第16話 霧の魔獣と、愛の「魔力供給」

「……何も見えないわね」

ホテルを飛び出した僕たちは、乳白色の濃霧に包まれた湖畔に立っていた。

視界はゼロに近い。僕の【危険感知】だけが、周囲を取り囲む無数の敵意を捉えている。

「カイト、私の背中に捕まっていて。私が道を開くわ」

アリア様が、頼もしくも愛らしい背中を見せて、聖杖(ホテルの備品であるモップの柄で代用)を構える。

「い、いえ、僕が前に出ますよ! 盾くらいにはなります!」

「ダメよ。私の『守護騎士』に傷がついたら、私が泣くわ」

(過保護だ……!)

その時だった。

シュルルッ!

霧の向こうから、湿った音と共に「それ」は飛来した。

ホテルの部屋を襲ったのと同じ、黒くヌラヌラとした触手だ。だが、今度は太さが違う。大人の胴体ほどもある極太の触手が、四方八方からアリア様を狙って殺到する。

「——【聖光壁(ホーリー・シールド)】!」

アリア様が即座に結界を展開する。

キンッ! キンッ!

触手が光の壁に弾かれる。さすがはS級聖女、反応速度も魔力量も一流だ。

だが、相手が悪かった。

「……嘘、魔力が……吸われてる?」

アリア様が顔をしかめる。

結界に触れた触手が、そこからジュルジュルと音を立てて魔力を吸い上げているのだ。

【魔力吸収】の特性を持つ魔物。聖女のような高魔力の持ち主にとっては天敵だ。

「くっ……!」

結界が揺らぐ。その一瞬の隙を、魔物は見逃さなかった。

足元から、音もなく忍び寄っていた細い触手が、アリア様の足首に巻き付いた。

「きゃっ!?」

「アリア様!」

アリア様の身体が宙に吊り上げられる。

「や、離しなさい! ……んっ!?」

触手は、生き物のようにアリア様の身体を這い上がり、太もも、腰、そして胸元へと締め付けていく。

薄いキャミソールとスカートだけの姿のアリア様が、粘液に濡れた触手に絡め取られていく様は、あまりにも背徳的だった。

「くぅ……! カイト、逃げ……て……!」

アリア様が、魔力を吸われながらも気丈に叫ぶ。

「こいつの狙いは、私の魔力よ……! あなたが逃げる時間は、私が稼ぐから……!」

(……馬鹿な人だ)

自分は触手に縛られ、魔力を吸い尽くされそうになっているのに。

それでも、僕(無能な荷物持ち)を逃がそうとするなんて。

「……逃げるわけ、ないでしょう」

僕は、足元に転がっていた手頃な石ころを拾い上げた。

(対象、アリア様を拘束している触手の基部。距離15メートル)

(風向き、湿度、計算終了)

(【投擲(スローイング)】——S級。出力0.001%。指弾)

「うわぁぁぁ! アリア様を離せぇぇぇ!」

僕は、パニックになったフリをして、デタラメなフォームで石を投げつけた。

傍から見れば、恐怖に駆られた一般人が、ヤケクソで石を投げたようにしか見えない。

だが、その石は。

ヒュンッ!!

空気を切り裂く音すら置き去りにして、正確無比に触手の急所(神経節)を撃ち抜いた。

「ギィィィ!?」

霧の奥で、魔物の悲鳴が上がる。

拘束が緩み、アリア様の身体が空中に投げ出された。

「きゃあっ!」

「っと!」

僕は落下地点に滑り込み、アリア様を「お姫様抱っこ」で受け止めた。

「……カイト?」

アリア様が、僕の腕の中で目を瞬かせる。

「今、あなたが助けてくれたの……?」

「い、いえ! 僕はただ、無我夢中で石を投げたら、なんか偶然当たって……」

「……ふふ」

アリア様は、僕の首に腕を回し、熱っぽい瞳で見つめてきた。

「偶然、ね。……そういうことにしておくわ。私の『英雄』さん」

(バレてるのかバレてないのか、どっちなんだ!?)

「グルゥゥゥ……!」

霧が晴れ、湖面から巨大な影が姿を現した。

巨大なタコと植物が融合したような異形の怪物。

推定災害レベルA+。『ミスト・クラーケン』だ。

「あいつが本体……」

アリア様が僕の腕から降り、モップ(聖杖)を構え直す。

だが、足元がふらついている。

「くっ……魔力を吸われすぎたわ。あいつを浄化するだけの火力が……」

絶体絶命。

ここで僕がワンパンで倒すのは簡単だが、それでは全てが台無しになる。

アリア様に倒してもらうしかない。だが、魔力が足りない。

(……仕方ない)

「アリア様」

僕は、震える(フリをした)手で、アリア様の背中に手を添えた。

「僕に、何かできることはありませんか?」

「カイト……」

アリア様は、一瞬考え、そして決意したように僕の手を握り、自分の胸元——心臓の上へと導いた。

「えっ!? アリア様!?」

「魔力供給よ、カイト。私に触れて、私を『想って』」

アリア様が、切実な瞳で僕を見つめる。

「あなたの『想い』があれば、私の魔力は回復するはずよ(※医学的根拠はありません)」

(……なるほど。そういう解釈で来たか)

これは好都合だ。

「愛の力」という曖昧な名目で、僕の膨大な魔力をこっそり譲渡できる。

「わかりました。……いきますよ、アリア様」

「ええ……来て……!」

僕は、アリア様の胸に添えた手から、S級魔力を「微量」だけ流し込んだ。

微量といっても、一般の魔術師100人分くらいはある。

ドクンッ!!

「あぁっ……♡」

魔力が流入した瞬間、アリア様が甘い声を上げて海老反りになった。

「すご……熱い……! カイトの魔力が……私の中に入ってくる……♡」

(言い方! 戦闘中だから!)

「満たされる……! これなら、いけるわ!」

アリア様の全身が、黄金の光に包まれる。

僕のS級魔力によってブーストされた聖女の力は、もはや規格外の領域に達していた。

「醜い魔物よ! 私とカイトの『愛の巣(ホテル)』を邪魔した罪、万死を持って償いなさい!」

アリア様がモップを掲げる。

先端に集束するのは、B級魔法【聖光弾】……のはずが、僕の魔力のせいでS級戦略魔法【聖なる裁き(ジャッジメント)】に化けていた。

「——消えなさい!!」

ズドンッ!!!!!

極太のレーザーのような光が、ミスト・クラーケンを飲み込んだ。

断末魔を上げる暇もなく、巨大な怪物は細胞の一つ残らず蒸発し、光の粒子となって消滅した。

ついでに、湖の水が半分くらい蒸発し、濃霧が一瞬で晴れ渡った。

「……」

「……」

月明かりが戻った静寂の湖畔。

アリア様は、肩で息をしながら、満足げに微笑んだ。

「見た、カイト? これが私たちの『愛の力』よ」

(……うん、まあ、そういうことにしておこう)

アリア様は、力を使い果たしたのか、ふらりと僕の胸に倒れ込んできた。

「……ごめんなさい。少し、頑張りすぎちゃった……」

「お疲れ様です、アリア様」

僕は彼女を支え、優しく頭を撫でた。

結局、ホテルは半壊して泊まれそうにない。

野宿か、あるいは馬車か。

「ねえ、カイト」

アリア様が、僕の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。

「魔力を使い切って……身体が冷えちゃったわ」

「……そうですね」

「温めてくれる……?」

見上げれば、そこには魔物討伐の達成感と、吊り橋効果による興奮、そして尽きせぬ独占欲を瞳に宿した、艶めかしい聖女様の姿があった。

「今度こそ……邪魔は入らないわよね?」

僕たちは、半壊したホテルの、辛うじて無事だった離れのコテージへと足を向けた。

長い夜は、まだ終わらないようだった。


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