第二章 五月 第六話 借り物の光
「ようこそいらっしゃい」
崇征は笑顔で水咲を出迎えた。
しかし水咲はそっぽを向いたまま、荷物を足元に下ろした。使用人がすぐにそれを持ち上げる。
けれどおかしなことに、その無愛想が可愛らしくも思えてきた。
「君の部屋は離れなんだ」
そう言いながら、崇征は先に立って歩き出した。その後に無表情の水咲と使用人が続く。
広大な庭を進むと、木立に囲まれて隠れ家のような離れが現れた。
「もうずっと使ってないから気兼ねなんて要らないよ」
依然として視線を逸らし、無表情な水咲の横顔を見ながら、崇征は言った。
「中は見た目よりも広いから、アトリエもここで大丈夫だよ」
説明しながら崇征は離れの鍵を開け、水咲を中に通した。使用人は荷物を置き、全ての雨戸を開けて回る。
屋内に光が差し込んでゆき、その姿が明かされてゆく様は美しかった。
使用人は水咲に対して一言の挨拶もなく、立ち去った。
その使用人の冷たい態度に、水咲は自分が招かれざる客である事を知った。
ただそこまでは水咲自身も予想していた。
驚いたのは、崇征に対しても使用人の態度は同じだということだった。
崇征はそのことには触れず、水咲に離れを紹介した。
崇征の言葉通り中は広々としている。
小さな台所、奥に今回改装されたというユニットバス、あと部屋が二つ。
南向きに窓がある部屋にはキャンバスや新品の画材一式が揃っていた。それらは水明が使っていたものと同じで、崇征の優秀さに感心するしかなかった。
窓からは整えられた庭が見え、その向こうに屋敷があった。
「ここのものは何でも自由に使って。足りないものがあれば、僕か使用人に遠慮しないで言って」
説明しながら崇征は水咲を見た。
崇征の予想に反し、水咲は何故か遠い目をして崇征を見ていた。崇征は、彼の仮面の下に隠したものを覗き込まれでいる気がした。
「何か質問は?」
崇征の言葉に水咲ははっとしたように目を逸らした。喉まで出かかった「別に」という言葉を飲み込んで、水咲は別の言葉を発した。
「どうして、ここまでするの?」
それは、水咲の心に唯一残された純粋な疑問だった。
崇征の耳にその言葉はひどく異質なものに響いた。初めて水咲の意思で崇征自身へ向けられた言葉だったからだ。
「他人の私のためにどうしてここまでするの?」
予想外のことに崇征が言葉を失っていると、水咲は質問を繰り返した。
「速水さんと約束したから」
「そうじゃなくて」
崇征の言葉に重なるように発せられたその水咲の声は強かった。
「約束だけで普通ここまでしない。他に理由があるんでしょ?」
「ここに来たのは君の意思だよ」
窓の方を眺めながら崇征は言った。
「そうさせたのは、あなたよ」
「鍵、渡しておくよ」
崇征は視線を落として鍵を差し出した。
水咲は手を出さず、崇征を睨むように見た。
「私、まだここに住むって決めたわけじゃないよ」
予想していなかった言葉に、崇征は思わず水咲を見た。今度こそ水咲の視線に捕まった、もう逃れられない。
「本当のこと、話せないような人のことなんか信用できない」
水咲に言われて初めて崇征は肝心な事に気付いた。
——しかし
水咲は探るように崇征の表情を見ていた。
崇征は水咲から目を逸らして硬い表情で黙った。
やがて、重い口を開く。
「今はまだ話せない」
それ以上なにも言おうとしなかった。
今度は水咲が説得する側になったのか。崇征に出会ってから全ての調子が狂ってゆく。
理由を聞き出すことを諦め、水咲はここへ来た目的を果たすことにした。
「それより、早く絵が見たいんですけど」
崇征は「あぁ」と軽く頷くと、言った。
「君の絵が出来上がってからだよ」
水咲は絶句し、崇征のしたり顔を凝視した。
そしてその目を見開いたままの顔で、
「卑怯だ」
とうめくように言った。
「ずるくないよ」
崇征は余裕たっぷりに微笑み、平然と言った。
「絵を描くのはいつからでも構わない。ただ、速水さんの絵を君に渡すのは最初に言った通り、君の絵が完成してからだよ」
呆気に取られている水咲の手に鍵を握らせると、
「僕のことは崇征って呼んでくれて構わないからね」
そう捨て台詞を残して崇征は離れを出た。
水咲は苛立たしげにその背中を睨むしかなかった。
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