第5話 ふたりの境界線

 ノアが拠点のエントランスに降り立ったとき、夜の端が白み始めていた。

 街灯がひとつ、またひとつと消えていくその中で、イザナの高級セダンは、彼を降ろすと同時に、まるで闇に溶ける影のように音もなく去っていった。


 薄く立ち込める霧に包まれた、冷たく凍てつく朝の空気の中。

 にもかかわらず、ノアの肌の奥には、あの車内で絡みついたイザナの熱が、まだ柔らかく、しかし確実に残っていた。

 耳に残る低く甘い声の余韻は、呼吸の一部のように彼を追い、霧に溶けてなお、静かに絡みつく。まるで、目には見えぬ鎖で体の芯まで締めつけられるような感覚――冷たさと熱、緊張と陶酔が、静かに混ざり合っていた。



 ――「お前が何者であるか、すべて知っている」

 ――「俺の目が届かない領域なんて、この街には存在しない」

 ――「俺の唯一の生きる意味だ」



 その一言一言が、時間差で胸の奥に響いてくる。冷たい刃のようでもあり、奇妙に甘い呪縛のようでもあった。

 頬にかかる束をそっと指で撫でる。自分でも気づかないうちに呼吸が浅くなっている。


 拠点の静寂はノアの耳に鉛のように沈み込み、心臓の鼓動さえも吸い取られるかのように重く響いた。

 廊下を一歩一歩進むたび、足裏に冷たい床板の感触が粘液のようにまとわりつき、身体を引き裂くかのように意識を刺激する。

 誰ともすれ違わずにプライベートルームの扉に到達すると、無意識のまま手を伸ばし、ドアを押し閉めた。背後でカチリとロックが嵌る音は、乾いた骨が折れるような冷たさで、現実と隔絶された境界線を刻む。


 柔らかな照明はノアの輪郭を薄い氷膜のように縁取り、頬に微かに熱を残す。人工的な温もりは、まるで腐敗した空気の中に漂う香りのように不自然で生々しい。

 洗面台の冷たい縁に手を置き、ノアはゆっくりと顔を上げる。


 鏡に映る自分の姿――任務前に鍛え上げられた完璧なスパイの仮面は、微塵も揺らがぬはずなのに、瞳の奥で淡く揺れる焦りの色が、氷のような室内の空気に溶け込んでひそやかに反射していた。


 呼吸を整えようとするたび、冷たい空気が肺を締め付けて周囲の静謐をさらに鋭利に感じさせる。

 息の熱さは、氷のように硬い鏡面に映る自分の瞳とぶつかり、わずかに震えた光の粒を跳ね返す。



 彼は深く吐息を漏らし、理性を叩き起こす。



 ――分析しろ。これは、罠だ。



 理性が鋭く目を覚ます。イザナの言葉も、あの優しげな微笑も、計算の産物。

「知っている」と言い放つことで、イザナは恐怖を植えつけ、同時に救済の手を差し出した。

 その矛盾がノアの思考を縛る。


 恐怖と依存――相反する二つの枷を、見事に噛み合わせてきたのだ。


 さらにあの男は、情報提供という形でノアの目的を正確に突いてきた。

「非合法な資金ルートの監査」―― スパイとして、この機会を逃すわけにはいかない。

 どんな理性を総動員しても、あの甘い毒の誘いは切り離せなかった。


 ノアは唇を噛み、鏡の中の自分を睨む。


「……違う。あれはただの罠だ。感情を混ぜるな」


 そう呟いても、胸の奥で別の声が囁く。



 ――『生きる意味』



 イザナが低く呟いた、あの言葉。

 冷たく整った部屋の空気が、まるで霧に溶けるように、急に柔らかく、異質な温度を帯びた。


 思い出せないはずの響きが、どこか懐かしく胸に触れる。存在しなかったはずの記憶の欠片が、遠い夢の片隅でちらつき、意識の奥底で微かに瞬いている。

 まるで過去と未来の境界に立たされ、時の流れの裂け目から見下ろす幻影のように――ノアの心は、知らぬうちにその光に吸い寄せられていた。


 ノアは再び息を吐く。

 鏡に映る瞳は、もはや冷徹な諜報員ではなかった。そこにあったのは、計算でも、恐怖でもない。理解不能な揺らぎ。

 それが、イザナの放った一言によって芽吹いた最初の歪みだった。


 デスクに腰を下ろし、淡いモニターの光に照らされた座標データを指先でなぞった。

 画面の端で、イザナから渡された「極秘任務」の情報が、まるで呼吸しているかのように微かに瞬いている。


 ――あの熱は何だ?

 支配か、幻か。

 それとも……俺の中に残っている何かへの共鳴か。


 脳裏に、任務の最中にふと浮かんだ記憶の欠片が滲む。

 夢のような映像――「もし自分の意思で選択できるとしたら」と呟く、誰かの声。

 それは、遠い昔に見た光景のようでいて、触れた瞬間に消える儚い残響だった。


 イザナの言葉が、その夢に輪郭を与えていく。まるで彼の声が、封印された記憶の奥を優しく叩いているようだった。


 ノアは息を殺した。

 ここはイザナの領域――秩序も理屈も、すべてが彼の意志ひとつで形を変える檻である。けれど同時に、誰にも踏み荒らされない安全圏。

 矛盾が絡み合うこの空間で、かすかに口元を歪めて笑った。


「イザナは俺を試している。……いや、作り変えようとしているんだ。俺の知らない“あの日のノア”に」


 自嘲と警戒が胸の奥で交錯する。

 スパイとして背負う使命、そしてイザナの歪んだ執着。

 その力の重みはあまりにも強大で、どちらかに傾けば、確実に自我が削ぎ落とされる。


 ノアは瞳を細め、端末の冷たい光を反射させながら、息を殺すように低く呟いた。


「……利用させてもらう。お前が俺を知っているのなら、俺もお前の仮面を逆手に取る」


 冷たい決意が彼の中で形を成す。

 その瞬間、彼の瞳に宿った光は、鋭い刃のように静かに光った。


 ――心理戦の幕が上がる。

 イザナの密室で仕掛けられた言葉という罠が、今、ノアの手によって反転し始めていた。

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