第4話 密室への誘い
イザナの「乗れ」という絶対的な命令は、夜の冷気に鋭い圧力となって響き、霧に濡れた舗道さえもその重みに押さえつけられるかのようだった。
ノアは、背後の闇にひそむ異様な沈黙と、イザナの掌握するような圧倒的な気配を同時に感じ取った。
逃げ場は存在せず、体中の神経が研ぎ澄まされる。ここで一歩でも躊躇すれば、スパイとしての地位どころか、命そのものまで危険に晒されることを肌で理解していた。
硬直した体を無理に動かし、重厚なセダンの後部座席へと向かう。
ドアに触れると、金属の冷たさが指先に伝わり、外気の冷たさと車内の温かさのコントラストに身体が一瞬戸惑う。革張りのシートはしっとりと暖かく、微かに香る香油の匂いが密室の空気に混ざる。
だが、その暖かさこそが、ただの温度ではなく、圧倒的な支配の気配を帯びていることをノアは無意識に感じ取る。
車内を漂うわずかな静寂と、エンジンの低い唸り、窓越しに流れる街灯の光の揺らめき――すべてがイザナの存在の前では異様なまでに重く、ノアの心臓を緊張で締め付けていた。
ノアがシートに沈み込むと、音もなく車の扉が自動でロックされる。微かな機械音は、まるで鋼の檻が静かに閉ざされる瞬間のようで、ノアの耳に不気味なほど鮮明に届いた。
胸の奥で、警戒心と畏怖が微妙に絡み合い、彼の呼吸はわずかに速まる。
運転席に座るイザナの瞳は、ノアの微細な動揺を逃さなかった。
その視線に宿るのは、慈悲でも優しさでもない。熱を帯びた独占欲と、掌握の意思。
彼の視線は、夜の闇よりも冷たく、しかし確かに焼けるような輝きを放っていた。
ゆっくりとクラッチを切る指先がアクセルを押す。ヘッドライトはまだ沈黙したまま、セダンはまるで夜そのものを裂くかのように、裏通りを滑るように進む。暗闇に溶ける車体と、背後に残る微かな恐怖。
すべては、イザナの掌の内で踊っていた。
「任務の評価だが、完璧だ」
イザナの声は、低く静まり返った空間に落とされた刃のようだった。
その音は穏やかでありながら、一切の迷いを許さない。感情の抑揚すら削ぎ落とした声の奥に、確かな断定があった。
ノアの肩がわずかに震えた。
自分でも気づかぬうちに背筋が伸び、呼吸が浅くなる。
ゆっくりと顔を上げると、ガラス窓越しのイザナがこちらを見ていた。表情は穏やかで、怒りも喜びも見えない。だが、その視線には不思議な重みがあった。褒められているのに、息が詰まる。
それは上司としての眼差しではない――もっと深く、逃げ場のない何かを含んでいた。
「ありがとうございます。報告書は、すぐに提出いたします」
その返答は形式的で、丁寧すぎるほどに整っている。しかし、心のどこかで、ノアの警戒心は微かにざわついていた。
「報告書なんて必要ない」
イザナは鼻で小さく笑った。
その笑みには侮蔑も嘲りも含まれていない。ただ、全てを知っている者だけが放つ余裕が、静かに、しかし確実に空間を支配していた。
「俺はお前の動きの全部を見ていた。冷静な判断、予期せぬトラブルへの対応……一分の隙もなかった」
ノアの瞳が、ほんの一瞬だけ大きく見開かれる。耳の奥で微かに鼓動が高鳴る。
それは驚きであり、同時に得体の知れぬ圧力に晒される緊張感でもあった。
「……見ていた?」
ノアの声はかすかに震える。
監視の痕跡はどこにもなかったはずだ。
それなのに、イザナの言葉には疑う余地など存在しない確実さが宿っていた。
「……私の任務は、極秘の単独行動でしたが」
ノアが言葉を選ぶその間も、イザナの瞳は鋭く、しかし柔らかく、全てを透かしているかのようだった。背後に迫る闇にも似た存在感が、ノアの心を揺さぶる。
「ああ、そうだったな」
イザナは冷たいガラス窓越しに、ノアの驚愕の表情を、ほんの一瞬だけ確認した。
その瞳は夜の闇に溶け込みつつも、確実にノアの全てを射抜いていた。
「俺の目が届かない領域なんて、この街には存在しない。特に、お前が動いている時は」
その声は、柔らかな調べのようでありながら、同時に背筋を凍らせる狂おしい圧力を帯びていた。まるで、街の影のひとつひとつに潜む歪んだ闇までも、彼の意志に従って震え、蠢くかのような確信。
ノアの胸の奥で、警戒の赤いランプが激しく点滅する。血管の隅々まで張り巡らされた神経が、一瞬で研ぎ澄まされる。
自分は監視されていた——それが確かだと、まだ理解できないまま、心臓の奥でざわめきが走った。
ガラス越しのイザナは、表面上は穏やかに見えながらも、内側で熱を帯びた支配の意思を秘めていた。その存在感は、知らず知らずに全てを覆い尽くして逃げ場を奪うかのような、甘美でありながら牙を隠した圧迫感を帯びている。
イザナは車の速度をゆっくりと落とし、夜の静寂を切り裂くかのような低い声で核心に触れてきた。
「お前は優秀だ。国がなぜお前のような駒を手放したがらないか、よく理解できる」
ノアは瞬間的に体を硬直させた。
胸の奥で、知らぬ間に高鳴っていた鼓動が跳ね上がる。
「どういう意味でしょうか、ボス」
声は震えていないつもりだったが、掌の微かな汗がそれを裏切っていた。
「そのままの意味だよ。お前が何者であるか、何のためにここにいるか……俺は全て知っている」
ノアの視界の端で、夜の闇が突然、重く押し潰すように圧迫してきた。
全身の血の気が引き、心臓が一瞬止まるような錯覚に陥る。
呼吸は自分の意思とは裏腹に浅くなり、車内の温かさも、イザナの圧倒的な存在感の前では、氷点下の冷気に変わったかのようだった。
背筋に走る戦慄と、逃げ場のなさ。
ノアは理解した——目の前の男がただの上司ではなく、全てを知り尽くし、支配する存在であることを。
しかし、イザナは次の瞬間、支配者から一転し、どこか哀愁を帯びた低い声で続けた。
「そして、お前がノアであることも知っている。あの教会の薄暗がりで誓いを立てた、俺の唯一の生きる意味だ」
その一言は、ノアの硬く閉ざした理性の壁に、かすかな振動を伝えた。
胸の奥で、忘れかけていた記憶の断片が氷のように硬かった心を溶かすかのように、微かに疼く。
「……次だ。お前の新しい任務」
イザナは無言でカーナビの画面を操作する。
そこに映し出された座標は、組織のデータベースにも存在しない、謎めいた場所だった。
ノアの目が瞬時に鋭くなる。ここから先に、どんな危険が潜んでいるのか——
「お前には、ECLIPSEの非合法な資金ルートの監査を任せる。これはお前がスパイとして求めている情報に最も近い場所だ。存分に探せ。そして、俺に報告しろ」
言葉には、甘く塗された毒の香りが含まれていた。
任務という名の餌。
ノアの心に忍び込む、抗えぬ誘惑。
理性は警告するが、身体はすでにその罠に触れていることを知っていた。
「ただし、この任務は俺とお前だけの秘密。そして、お前がどこで何をしようと、俺だけがお前の命を保証する」
イザナの口元に浮かぶ深い闇の笑みは、温かさと冷たさ、甘美と恐怖が交錯する。
ノアはシートに深く沈み込みながら、静かに、しかし鮮明に理解した。
この車内こそ、イザナという名の檻の最も安全で、そして最も危険な場所なのだ、と。
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