第二章 五月 第七話 箱庭の虜
水咲はその日から毎日、何もせず、じっとしていた。
ただ毎日、窓の外だけを眺めていた。まるでそれが水咲にできる唯一の抵抗だと言わんばかりに。
広い世界の中では、ほんの一点に過ぎない窓枠に切り取られた世界。それだけが水咲の世界の全てだった。水咲は全てを拒絶するように、その世界の変化だけを眺め続けた。
そうしていると、その世界はやがて立体感を失い、水咲の意識の中で平面に感じられてくる。窓枠の世界では東も西もなく、左から右へ変化するだけだ。
晴れた日は、光と影のコントラストが明瞭だった。夜明けには青白い大気が追いやられてゆき、木々の冷たく長い影が伸びる。やがて陽が昇るにつれて、木々の影が短くなり、大地に木漏れ日が差す。天気も日照時間も毎日変わり、決して同じ日はない。
それはまるで、窓枠を額にした日替わりの絵のようだった。
ここの庭は計算され尽くした美しさがある。
けれど、初めてこの家に来たとき、水咲には閉鎖された「箱庭」のように感じた。
高い塀に囲まれ、厳重に管理された広い敷地。その中に建つ、大きな屋敷。屋敷の倍ほどもありそうな庭には小川と池があり、木々が茂り、区画ごとに四季折々の花が彩りを添える。
その美しさは、この家が持つ“力”の象徴のようにも見えた。
そして、そこにポツンとある、小さな離れ。
水咲のために多少改装したとは言われたけれど、つまり元々ここにあった建物だ。誰が、何の目的で作り、暮らしていたのか。
「何もしない」という地味な抵抗を続けながら、水咲は三堂家の光と影の気配に思いを巡らせていた。
ルネサンス期、宮廷貴族たちは芸術家を迎え入れ、彼らの芸術を育んだ。この離れの目的も、存外そのような目的で作られたのかもしれない。そう考えると、かつても画家が住んでいたのだろうか?
その時、ドアをノックする音がして、水咲の思考は中断した。
——今日も来たのか。
水咲がここへ来た翌日から崇征は一日に一度は必ず離れに姿を見せた。自分を監視しに来ているのだ。そう思うと堪らなくうっとうしくて、水咲はその存在を黙殺し続けた。
水咲が知らん顔をしていると、崇征は部屋の隅にあった木製の古びた椅子を窓際へ移動させ、そこに座って水咲を見た。
その瞬間から、それまで見ていた素晴らしい「動く絵」は消え失せ、ただの窓枠と風景に変わってしまった。
窓を見るとどうしてもそこに崇征が入り込んでくる。水咲はそれに苛立ちを覚えた。
崇征は水咲のその様子を見て、彼女の感情を引き出せたことに満足そうだった。
それから、水咲と崇征の根競べが始まった。
「今日も青春の無駄遣いしてるね」
崇征は離れに入ると水咲を見て言った。水咲はソファに寝そべって窓を見ていた。
崇征は毎日来ては、迷いなく窓際の椅子に座った。そこが自分のテリトリーだとでもいうように。
崇征が椅子に座ると、水咲はいつも視線を外して天井を見た。
「あなたも人生の無駄遣いをしてますよ」
水咲は苛立ちを押し殺し、可能な限り平坦に、冷たい軽蔑を込めて言った。
「暇なんですか?」
「病院に行く以外にやることはないからね」
水咲の中傷も崇征には全く響いていないようだ。
「大学は?」
思わず口から出た疑問を、水咲は手で口を押さえて隠そうとした、が遅かった。
「やめたよ。卒業できないし。あ、表向きは休学だけど」
崇征は自嘲的に笑った。
「君こそ学校に行ったり、出掛けたりしないの?」
水咲はバツが悪い気持ちだったが、崇征は平然としていた。それが本心か仮面かもわからない。
「私を解放してください」
ここまで来て絵を見ずに出ていく、という選択肢はもう水咲にはなかった。逆に絵さえ見せてもらえれば、いつでもアトリエに戻れる。
「どこかに行きたいかい? 車を出から言ってみて」
崇征は分かっているはずなのに、そうやってはぐらかす。
「そういうことじゃなくて」
水咲は一人相撲を取っている様で無性に苛立った。
またあるときは、崇征は水咲を質問攻めにする。
「君はいつもそんな顔してるけど、どんな時に笑うの?」
「何で学校行かないの?嫌なら、転校してもいいよ」
水咲は黙殺した。
「威嚇する子猫みたいだね。そういうの疲れない?」
「——!」
子猫!?
あまりに水咲をなめた言葉に水咲は思わず起き上がってしまった。
してやったり、というような満足気な崇征の笑顔が腹立たしくて、水咲は隣の寝室に駆け込んだ。大きな音を立てて引き戸が閉じられる。
崇征に会いたくないなら、寝室に閉じこもる手段もあるのに、水咲はいつもアトリエにいる。水咲は、その「無意識の選択」に気付いているのだろうか?
目を細めて閉じられたドアを眺めると、その向こうで毛を逆立てた水咲がいる気がする。
「かわいいなぁ」
思わず漏れた言葉に、崇征自身が驚いた。聞かれていないことに、ほっと息を吐く。
雨の日も、風の日も、崇征は現れた。時々は他愛もないような世間話だけの日もあった。
但し、崇征の個人的な話をする事はなかった。水咲はその事に気付いていたが、何故かその理由もわかるような気がした。
崇征にも何か、心を殺してしまわなければ生きていけないような出来事があったに違いない。水咲はそう感じていた。
「絵、描かないの?」
この言葉が一番堪えた。描かなければここへ来た目的を達することはできない。けれど、もう筆を握りたくなかった。
「どうして私に描かせたいの?」
苛立ち紛れに何度もこの質問をぶつけた。
けれど何度聞いても微笑むだけで、その問いには答えてくれなかった。
その笑みが水咲の心を波立たせた。
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