第9話  羊の夢 2

「おーい、よう!」


 背後からの声。それに僕は気付いたが、もちろん、自分が羊であることは認識していない。僕はただ、今度は何が起こったのか、どんな世界に放り込まれたのかを確かめていた。


「羊! お前、何ぼーっとしてんだ?」

「え? ああ、すまん」

「早く。ブルペンだろ、今日」

「ああ……悪い」


 これはあの小説の中なんだろう。あの感覚。体が小さな本の中に吸い込まれていく感覚は、久しぶりだった。しかし、まだこの物語の終わりまで読んでいない。それに、前と同じで全く内容を知らないのだ。

 目の前にいるキャッチャー防具とキャッチャーミットを持つ彼が一体誰か、名前すら僕は知らない。


「にしても、監督がいきなり羊を指名するなんてな」

「指名?」

「ほら、昨日に一年の中で投手ができそうなやつを募ってたじゃん。羊は肩壊したから投げれないってのに、誰も立候補しなかったせいで、監督に選ばれたてたじゃん」

「ああ。まあ……投げれないことはないぞ。ただ、ホームベースまで届かないってだけで」

「そんなにか?」

「ああ。そんなでも、野球にしがみつきたかったんだ」


 どこから聞こえるような、羊の情熱が、口からつらつらと出ていく。まるで、台本通りの台詞を言うみたいで、演技力すら僕が意図したものではなかった。

 狭いブルペンのマウンドの傾斜を確認し、硬式球の革を撫でる。ロジンを少し指先につけると、余った粉を息で舞わせた。

 赤いグラブに白球を収めて一つ呼吸をく。ギッと睨むようにキャッチャーミットを見つめると、投球モーションに入る。

 ノーワインドアップ。左足を少し下げ、右足はプレートを捉えていた。そして左足を上げ、反動をつけると、ヒップファーストでキャッチャー方向へ体重を移動させながら、腕を回す。

 その瞬間、電流が走ったような感覚に襲われる。右肩の悲鳴は、痛みとして僕の体に急停止の信号を送る。

 モーションを続け、そのままボールを投げるが、ホームベースには凡そ届いていなかった。


「羊……マジか」

「ああ。これが今の僕だ。どこを守るにもこの方じゃ無理だし、やっぱり……」

「やめるとか言うなよ。どうにかして良くする方法はあるはずだ」

「無茶言うな。これでも、幾つも医者に診せた。どの医者も首を横に振って顰めっ面だったさ。日常動作はできるようになるけど、重いものを持ち上げたりは難しいかもってさ」


 僕はマウンドとホームベースの間に転がるボールを手に取った。そして、そのボールを放ると、ようやくその距離でキャッチャーへ届くボールを投げられた。

 それでも、力のない緩く弱いボールだった。弱小校でも投手なんて務まらないし、もしかしたら、小学生にも敵わないだろう。

 そして何より、この事実が羊だけではなく、僕――鵲春一にも言えることだ。


「なあ羊。少しずつでいいから、距離を伸ばしていこう。俺、いくらでも捕るからさ、な? ショーバンでもいい。それはそれで練習になるし」

「ヨシ……ああ。そうだな」


 ヨシ――誰だ? 口から自然に出た名前。レイヤの時と同じで、作品の、キャラクターの記憶が湧き出てくる。そうだ、こうして湧き出た記憶によって、僕はこのキャラクターそのものになるんだ。桜ノ宮がミサキになりきったように、僕は羊になるのか。


「今の距離からでいいか? ざっと四メートルか。前より投げられてる」

「ああ、少しずつでいいと思う。痛くなったら言えよ」

「痛いよ。ずっと。でも、それでも、投げたいと思うんだ。僕は」


 ブルペンの練習時間が終わるまで、コツコツと半歩ずつ離れていき、キャッチボールを続けた。


「そろそろフリーバッティングの時間だな」

「球拾いは嫌いじゃない。投げないからな」

「確かに」


 メイングラウンドに出ると、すでに上級生のバッティングが始まっており、僕らは急いで外野に走っていき、飛んできた球の処理を始めた。

 白球が高らかに空を舞い、僕の元へと落ちてくる。革を叩く乾いた音が響くと、白球をカゴのそばにいるマネージャーの元へ投げる。


「おい羊、ちゃんと投げろよ」

「先輩、すみません。羊は……」

「ああ……すまん、そうだった」


 憐れむ目と、助け舟を出すその言葉が辛さを助長した。僕はどんよりとした暗く重い空気に支配されると、キンと甲高い音を奏でて弾き飛ばされた白球を追いかけた。走りながら噛み締めていたのは、悔しさだ。

 その悔しさが、誰のものかわからない。羊なのか、僕自身のものなのか。

 僕も羊と同じく、肩を壊して満足にボールを投げられなくなっていた。羊はまるで、野球を続けていた僕を映し出しているようで、その淡く切ない可能性の一つを、味わうことになるとは思っていなかった。


 気付けばライトからレフトの奥深くまで走っていた。転がるボールがフェンスにぶつかり、僕の元へ転がってくる。

 何故か、どうしてか、僕は拾い上げたボールを思いっきり投げたくなった。

 数歩だけ助走をつけ、気持ちよく右腕を振った。


「っらぁ!」


 指先に掛かった負荷で、僕はどれくらいの出力を出したかわかった。ボールを切る音が聞こえるくらいボールに力を伝えていた。低い弾道で飛んでいくボールが、糸を引くようにスーッと真っ直ぐヨシの元へ飛んでいく。

 思わずバッティング練習をしていた上級生も手を止め、ヨシは驚いたようにミットでボールを受け止めていた。そして、その受け止めたバシンという音が合図のように、ざわつきが僕を包み込んだ。


「羊、お前投げれるじゃん!」

「そうだよ! 昔の羊の遠投じゃん!」


 中学からの同級生が驚いて僕にそう言うと、これまた同情のように褒め称えられる。その度に苦しさを覚え、僕は明るい顔を取り繕うことができなかった。


「まぐれだよ。この肩はどうせもう使い物にならない」

「それは決めつけじゃないか?」


 気づかぬうちに、監督が僕の元へ来ていた。色付きのメガネの奥から鋭い眼光を飛ばす彼は、僕の肩を触る。


「ここ痛いか?」

「いえ……」

「ここは?」

「大丈夫です。痛くないです」

「これでも俺は整体師の免許持ってんだ。この箇所が痛くなくて、あんなヒョロ球投げてるってことは、体の問題じゃなく、メンタルの問題だと思った」

「監督、もしかして僕をブルペンに割り当てたのって……」

「ああ。お前の中学時代の実績、故障歴。どれも知ってるが、完全に投げられなくなるわけがない。一年間投げ込んでないってのに、まだ痛むわけがない」


 見透かされる。それは、本当に見て全てを曝け出されるような、僕の秘めていたことを暴露された瞬間だった。

 僕の肩は治ってる。だが、怖かった。また痛くなること、それで、大好きな野球がどうしてもできなくなること。それで、僕が僕としてのアイデンティティを失うことが。

 心地の良い春の風が吹いた気がした。砂埃が軽く舞い、視界が少しだけ白んだ。僕を見つめる監督は、そばに居た部員に声を掛け、僕にボールを渡す。


「もっかいブルペン行って来い。怖がるな、お前の肩がぶっ飛んだら、俺が治してやるから」

「……はい!」


 僕はヨシに声を掛けてブルペンへ走っていった。その足取りは、ここ最近で最もご機嫌で、ブルペンのマウンドに立つと、早く投げたくてウズウズしていた。

 ヨシはと言うと、少しニヤついており、きっと僕の本気の球を受けたくて堪らないのだろう。キャッチャー防具を身につけると、少し肩慣らしをしたあと、座ってミットを構えた。


 

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