Ⅱ 羊の夢

第8話  羊の夢 1

 あの日以来、少しだけ桜ノ宮と話すようになった。

 それでも、挨拶だったり、業務的な会話くらいであり、何か話し込むというわけではなかった。

 あの現象についても何も起こらず、僕らはただ同じ夢を見ていた、位に思うようにした。

 桜の木も青々とし、若葉薫る季節が来て、そろそろ雨の予感もするようになった。

 僕はまた日直の番が回ってくると、最後まで教室に残った。


「ごめんね、鵲君」

「いやいいよ。今日は何読んでるんだ?」

「えっと『羊の夢』っての」


 ブックカバーに覆われた文庫本を、僕に見せるがカバーのせいで、僕には何か分からなかった。


「えっと、ファンシーなやつ?」

「いや、結構重めの話かな」


 桜ノ宮はようやくブックカバーに気付き、あっとなっていたが、すぐに「ごめんね」と言い、本に視線を戻した。


「桜ノ宮さんは、この前の現象、どう思う?」

「んー、実はちょっと面白かった。不謹慎かもだけどね。本の世界に入るって夢がある話じゃない?」

「確かにそうだけど……」


 僕は肯定も否定もせずに、半分だけ頷いた。

 そんな会話をしつつ、僕らは下校時刻まで、教室で二人きりだった。

 もちろん、何も起こらない。それはあの現象についてもそうだし、僕らの関係、男女間に起こる恋愛現象なるものも、起こるわけなかった。

 時折、チラッと桜ノ宮を見る。大きなメガネを外し、裸眼のまま読んでいるその姿に、僕はミサキがフラッシュバックしていた。


 空がようやく色づいた。随分、日が長くなったなと思いながら、窓の外の校庭を見下ろす。

 野球部がシートノックをしている。乾いたノックバットの打撃音。ザザザッとスパイクが砂を噛み、グラブがパシッと音を立てる。放られたボールがファーストミットに収まると、またも乾いた音が響く。


「鵲君?」

「ん?」

「野球……したいの?」

「まあもうできないからね。肩、ボロボロだし」

「そう……」


 桜ノ宮は本を閉じて、腕時計を見た。意外と無骨な時計で、もしかしたら男っものなのかもしれない。時計の針を確認したのか、彼女は本を閉じてカバンに突っ込む。

 そして視線が僕の方に向くと、少しだけ残念そうに眉をひそめた。


「そろそろだね」

「ああ、そうだな。もう帰るか?」

「うん。ゴメンね付き合わせちゃって」

「いいよ。どうせ帰ってもやることないし」


 僕はそう言うと、カバンを肩に引っ掛けた。もちろん、右じゃなく左の肩に。

 野球をしていた頃、肩には気をつけており、何をするにも左手でやっていた。流石にペンや箸を扱うのは右だが、重いものを持つ時は左に任せていた。癖は、いつまでも残るんだな、と少し悲しくなりながら、左肩に重さを感じていた。

 桜ノ宮は右肩にカバンを引っ掛ける。隣り合う二人の間は、互いのカバンが隔てていた。


 施錠を済ませ、職員室に鍵を返しに行くと、由佳理さんが僕と桜ノ宮を交互に見た。


「二人は仲が良いの?」

「え?」


 桜ノ宮が驚いた声を出すと、僕は彼女を見た。互いに、何とも言えない表情を浮かべると、苦笑いをも忘れて見つめ合ったところで、由佳理さんが問い掛けた。


「どうなの?」

「え、ええっと……」

「な、仲が良いというか、悪くはないです。それじゃあ、失礼します」

「はい、さようなら。気をつけて帰るのよ。あ、鵲君、ちゃんと桜ノ宮さんを守ってあげてね」

「は、はあ……」


 溜息に似た声を出すと、そのまま職員室を出て桜ノ宮を見つめた。戸惑う彼女は視線の置き場に困り、その目は四方八方を射抜く。

 そんな彼女をただ見つめた。僕は彼女を守る――レイヤがミサキを守るように?


「な、なに?」

「いや……守るってなんだろうって」

「た、単純に、鵲君が男の子だから、何かあったらってことじゃない?」

「なるほど……なんか、あの一件で色々思慮深くなりすぎてるのかな?」

「かもね……私もそうだもん」


 二人並んで歩く廊下。足音がその人数を物語る。そして昇降口でローファーを履く。その時間が何でもない筈なのに、どこか特別に感じれた。

 彼女の髪が一瞬だけ顔を隠す。そして見えてくる顔が美しい事を僕は知っている。


「なあ桜ノ宮さん」

「何かな……鵲君」

「髪、整えたら?」

「前にも言ったでしょ。私はこれでいいの」


 冷たい返事が、まるでこれまで懸命に積み上げたものを崩した気がした。

 彼女の後を追うように、玄関口まで行くと、彼女は振り返り、僕のネクタイを引っ張った。


「次言ったら……分かってる?」

「わ、わかってる……」

「……なら良い」


 ドスの利いた声に、僕はお尻の穴がキュンとした。

 別に性的な意味じゃない。ただ、恐怖した。

 彼女の知らない一面を見れたことに喜んでいるだけでなく、その知らないものがドロドロとした真っ黒いものだということを、僕は認識したのだった。

 無言のまま途中まで同じ道を歩く。傍から見たら、喧嘩をした高身長カップルに見えるだろうか?

 僕は時折、彼女に視線を向けるが、横髪で表情は伺えなかった。

 彼女が抱えるものを、少しでも知りたい。そう思い始めた僕は、偽善者なのだろうか?

 

 帰路の岐路があるあの公園に差し掛かり、彼女はカバンからブックカバーに覆われた文庫本を取り出すと、僕に差し出した。


「ねえ、これ読む? もう私は読み終わったから。結構、鵲君に刺さると思う」


 僕は「さっき読んでいたやつか。うん、読んでみるよ」と、淡々と受け取った本をカバンに入れると、僕らはそのままそれぞれの帰路に着いた。

 途中の町内会の掲示板に、痴漢被害が増えている、という警告文があり僕は少し心配になり、今からでも桜ノ宮を追うか迷った。

 だが、公園から別れてすぐのところには交番もあるしと、僕は「まあいいか」と呟いてから、家まで歩く。


「ただいま」

「おう、お帰り」


 父が迎えてくれたリビングで、僕はカバンを置きソファーに腰掛ける。

 心配そうな視線は、肩を壊した時から続いている。

 僕はやめて欲しいと何度も言ったが、父は練習させていた自分の責任だと言い張るのだった。


「肩、どうだ?」

「日常生活ではなんともない」

「そうか」


 僕は居心地が悪いリビングから、自室へと戻りカバンから一冊の本を取り出す。


【羊の夢】


 ブックカバーに覆い隠されている表紙イラストを見てみる。

 羊とは、動物の羊ではなく、男の子の名前らしい。

 少しだけ、僕に重なる。彼は野球をしていたが、怪我をしてできなくなり、それでもまた野球ができるようにと努力をする。



「なになに……ああ、大貫羊おおぬきようっていう主人公か。だから、羊の夢か」


 裏表紙に書かれている粗筋を読みながら、僕は羊に親近感を覚えた。

 僕はそう納得して本を開こうとすると、栞の紐が出ているのがわかった。

 もしかしてまた、あの現象が起こるのか、と唾をゴクリと飲み込んでから、そのページを開いてみる。

 そこには普通に文字が並んでおり、僕はホッと安堵の息を漏らす。

 栞を取り出し、一頁目から開き直すと、最初にはご丁寧に登場人物紹介があり、そこに並ぶキャラクター達の姿絵。その筆頭に描かれている、羊の顔は何故か黒く塗りつぶされていた。


「な、なんだこれ……こういう仕様か? それとも桜ノ宮さんが……なわけないか」


 気楽にそう言っていると、突然、浮遊感が僕を襲う。

 そしてその瞬間、持っていた本を手放し、硬い背表紙が机に音と立てて落ちると、本は勝手に開き、そしてページがまるで風に煽られたように、勝手に捲られて行く。

そして、あのページが目の前に現れる。


『この物語は、フィクションです』


 その無機質で、鋭い明朝体の文字をまるで無理矢理に見せられたような気分だった。

 釘付けになるその文字に、僕は意識を刈り取られるように、夢中になると、それは拒絶の権利などない強制的なもので、僕はまた物語の世界に放り込まれるのだった。

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