第6話 静かな拠点の朝
ノアは、冷たい決意を胸に、デスクの上に広げられた資料を静かに閉じた。
紙が擦れる微かな音が、広い部屋の空気を切り裂き、やがて沈黙に溶けていく。
思考は研ぎ澄まされているのに、身体の芯は鉛のように重い。頭の奥で、イザナの声がまだ残響していた。
――あの熱、あの眼差し。あれは支配か、それとも救済の幻か。
思考を振り払うように視線を上げた。
広大な拠点の照明が、微かに色味を変え始める。その光は、曇りガラス越しに差し込む朝日のように輪郭が鈍く、温度だけを置き去りにする穏やかさと寂しさを纏っていた。
窓の外では、夜が名残惜しげに街の縁を掴んでいる。
摩天楼の輪郭は、黒と灰の境を曖昧に滲ませながら、ゆっくりと朝の光に身を委ねていく。ガラスの外壁に映る光の筋は、ひび割れた鏡を縫う金糸のようで、夜の残滓を丁寧に縫い留めていた。
ビルの間を縫う風は、夜の冷気と朝の湿り気を混ぜ合わせ、焦げた鉄と新しい雨の匂いを運んでくる。街はまだ眠りの底にいる。
けれど、その静寂の下で、見えない何かが動き始めている。世界が一度、呼吸を止めた後に再び肺を膨らませる、その最初の一拍が訪れていた。
ノアは深く息を吐いた。
喉に残る味は、ぬるい紅茶のようにどこか優しく、けれど寄り添いきれない温度だった。
椅子の背にもたれてまぶたを伏せると、思考の底でまだイザナの声が反響していた。
音ではなく、温度として。言葉のひとつひとつが、脳裏に薄く焼き付いている。まるで透明な刃で心の表面を撫でられたように、痛みはないのに傷だけが残る。
だが、ノアの中では、まだ舞台の幕が降りていない。
あの対話は終幕ではなく、次の序章にすぎない。イザナの視線が残した熱が皮膚の内側でゆっくりと滲んでいく。
それは焼け跡のようでもあり、まだ消えない火種のようでもあった。
ノアは視線を窓の外へ戻した。
夜と朝の境界線は、曖昧なまま街の輪郭を溶かし続けている。闇が終わるのではなく、光に吸収されていく。
まるで彼らの関係のように、終わりが始まりにすり替わっていく瞬間だった。
(ここからが本番だ)
そう呟くように目を閉じ、感情の仮面をゆっくりと貼り直す。
表情の温度が下がるのが自分でもわかる。
理性が完全に主導権を取り戻した。
朝の光に縁取られた彼の影は、灯りの消えたランプが、まだ温度だけを宿して佇む残光のように静かだ。
足音が静かな廊下に溶け、遠くで誰かのコーヒーメーカーが稼働し始める音が聞こえる。
日常という名の戦場へと、ノアは歩き出した。
その背に、新しい支配の序章が、誰にも知られぬまま、静かに降りかかっていた。
__________
ノアは、冷たい決意という名の仮面を胸に当て、デスク上の資料を音もなく静かに閉じた。彼の瞳が捉える端末のモニター群は、夜明けの淡い光を反射して、ぼんやりと青白く滲んでいる。
金属と電子部品が混じり合う、乾いた匂いが支配する部屋――ECLIPSEの情報処理フロア、通称『ヴェルモア』。
ここには銃声も爆風もない。だが一瞬の判断が世界の裏側で誰かの命を左右する、光速で飛び交う情報の戦場が広がっていた。
冷却ファンが低く単調な唸りを立て、空気の振動さえも微かに揺らす。
その脈動に合わせ、壁面の大型スクリーンには暗号化された通信ログや裏取引の残滓が、銀色の文字列となって無限に流れ続ける。
光は冷たく鋭く、空間に無機質な波紋を描き、スクリーンの前に座る者たちの影を長く、そして断続的に揺らした。
データの飛翔を追う視線、キーボードを打つ指先、静まり返った呼吸――すべてが一体となり、見えない「戦線」を張り巡らせていた。
ここにいる者の神経は張り詰め、部屋の凍りつくような沈黙と乾いた匂いの中で、命の代わりに情報が交換されていく。
ノアは手首の端末を起動し、昨夜の任務データを暗号解除のキューに入れた。
いつもなら、その動作一つで思考はスパイモードへと完全に切り替わる。だが、今朝は違った。彼の理性的な防壁の奥深くで、昨夜の記憶が、重い残響となって響き続けている。
――イザナの声が、まだ耳の奥に、熱を帯びた鎖のように残っていた。
『俺の唯一の生きる意味だ』
『お前が何者であるか、すべて知っている』
ノアは眉間にわずかな皺を寄せ、肺の奥まで空気を送り込むように深く呼吸を整えた。
理性の壁を何重にも積み上げ、イザナの滲む熱を意識からそっと押し出すかのように、冷ややかに自分を制御していく。
だが、どうしても消えない熱があった。
まるで、昨夜イザナと同じ密室の空気を吸い込んだ肺の奥に、彼の支配的な温度がまだ棲みついているようだ。
それは、異質な感情でありながら、失われた記憶と共鳴する、場違いな温かさも秘めていた。
キーボードの上で指を止め、ノアは無意識に、頭上の天井の照明を見上げた。
薄明かりのオフィスは、夜の青白い光を残しつつ、ゆっくりと金属的な朝の輝きに染まり始めた。
冷たさと、これから差し込む現実の温もりが入り混じる中で、ノアは感情を押し殺した表情をわずかに揺らした。
(イザナは、俺を試している。支配か、それとも――俺の記憶の残響を、現実に変えようとしているのか)
目を閉じ、長すぎる息を吐き出す。
一秒の静寂のあと、ノアは再起動したかのように、再び端末を操作し始めた。
次に進むために。その冷たい決意の裏で、彼の中の硬質な何かが、確かに軋む音を立てていた。それは壊れ始めたスパイの仮面か、あるいは目覚め始めた人間性か。
ヴェルモアの拠点の朝は静かだ。
だが、その静けさの奥には、イザナとノアの次の駆け引きが、すでに始まっている。
ノアの背後に、誰の足音もないのに、イザナの絶対的な気配が冷たい影となって、確かな存在感を以て生まれていた。
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