第9話 雪洞荘の冥香、隠れた手紙

嵯峨野の山道は夜露で濡れ、月光が石畳を銀色に染めていた。薫子は源清和(みなもとのきよかず)に続き、袖に陵子の京染の布を握り締めながら歩く。清和の狩衣は黒地に星の紋様が刺繍され、阴阳寮長官特有の「鎮魂符」を腰に佩いている——その香りは「松の清冽な香り」に混ざり、決して敵意のないことが薫子の「気香」で確かめられた。


「雪洞荘は、皇后の祖父が築いた隠れ家です」清和が途中で話しかけた。「阴阳寮の記録によると、屋敷の地下には『冥香』を蓄えた密室があります。その香は、接触するだけで意識を失わせる。皇后は、これを最後の手に留めていたはずです」


「冥香……」薫子は祖父の《和香秘録》を思い出した。「『死の香』とも呼ばれ、草木の腐敗物を長年漬け込んで作る毒香ですね?」


「正是」清和は星を仰ぎ、「今夜の月は『仄月』で、陰気が強い。冥香の効果も増すので、気をつけてください」


雪洞荘の門は朽ちかけており、扉の隙間から「湿った木の香り」が漏れてくる。薫子は京染の布を取り出すと、布はすぐに薄い黒色に変わった——冥香の気配がある!


「屋敷の中に、皇后の侍女が三人残っています」清和は指で唇に当て、「彼女たちは冥香の香炉を持って警戒している。私が符咒で彼女たちの視界を遮り、薫子さんは気香で香炉の位置を見つけてください」


薫子は頷き、清和が袖から「隠形符」を撒くと、屋敷内から驚きの叫び声が聞こえた。彼女は隙間から入り、暗い和室の中を進む。障子の後ろから「金属の冷たい香り」がする——香炉の位置だ!


「誰かいますか!」侍女の声がした。薫子は即座に「守心香」の粉を撒き、冥香の毒を中和させた。侍女が障子を開けた瞬間、薫子は香炉を奪い取り、「冥香を使うのは止めなさい!皇后は既に内里で捕まりました!」と叫んだ。


侍女たちは顔を青ざめ、香炉を落とした。薫子の香りを嗅ぐと、「恐怖と無力感」が満ちている——彼女たちも皇后に脅されていたのだ。


「澄子さんの弟はどこにいますか?」薫子は問いただした。


侍女の一人が指を地下に差した。「……密室の鎖の後ろに閉じ込めています。鍵は皇后が持っていました……」


清和がその時に入ってきた。「鎖は私が開けます」彼は腰の「開運符」を鎖に貼ると、金属がガチャリと音を立てて開いた。密室の中には、十代の少年が結ばれて座っていた——澄子の弟、橘の健太(たちばなのけんた)だ。


「お姉ちゃん……」健太は涙をこぼし、薫子に抱きついた。その香りは「長期の恐怖で薄っすらした香り」だが、救われた安心感が徐々に戻ってきた。


密室の隅に、古い漆の箱が置かれていた。薫子は箱を開けると、黄色い紙の手紙が積まれていた。最も上の手紙には「橘氏と平氏の外戚が、来春に帝を廃して新帝を擁立する」と書かれている——皇后は、単なる後宮の権争いではなく、政変を計画していたのだ!


「これは重大な事態です」清和が手紙を読み、顔を厳しくした。「皇后の背後には、平氏の大納言がいる。彼らは、帝の健康が悪化していることを知り、機を伺っていたのだ」


薫子は手紙を胸に収めた。「これを帝に報告しなければなりません。平氏の陰謀を防がなければ、内里全体が危険です」


雪洞荘を出る時、東空が白み始めていた。健太は清和に手を引き、「お兄さんの星の絵、すごいです!」と囁いた。清和は微笑んで、袖から小さな星図を取り出して渡した。「これで、夜道でも怖くないよ」


薫子はその光景を見て、清和の香りに「優しさの温かい香り」を感じた。帝の弟として権力を持ちながら、庶民のような心を持っている——この男性は、今後の宮廷での重要な盟友になれるかもしれない。


内里に戻ると、明姬と陵子が桐の間で待っていた。健太を澄子に引き渡すと、澄子は感激して跪き、「薫子さまの恩は一生忘れません!」と泣いた。


「皇后はどうなりましたか?」薫子は明姬に問うた。


「御殿に閉じ込められていますが、平氏の大納言が『皇后は無実だ』と主張し、太皇太后に訴えています」明姬は眉をしかめた。「また、昨夜、帝の体調が悪化したと聞きました。内薬司の温香雅さんが、今も侍医として付き添っています」


薫子の心が一緒に締め付けられた。帝の体調悪化——これは平氏の陰謀の一環か?彼女は即座に内薬司に向かった。


内薬司の一室で、帝玄凌が寝床に横たわり、温香雅が脈を診ていた。帝の顔は青白く、呼吸が浅い——その香りを嗅ぐと、「慢性の毒の淡い香り」がする!これは、皇后が長期的に帝の薬に混ぜた毒だ!


「温香雅さん、帝の香りに異常があります!」薫子は慌てて言った。「慢性の毒が混ざっています。皇后が仕掛けたものです!」


温香雅は頷き、「確かに。帝の薬の中に『緑の露』が検出されました。少量ずつ摂ると、徐々に体力を奪う毒です。解ける antidoteはありますが、調合に三日間かかります……」


その時、侍が慌てて入ってきた。「薫子さま!平氏の大納言が、『帝の毒は薫子さまが仕掛けた』と主張し、御花園での評議会に呼び出しています!」


薫子の背筋が凍った。平氏が、彼女を帝の毒殺の犯人に仕立て上げようとしている!皇后の閉じ込め、帝の毒、平氏の反撃——これらは全て、事前に計画された陰謀だったのだ。


「薫子さん、どうしますか?」温香雅は心配そうに問うた。


薫子は手に皇后の手紙を握り締めた。「評議会に行きます。平氏の陰謀を暴き、帝の毒の真犯人を示します」


彼女は廊下に出ると、遠くから清和の姿が見えた。清和は星の紋様の狩衣を着て、優しい眼差しで薫子を見つめた。「評議会は危険です。私が同行します。阴阳寮の証拠で、平氏の虚偽を暴きましょう」


薫子は清和に感謝の微笑みを送った。だが、心の中では不安が広がっていた——平氏の大納言は、評議会でどんな罠を仕掛けてくるのだろう?帝の antidoteが調合されるまでの三日間、彼女はどうやって生き残れるのだろう?


御花園の方向から、貴族たちの騒ぎ声が漏れてきた。評議会の鐘が、内裏の空に悲しげに鳴り響いた。

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