第2話 遊撃隊
ローゼンブルク領の領都グレンツェンは、今日も活気に満ちていた。
石畳の道を荷馬車が行き交い、市場では威勢のいい声が飛び交う。緑豊かなマール帝国の中でも、南方の温暖な気候と豊かな土壌に恵まれたローゼンブルクは、特に平和で安定した領地として知られていた。この平和な日常が永遠に続くかのように、誰もが信じていた。
ローゼンブルク騎士団総隊長セキレイも、少なくとも部下たちの前ではそう信じているように振る舞っていた。
「総隊長、本日の城下巡回、異状ありません」
部下の壮年の騎士が、馬上から敬礼と共に報告する。その目には、上官に対する敬意と共に、一人の女性としての憧憬が混じっているのをセキレイは感じていた。
「ご苦労」
凛とした声で応じ、セキレイは馬の歩みを緩めた。
陽光を浴びて輝く金髪が風に揺れ、涼やかな緑の瞳が城下町の賑わいを静かに見つめている。
その類い稀な美貌と、騎士服の上からでもわかるほど鍛え上げられたしなやかな肉体は、多くの騎士たちの憧れの的だった。
だが彼女の名を帝国の内外に轟かせているのは、その容姿ではなく、神懸かり的な剣技だった。
人間の限界を超越した速度で剣を振るう彼女は、いつからか畏敬の念を込めて「神足(しんそく)」と呼ばれていた。29歳という若さで、歴史あるローゼンブルク騎士団の総隊長にまで登り詰めたのは、ひとえにその圧倒的な実力ゆえである。
部下を下がらせたセキレイの脳裏に、数日前に領主アルフレートから極秘裏に伝えられた一つの報が重くよみがえる。
――隣接するレーゲンスブルク領がサンクト教会派を離脱し、ユイナフ王国が信仰する啓示改革派への宗旨替えを真剣に考えている。追い出されそうになっている司祭達が、帝都アイゼンブルクの大教会に泣きついた――
マール帝国内の領邦は、どこも帝都や他の領邦に諜報員を送り込んでいる。ローゼンブルクも例外ではない。帝都アイゼンブルクに放っている諜報員からもたらされたその情報は、久しくなかった特大の衝撃だった。
レーゲンスブルクのその動きは、宗教的権威を背景に成り立っている神聖マール帝国からの事実上の離反を意味していた。ローゼンブルクの西隣であるレーゲンスブルクは、その西でユイナフ領土に接している。マール帝国にとっては国境地帯が一つ敵の手に落ちることを意味し、ローゼンブルクにとっては、ユイナフとの間にあった緩衝地帯を失うことを意味した。
そのことをセキレイに告げた領主アルフレートの顔はこわばっていたが、セキレイは冷静だった。冷たく冴えた頭の中には、悲しい確信と揺るぎない決意があった。
(また、始まってしまう)
彼女の脳裏に浮かぶのは、もう戻れない故郷の光景だった。一つの野心、一つの権力がすべてを支配しようとした結果、そこは大きな混乱と悲劇に見舞われた。多くの仲間と肉親を失い、そして彼女ははるか遠いローゼンブルクの地まで逃げ延びた。
権力は一極に集中すれば必ず腐敗する。強大すぎる力は必ず暴走する。それが、彼女が己の骨の髄まで叩き込んだ教訓だった。
もう二度と、自分の目の前であの過ちを繰り返させない――彼女はそれを自らの使命とした。
(皇帝カール家の覇権思想も、ユイナフ王国の拡大主義も、どちらも強大になりすぎてはならない)
世界の均衡を保つことこそ、祖国の悲劇を繰り返さない唯一の道。それが、この地に降り立ったセキレイの、誰にも明かさない信念だった。
「さて――」
セキレイは馬の向きを変えた。向かう先は騎士団の詰所ではなかった。
彼女の戦いは、騎士として剣を振るうだけでは終わらない。光が強くなれば、濃い影が生まれる。影を制する者こそが真の主導権を握るのだ。
領都で一、二を争う豪商バルトロマイの屋敷は、その富を隠そうともしない豪華な造りだった。
正面から訪ねれば幾人もの従者が出迎えるだろうが、セキレイが向かったのは使用人用の裏口だった。
合言葉を告げると、中からは主であるバルトロマイ本人が顔を出した。人の良さそうな笑顔を浮かべた小太りの男が、待っていたとばかりに手招きをした。
「総隊長様、お待ちしておりました。話は例の件ですな?」
書斎に通されたセキレイは、勧められたソファには座らず、立ったまま本題に入った。
「ええ、正式に頼みたい。一人はもう声をかけているが、正規軍にはなじまない、腕の立つ者を数人――そう、若いほうがいい。子供でいいぐらいだ。第一線に送り込める子供など、難しい注文かもしれないが。隊舎は、あなたが所有する空き物件をどこでもいいからお借りしたい」
バルトロマイは、大陸西部にまで及ぶ広大な情報網を持つ豪商だ。セキレイは彼を通じて、騎士団とは別の、非正規の部隊を組織しようとしていた。来るべき混乱の中、表立っては動けない汚れ仕事――諜報、工作、要人暗殺――を引き受けるための、彼女だけの手駒だ。
「承知いたしました。すでに人選は進めておりまして、面白い若者の噂が耳に入っております」
バルトロマイは帳簿の一つを取り出し、指でなぞりながら言った。
「一人は、剣の腕は立つものの、いささか協調性に欠ける少年。名はシュウ。17歳」
「剣士」
「はい。天涯孤独の身で、ただひたすらに強さだけを求めているとか。騎士団の入団試験を受けようとしたものの、推薦者がおらず断念したと。ただ、並の騎士団員よりはるかに強いとの噂です」
「ほう」
「もう一人は、奇妙な火の術を使うとかで、ならず者からも気味悪がられている少年。名はダン。こちらも17歳」
「魔法使いか、珍しい」
「ええ。どうも、北方の森の奥にある閉鎖的な村の出身らしいのですが、その炎が、普通の魔法とは異なり黒いのだとか」
(黒い炎、北方の村⋯⋯)
バルトロマイの言葉に、セキレイの眉間が微かに険しくなった。
「この少年も、大人でも歯が立たないという話です」
どちらも、正規の騎士団では決して受け入れられない人材だ。だが、だからこそ使い道がある。
「面白そうだ。まずはその二人に会わせてほしい。場所は騎士団の第三演習場。日時は明後日の日没時に」
「かしこまりました。すぐに手配を。――ただ、隊舎はもう確保しておりまして、森に面した広い庭もあります。人目につかないと存じますので、場所はそちらがよいかと」
「ありがたい。そうさせてもらう」
「隊員の報酬や隊の運営費もろもろはどうなさるおつもりで?」
「本来は筋が違うのだが、少し領邦から出る。残りは私が出す」
「私にもお手伝いさせてください」
「願ってもないこと。助かる」
「結局ローゼンブルクが強いことが、私の商いにとって最善でございますからな」
セキレイは笑顔で頷き、足早に屋敷を去った。
特殊任務を専門とする遊撃隊――セキレイが頭の中で描く、新たな戦の駒だ。その柱となるべき未だ見ぬ2つの原石に、彼女は胸が躍るような期待を寄せていた。
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