第三章 六月

第三章 六月 第一話 降り出す前に……


 水咲がまだ幼くて、世界に水明と二人きりだった頃、水咲は幸せだった。

 水咲は一人前を気取って絵を描いては、水明に絵を教えて欲しいとねだった。


 水明の返事はいつも同じ。

「水咲が大きくなったらな」

 そう言いながら、水明の頭をぽんぽんと叩く大きな手が、水咲は好きだった。


 水咲が小学校に入ると、水咲は自分と他人との違いに気付き始めた。

 それから次第に水明との距離も離れていった。


 そして、忘れもしないあの日——

「パパ、私を置いてかないで」

 伸ばした手は、虚しく空を掴むだけだった。


 水咲が目覚めた時、最初に見たのは天井だった。


 そこはソファの上で、水咲は自分がうたた寝していた事に気付いた。


 ——夢なんて、久し振りだ……


 水咲は軽い驚きと共に起き上がると、窓際の人影に気付いた。


 崇征が、椅子に腰掛けて水咲を見ていた。

「随分うなされていたね」

 穏やかに崇征が言った。

「どうしてここにいるの!」


「合鍵で」

 悪びれた様子もなく、崇征は手の中の合鍵を見せた。


「出てって!」

 水咲はソファの上のクッションを投げつけた。


 それは崇征まで届かず床に落ちる。

「どんな夢を見たの?」

 崇征は立ち上がると、それを拾って水咲の横に座った。

「怖い夢は話してしまった方がいいんだよ」

 今までで一番近い距離で崇征に見つめられる。

 その近さに焦って水咲はソファの端まで後ずさった。


「未来がないってどんな気分?」


 崇征の目を覗き込むと、夢で見た父への問いかけが、夢とは関係ない言葉になって出てきた。

「随分酷いこと聞くんだね」

 崇征は苦笑する。


「未来がないって知った時、あなたはほっとしたんじゃない?」


 崇征は沈黙した。

 水咲はそれを肯定だと受け取った。


「でもあなたは幸せだよ、その存在を望まれてるんだから」

「君は望まれてないと?」

「だから、先生みたいな話し方はやめて」

「私がただ生かされてるっていう現実が我慢できない」


 水咲は視線を落とし、手で顔を覆った。

「私は迷惑しかかけられないのに生かされてる。意味もなくただ息だけしてる」


「出来ないんじゃなくて、何も選んでないんだろう?」

「何も知らないくせに口出ししないで。絵を描いても、勉強しても、私に存在理由はない…………その現実が耐えられない」


 押し込もうとしても感情が溢れ出して止まらない。


 水咲は隣の部屋に逃げ込んだ。


 崇征に胸の中のもやもやをぶつけるなんて筋違いだと分かっている。初めて聞いてくれる人が現れたのに、なんてことしか言えない自分が、惨めで悔しかった。



 なんとなくじっとしてられず、庭を散歩していると声を掛けられた。

「あなたが水咲さん?」

 初めて会った三堂夫人、早苗は、とてもやわらかい印象のかわいらしい人だった。

「あなたの家だと思って、何でも言ってね」

 そう言って優しく微笑んだ顔が水咲には眩しかった。



「あれが崇征様の連れてきた画家?」

 ある日、水咲がいつものように動く絵を楽しんでいると、庭から使用人の会話が聞こえてきた。

「勝手なことばかりして——」

「前の奥様とお嬢様が居ないのをいいことに、あの親子は——」


 『あの親子』その言葉が水咲には引っ掛かった。


 それは崇征のことだろうか?


 ここへ来た日に見た、崇征に対する使用人の冷たい態度を思い出す。


 崇征は使用人に疎まれている?

 親子、ということは崇征のお母さんも?

 早苗の優しい笑顔を思い出すと信じられなかったが、崇征と同じく、早苗もまた仮面をかぶっているのかもしれない。


 聞こえていることに気付いてないのか、それともわざと聞こえるように言っているのか……

 いずれにしても不愉快なので、聞こえないよう窓を閉めようと窓辺に近づくと、使用人と目が合った。


 これ見よがしに使用人が言う。

「崇征様には石峰様という、あんなに立派な方がいらっしゃったのにね。外野は色々と噂してますが、石峰様ほどの方を、あんな風に終わらせてしまわれるなんて」


 ——何を言ってるんだろう?


 崇征の病気のこと、使用人は知らないんだと思った。

 そこに少し年配の女性が現れ、他の使用人を叱りつけて追い払う。


 立ち去る姿が見えなくなるのを待って、彼女は水咲に言った。

「私はあなたに出ていって欲しいと思っています」


 その女性は、明らかな敵意を持って水咲を見た。

 水咲は彼女とは初対面なのに、彼女の方は水咲を知っているような口振りだ。

 水咲には状況が理解出来ない。

「どうかこの家から出て行って下さい」

 そこに崇征が現れる。

「三枝さん、彼女に言うのはやめて下さい。彼女は僕の客です、言いたいことがあれば僕に言って下さい」


 三枝と呼ばれたその女性は崇征に言い返した。

「彼女も無関係ではないでしょう。むしろ、彼女が全ての元凶じゃありませんか。そのお嬢さんの為に一体どれだけの人が……」

 その言葉を崇征は視線だけで黙らせた。

 三枝は言いかけたままの言葉を飲み込むと、一礼して立ち去った。


 その後は沈黙が崇征と水咲を支配する。

「君は何も聞かないんだね」

 やがて、崇征が言った。

「この家でのあなたの立場なんて興味ないもの」

「…………そうだね」

 崇征は呟いて、それきり何も言わなかった。


「でも、私が元凶ってどういうこと?」


「ただの中傷だよ、気にすることは無い」

 崇征はゆったりと微笑んで言った。


 その笑顔が、水咲には『三堂崇征』の仮面に見えた。


「いつか必ず話してくれる?」

「——あぁ」

 崇征は水咲を見ないで言った。


 二人の間にポツリと雨粒が落ちる。


 空には暗い雲が広がって、季節はやがて梅雨を迎えようとしていた。

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