6-4. Rightness of Voting
生きるとは呼吸することではない。
行動することだ。
哲学者 ジャン=ジャック・ルソー
と、その時、独房の方からケイシーの名を呼ぶ声がした。振り返ると、誰かがこちらに向かって走ってくる。
「おーい、ケイシー」
「ん? あれはリトル・ジョン?」
共和国の行く先を決める最初の会議にいた、あの恰幅のいい男だ。重い体をどしどしと運んでいる。それにしても、なぜこの男は、刑務所のわずかな食事にもかかわらず、こうも太っていられるのだろう。多少体の大きかったフリンも、今や痩身なのに。太るのも才能、と言うが、やはりそうなのだろうか。
そんな些細な疑問はともかく、リトル・ジョンは息を切らしながらこちらに辿り着いた。ここまで必死な様子を見て、何か大変なことが起こったのかとケイシーは心の中で身構えた。
リトル・ジョンが息を整えて、ようやく口を開く。
「はあ、はあ。ん? ケイシーお前、なんで上裸なんだ?」
そんな言葉に、キャッチボールを止めてこちらを注視していた四人も気の抜ける思いがした。言われてみれば、シャツをボールにしているから、ケイシーはずっと上裸である。夏が終わる頃には上半身だけ黒焦げだろう。
「え、いや、野球のボールにさ」
「ふーん、まあいいか。はあ、それで、用件は共和国政府のことよ。はあ」
「共和国政府? こないだの名簿ならとっくに提出したはずだぜ。また俺に小間使いさせようってのか」
「いやあ、違う違う。これだ」
リトル・ジョンは、手汗に濡れた紙を見せた。
「えー、第一回共和国公職選挙……? なんだそりゃ」
見出しを読み上げたケイシーが首を傾げた。かといってリトル・ジョンは、それに答えるでもなく、「読めばわかる」と言わんばかりに紙を押し付けるだけだ。
「とにかく、しっかり伝えたからな。おいどんの仕事はこれで終わり。じゃあな」
その紙を厄介払いのように手渡すや否や、リトル・ジョンは踵を返した。あまりの性急さに、膝を壊さないか心配だ。大きい背中がみるみる小さくなっていく。この紙を他の連中にも配り歩いているらしい。労働ではなく仕事というからには、おそらく共和国の仕事なのだろう。ケイシーは名簿作り以来仕事を任されていないが、その間にも色々とことが運んでいるらしい。彼のせわしなさを見る限りでは、会議に呼ばれなくなったのは幸運だったかもしれない。
ケイシーと、ジョー、クーニー、フリン、四十二番の五人は、ケイシーの手元にあるその紙を覗き込んだ。
「うーん、なるほど」
「面白そうじゃないか」
クーニーとフリンが、鏡写しのように同じ仕草で顎を撫でながら、感想を漏らした。長く同じ組織でコンビを組んでいると、自然似てくるものなのか。
「なんて書いてあるんだよ」
文字を読めないジョーが、ケイシーの肩を叩いて講釈を急かす。四十二番も、急かしこそしないが、ケイシーの言葉を待っていた。
ケイシーはそれに応えるべく、息を吸った。
「読み上げるぞ。えー、『来るレイバーデイ、ノトリアス刑務所囚人共和国第一回公職選挙を行います。オズ所長によってこの監獄にもたらされた自由を記念する、晴れやかなイベントです。我々囚人の今後を占うことになりますので、皆さん奮ってご参加を。初代大統領を決めるのは君だ!』だとさ」
ケイシーは苦笑してしまった。自分が初代大統領との肩書を帯びていたことが、歴史から鮮やかに抹消されていたからだ。これから、ケイシーに対してその肩書は、不名誉なあだ名としてしか用いられなくなるのだろう。
そんな些末なことはさておき、本旨は簡単だ。ケイシーが参加していたのは、財政などの火急の問題を解決するための共和国暫定政府であった。それらがマシューのおかげでやりくりできた今、元の予定通りに選挙を行って、囚人たちの正式な代表を決めようというのである。アメリカ社会から爪弾きにされた犯罪者たちが、こうした民主主義的、自由主義的なやり方を希求するというのは、何とも皮肉な話にみえる。
「選挙……。そういえば、そのような話になりましたね」
四十二番が、「自由の実験」初日のあの食堂での騒ぎを思い起こして頷いた。
「お前、他人事みたいに言うけど、あの時俺にそう言わせたのはお前だぞ」
「そうでしたっけね……、はは」
ケイシーの突っ込みに、四十二番は不敵な笑みを返した。本当に忘れたということはあるまい。
「え? そうなのか、ケイシー」
「そうか、ジョーは知らないのか。俺があの時提案したあれやこれやは、全部四十二番の受け売りだ」
「なんでそんな自信満々に言うんだよ」
今度はフリンの突っ込みが入った。
思えば、あの場を収めたケイシーの提案、つまり、統一的なルール作りをするだとか何とかのことは、四十二番が考えていたことだった。そして、その初代大統領にケイシーを推したのは、他ならぬジョーだ。つまるところ、ケイシーはまさしく祭り上げられたのだった。それが良いとも悪いとも思うことはないのだが。
「それで、下の方には何と? 何かリストのようなものが」
四十二番が話を進めるように促した。
「ああ、これはあれだな。立候補者のリストだ」
「大統領にはあのマシューという男が立候補しているな。あと他にも何人か」
そう言ったクーニーとフリンは、ケイシーがマシューとやり合った様子を見てはいなかったが、それでもその噂は聞き及んでいた。
「だってよ、ドンマイ、ケイシー」
「別に俺は何とも思わねえよ。今更立候補するつもりもないし」
「あ、さっきのリトル・ジョンも立候補してるぜ。広報部だってよ」
フリンが指をさしたところに、確かにその名前がある。
「へえ、あいつ案外仕事好きなんだな」
「あー、俺、選挙とか初めてだなー。なんか楽しみだわ」
ジョーの言葉に、クーニー、フリン、ケイシーの三人は顔を見合わせた。
「俺たちも、まあ、初めてっちゃ初めてだ」
「そうだな。投票するのは初めてだ」
「俺たち、あれだから。……票の買収とかに携わってたことあって。タマニーホールのさ」
「ほお……、それは興味深いですね」
四十二番にそう反応されると、ケイシーは何か気恥ずかしくなった。冤罪で捕まった、真人間の四十二番に比べ、自分たちは罪を犯し過ぎている。
きまり悪そうに目を泳がせる三人を見かねて、ジョーが話頭を変えた。
「そんで、どうやって投票するんだ? 俺何にも知らなくて」
「普通は投票所に行って、専用の紙で投票する例が多いんだが……」
「ここの説明によると、今回はこのリストに〇をつけて提出するようだな。まあその方が、手っ取り早い」
「あ、ほんとだ。じゃあ人数分あるのかこれ」
ケイシーは、手に持った紙を数えた。
「ん? 四枚しかないぞ」
この場にいるのは、ケイシー、ジョー、クーニー、フリン、そして四十二番の五人。しかし、何度数え直しても、リトル・ジョンから受け取ったのは四枚だった。選挙公報ならともかく、投票用紙なら人数分なくては成立しない。
数秒も間があれば、皆、うすうす理由を察してしまった。
「……なるほど、私ですね。仕方がないですよ。私、ニガーですから」
四十二番は、また自分を卑下した。そうせざるを得ない生き方を、強いられてきたのだ。投票など、させてもらえたことすらなかっただろう。
誰も何も言いようがない。下手な励ましは意味がない。
そして、こんな仕打ちは許されないことだと思いつつも、ケイシーはもっと重大な事実に気が付いてしまった。自分自身を含め、この場にいる五人全員が、「投票用紙が割り当てられなかったのは、黒人である四十二番だ」という認識を疑いもしていないことだ。そう考える根拠はほとんどなく、せいぜい言えば経験則であった。
リトル・ジョンが紙を数え間違った可能性も十分にある。人種ではなく他の基準で、四十二番以外の誰かが割り当てられなかった可能性も捨てきれない。だが、アメリカ社会に身を浸してしまっている五人には、他の解は有り得なかった。その事実が、まさしく不均等を助長しているのではないだろうか、とケイシーは思い当たった。
こんな思考に埋もれて口を開かないケイシーの代わりに場をやり過ごしたのは、またもやジョーであった。
「ま、俺も字読めないから、結局投票できないしさ。今日のところは野球でもやろうぜ」
このいなし方が正解なのかは、誰にも分からない。だが、皆なんとなく頷いて、ボールとバットを手にした。
だが、ケイシーはこの問題を無視することはできなかった。何の罪も犯していない四十二番の尊厳が、「仕方がない」の一言で葬り去られていいはずがない。
「俺、クソ野郎どもに文句言ってくるわ。一人で行く。すぐ戻る」
ケイシーの気迫には、誰も付いてくることができなかった。
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