は笑った。

まるで、夕陽みたいな笑い方だった。

明るくて、あたたかくて、どこか儚い。


「やっほ」

それだけ。

たった一言。

でも、それで十分だった。

俺も小さく、

「よ」

とだけ返す。


あとは言葉もいらない。

その代わりに、音があった。

風の音。

外の鳥の声。

心電図の音。

ベッドがきしむ音。

あの子の笑い声。

そして、息をする音。


どの音も、混ざり合ってひとつの“世界”を作っている。

静かで、優しくて、確かに生きている世界。


俺は椅子を引き、あの子の隣に座る。

何も言わず、ただ窓の外を眺める。

光が白く、まぶしい。

その向こうに、街のざわめきがかすかに聞こえる。


星奈が小さく笑う。

何か話しているけれど、内容は耳に入らない。

声のトーンだけで、わかる。

“生きてる”って、きっとこういうことだ。


夕陽が少しずつ沈む。

空が橙から群青へと変わる。

彼女の横顔に、その光がやわらかく重なっていく。


やがて、窓の外で小さな風の音がした。

カーテンが揺れ、

点滴の滴が光を反射する。


ピッ――ピッ――と、電子音が続く。

それがあの子の“今”のリズム。

そして俺にとっての“今日”の終わりの合図だった。


あの子がぽつりと呟く。

「またね」

俺は少しだけ考えて、

「、、ああ」

と答える。


また明日。

その言葉が、この世界のどこかに静かに落ちていった。

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