第8話 宵の影と白檀の約束
庭の竹の笹が夜風に揺れ、黒い影がゆっくりと薫子の窓辺に近づいてきた。薫子は手の中に白檀の粉を握り締め、匣から細い銅のスプーンを取り出し——もし幻香が再び漂えば、即座に中和させる準備ができていた。影の足音は静かで、女性の柔らかい布音が漏れるだけで、敵意よりも「悲しみの重さ」が香りと共に伝わってくる。
「誰ですか?」薫子は低く声をかけた。「幻香を撒いたのは你ですね。なぜ?」
影がゆっくりと兜を取り外すと、黒い髪が肩に垂れた。月光が顔を照らすと、細い眉と憂い深い眼が見えた——彼女は皇后橘姬の侍女装束を着ているが、襟元から漏れる「クスの根の淡い香り」は、長期的に精神を制御されている証だ。
「薫子さま……」女性は跪き、声を震わせて言った。「皇后様の命令で、幻香を撒かされました。だが、私は薫子さまを傷つけたくないのです……」
薫子は窓を少し開け、女性の香りを深く嗅いだ。「罪悪感と無力感の香りがする。你は皇后に脅されているのだろう?」
「私の名前は橘の澄子(たちばなのすみこ)です」女性は頭を下げた。「皇后様は、私の弟を人質に取っています。『薫子さまに幻香を撒かなければ、弟を殺す』と言いました……だが、薫子さまが明姬さまを救ったことを聞き、心が揺れました。你は無実の人を陥れないのです」
澄子の香りに、「真実の涙の香り」が混ざっている。薫子は窓から手を伸ばし、澄子の肩に触れた。「皇后は次に何をするつもりですか?幻香で私を陥れるだけで終わらないでしょう?」
澄子は小さく頷き、袖から折り紙を取り出した。「三日後、『せせらぎの宴』があります。皇后様は、その宴で薫子さまに『先帝の遺物を盗んだ』と告発する計画です。宴の香炉に『雪洞の香』を混ぜ、その香りで薫子さまに幻覚を起こさせ、自白させようとしています」
「雪洞の香?」薫子は眉を寄せた。祖父の《和香秘録》に、「淡い白い香りで、人の記憶を混乱させ、他人の指示に従いやすくする」と記されていた。この香りと毒を混ぜれば、完全に精神を支配できる。
「皇后様は、内薬司の裏切り者から『雪洞の香』を入手しました」澄子は声をさらに小さくした。「また、華子さまも宴で協力する約束をしています。彼女は『薫子さまを倒せば、後宮の権力を分け合う』と皇后と契約しました」
薫子は折り紙を手に取り、澄子の手を握った。「澄子さん、谢谢你が危険を冒して話してくれた。你的弟はどこにいますか?私が救ってあげられるかもしれません」
「皇后の隠れ家、嵯峨野の『雪洞荘』に囚われています……」澄子は涙をこぼした。「薫子さま、自分ではどうしようもないのです。你だけが、皇后の悪事を止められると思います……」
その夜、薫子は明姬と温香雅を桐の間に呼び寄せた。澄子の話と折り紙を示すと、明姬の顔が険しくなった。「皇后と華子が手を組む?せせらぎの宴は先帝の忌の宴で、多くの貴族が出席する。そこで告発されれば、薫子さまは永遠に回復できない……」
「雪洞の香は、中和する方法があります」温香雅は薬箱を開け、白い香草を取り出した。「これは『醒め草』で、雪洞の香の効果を打ち消す。ただ、この草は希少で、内薬司にも少量しかありません。せせらぎの宴までに、調合できるのは薫子さま一人分だけです」
「それで十分です」薫子は醒め草を受け取った。「宴では、皇后が雪洞の香を焚くはず。私は醒め草を香り袋に入れて持ち歩き、幻覚を防ぐ。また、澄子さんの弟を救うために、宴の後に雪洞荘に行かなければなりません」
陵子が翌朝、京染の布を持って訪れた。「薫子さま、この布は『毒香に敏感』な染料で染めました。雪洞の香が近づくと、布の色が淡い青に変わります。せせらぎの宴で、これを持っていけば、香りの異常を早く気づけます」
薫子は布を手に取り、感謝の言葉を述べた。陵子の香りに、「自信と決意」が満ちている——もう当初の卑屈な少女ではなく、確かに盟友になっていた。
せせらぎの宴の前日、薫子は《和香秘録》の最後の章を読んだ。「香りは武器でも、救いの手でもなる。心が清ければ、どんな毒香も打ち負せる」と書かれていた。彼女は醒め草を香り袋に入れ、八重桜の簪をしっかりと差し直した。
夕暮れ時、澄子が密かに桐の間に戻ってきた。「薫子さま、皇后様が雪洞の香を香炉に混べる場所を確認しました。宴の東の炉です。また、華子さまは『先帝の玉簪』を盗んで、薫子さまの居室に隠す計画です……」
「玉簪?」薫子は思い出した。先帝の遺物で、皇后が保管していると聞いていた。「それで、『盗んだ』と告発するのだろう。確かに、それなら罪は重い……」
「私が玉簪を取り替えます」澄子は小さく玉を取り出した。「これは皇后の置物の玉で、先帝の玉簪によく似ています。薫子さまの居室に隠しておけば、偽物が見つかるだけです」
薫子は澄子の手を握った。「澄子さん、谢谢你。これで、皇后の二つの計画を崩せます。雪洞荘の弟も、必ず救います」
宴の日の朝、薫子は十二単の淡い青の着物を着、陵子の京染の布を袖に隠した。明姬が珍珠の手鏡を渡し、「宴の中でも、周りの香りを逃さないで。私は貴族たちの反応を見張っています」と囁いた。
御花園の宴場に着くと、先帝の肖像が掲げられ、香炉が四隅に置かれていた。皇后橘姬が上段に座り、華子がその傍らに立ち、両者の香りが「計画の濃い香り」で混ざっている——戦いの準備が万全だ。
帝玄凌が入場すると、宴が始まった。侍女が香炉に香を入れる瞬間、薫子の袖の京染の布が淡い青に変わった——雪洞の香が焚かれた!彼女は即座に醒め草の香り袋を鼻に近づけ、幻覚を防いだ。
その時、華子が大声で叫んだ。「陛下!薫子さまが先帝の玉簪を盗んでいます!居室で見つけました!」
皇后が小さく笑った。「薫子さん、先帝の遺物を盗むとは……藤原の名を汚しましたね。これで、罪は明白です」
薫子は静かに立ち上がり、「皇后様、華子さま。その玉簪は偽物です。澄子さんが取り替えてくれました」と言った。
澄子が慌てて入ってきた。「皇后様、私が玉簪を取り替えました!皇后様の悪事を止めたくて……」
皇后の顔が真っ赤になった。「澄子!你は裏切り者だ!」
華子が侍を呼ぼうとすると、温香雅が薬箱を開けた。「陛下、香炉の雪洞の香を調べました。毒が混ざっています!皇后様と華子さまが、薫子さまに幻覚を起こさせて自白させようとした証です!」
帝の顔が険しくなった。「皇后、華子。你たちは朕を欺くつもりだったのか?」
皇后と華子が跪き、弁解をし始めたが、証拠は明白だ。薫子は帝に一礼をして言った。「陛下、澄子さんの弟が皇后の雪洞荘に囚われています。救いに行かせていただきます」
帝は頷き、侍に命令した。「雪洞荘に行き、澄子の弟を救え。また、皇后と華子は、各自の御殿に閉じ込める!」
薫子が雪洞荘に向かう途中、兜を着た男性の影が道端に立っているのを見た。影の香りを嗅ぐと、「松の清い香り」がする——これは、まだ見たことのない男性の香りだ。男性がゆっくりと兜を外すと、優しい眼差しと髪の間に銀の簪を差した姿が現れた。
「藤原薫子さまですか?」男性は微笑んで言った。「源の清和(みなもとのきよかず)です。皇后の悪事を聞き、手伝いに来ました。ただ、雪洞荘には、皇后の最後の罠が待っています……」
薫子の心が一瞬締め付けられた。源清和——この名前は、明姬が話した「帝の弟で、阴阳寮の長官」だった。彼が言う「最後の罠」とは?雪洞荘の中に、どんな危機が待っているのだろう?
夜風が薫子の髪を揺らし、八重桜の簪が月光にきらめいた。清和の優しい眼差しの中に、「警戒の淡い香り」が隠れている——この男性は、本当に手伝いに来たのか、それとも別の目的を持っているのだろう?
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