第3話 黄色い部屋の侵食 - 記憶の迷宮

ホテルの部屋で、私は父のノートを広げた。

蒼井のマンションから戻って、もう三時間。外はすっかり暗くなっている。

父のノートには、五年分の測量記録が詰まっている。しかし私が探しているのは、特定の依頼だ。

ページを繰る。

そして、見つけた。

「向井陽子、黄色い部屋、危険度:高」

危険度という言葉に、赤い下線が引かれている。

倉持の赤い部屋には、そんな記述はなかった。蒼井の青い部屋にも。

なぜ、向井の部屋だけが「危険度:高」なのか。

私は向井陽子の連絡先を調べた。父のノートには、電話番号が記されている。

ダイヤルする。

呼び出し音が鳴り続ける。

しかし、応答はない。

留守番電話にも繋がらない。

私は検索エンジンに、向井陽子の名前を入力した。

いくつかのSNSアカウントがヒットする。Facebook、Twitter、そしてブログ。

ブログのタイトルは「黄色い部屋の記憶」。

私はブログを開いた。

最初の投稿は、一年前だった。

2024年6月15日


幼い頃、私は黄色い部屋に住んでいた。


壁紙が黄色。カーテンも黄色。

ベッドカバーも黄色。


母が選んだ色だった。

「陽子には、明るい色が似合う」と言って。


あの部屋で、私は育った。

絵本を読み、人形と遊び、窓の外を眺めた。


今でも、あの部屋を夢に見る。

鮮明に。


黄色い光に包まれた、安らかな部屋を。

```


私は次の投稿を読んだ。

```

2024年7月3日


測量士の方に、あの部屋を測ってもらった。


岡田健一さんという方。

丁寧で、真面目な方だった。


私の記憶を元に、部屋の寸法を出してくれた。


3.2メートル×3.2メートル

天井高2.3メートル


子供部屋として、ちょうど良い大きさだった。


測ってもらって、安心した。

あの部屋は、確かに存在したんだと証明された気がした。

```


私は息を呑んだ。


父が、向井の部屋を測っていた。


記録の通りだ。


私は次の投稿に進んだ。

```

2024年7月10日


おかしなことが起き始めた。


部屋の隅が、黄色く見える。


最初は照明のせいだと思った。

でも、昼間でも黄色い。


壁紙は白いはずなのに。

```


私の心臓が、早鐘を打ち始めた。

```

2024年7月20日


黄色が広がっている。


壁の隅だけでなく、天井も。

床も。


部屋全体が、黄色く染まり始めている。


あの部屋の、黄色に。

```

```

2024年8月5日


自分の影が、黄色い。


窓の外の光で壁に映る影が、

普通の黒ではなく、黄色い。


これは何かの病気なのか。

目の病気なのか。


眼科に行ったが、異常なしと言われた。

```


私は投稿を次々と読んでいった。


向井の日記は、日を追うごとに混乱していく。

```

2024年9月1日


夢を見る。


幼い頃の自分が、黄色い部屋にいる。

窓の外には庭がある。

ブランコがある。


父と母が、廊下で話している。

優しい声。


目が覚めると、涙が出ている。


あの部屋に、戻りたい。

```

```

2024年10月15日


会社を辞めた。


周りの人が、黄色く見える。

電車も、ビルも、空も。


全てが、あの部屋の黄色に染まっている。


もう、普通の生活は無理だ。

```

```

2024年11月3日


実家に帰った。


でも、あの家はもうない。

十五年前に建て替えられた。


黄色い部屋は、消えた。


でも、私の中にはある。

鮮明に。


部屋が、私を呼んでいる。

```


そして、最後の投稿。


三ヶ月前。

```

2025年1月20日


もう私は私ではない。


幼い頃の部屋が、私を呼んでいる。

黄色い壁紙の部屋。


お父さんとお母さんがいる部屋。

あの部屋に帰れば、全てが元に戻る。


私は子供に戻る。

何も知らない、幸せな子供に。


さようなら。


もう、ここには戻りません。

それが、最後だった。

私はブログを閉じた。

手が震えている。

向井は、消えた。

倉持のように。蒼井のように。

黄色い部屋に、飲み込まれて。

私は立ち上がった。

向井の実家に行かなければ。

ブログには住所が書かれていないが、父のノートには記されている。

私は鞄を掴み、ホテルを出た。

向井の実家は、都内の住宅街にあった。

駅から徒歩十五分。静かな、古い街並み。

住所を頼りに歩いていくと、目的の場所に着いた。

しかし、そこには新しい家が建っていた。

モダンな、白い外壁の二階建て。

黄色い部屋があった家ではない。

私は近所の人に声をかけた。

「すみません、この辺りに向井さんという方のお宅があったと思うんですが」

「向井さん? ああ、十五年前まではここに住んでいましたよ」七十代くらいの女性が答えた。「でも家を建て替えて、今は別の方が住んでいます」

「向井陽子さんという方を、ご存知ですか」

「陽子ちゃん? ええ、知っています。向井さんの娘さんです。でも、もう何年も見ていませんね。どこか別の場所に住んでいるんじゃないでしょうか」

「ありがとうございます」

私は女性に礼を言い、その場を離れた。

やはり、家は建て替えられている。

黄色い部屋は、もう存在しない。

私は通りを歩いた。

しかし、数十メートル進んだところで、私は立ち止まった。

違和感。

空間の感覚が、ずれている。

私は振り返った。

そして、息を呑んだ。

さっきまで新しい家があった場所に、古い家が建っていた。

木造の、二階建て。

黄色い外壁。

いや、黄色いのは外壁だけではない。

窓も、屋根も、門も。

全てが、黄色い。

鮮やかな、ひまわりのような黄色。

私は近所の女性がいた場所を見た。

しかし、彼女の姿はない。

通りに、人の気配がない。

私は黄色い家に近づいた。

門は開いている。

庭には、古いブランコがある。錆びて、黄色く染まっている。

玄関のドアも、黄色い。

私はドアノブに手をかけた。

開く。

「ごめんください」

声をかけながら、中に入る。

玄関は薄暗かった。しかし、壁が微かに光を放っている。

黄色い光。

壁紙が、発光しているかのように。

私は靴を脱ぎ、廊下に上がった。

床も黄色い。天井も黄色い。

全てが、濃密な黄色に包まれている。

廊下を進む。

奥に、部屋がある。

ドアが半開きになっている。

私はドアを押し開けた。

そして、息を呑んだ。

部屋の中に、少女がいた。

七歳くらい。黄色いワンピースを着て、床に座っている。

人形を抱いている。

少女は私を見上げた。

「誰?」

私は言葉が出なかった。

この少女は、向井陽子だ。

幼い頃の、向井陽子。

「あの、向井さん?」

「うん、陽子だよ」少女は微笑んだ。「お姉ちゃん、誰?」

私は部屋に入った。

部屋は、3.2メートル四方。天井は低く、2.3メートルほど。

父が測った寸法と、同じだ。

壁紙は黄色。カーテンも黄色。ベッドも黄色。

ブログに書かれていた通りの部屋。

「陽子ちゃん、あなたのお父さんとお母さんは?」

「下にいるよ」少女は人形を撫でた。「お母さんは料理してる。お父さんは新聞読んでる」

私は廊下を見た。

確かに、下の階から物音が聞こえる。

食器の音。水の音。

そして、人の声。

「陽子、もうすぐご飯よ」

女性の声だった。

優しい、温かい声。

私は少女を見た。

「陽子ちゃん、ここにずっといるの?」

「うん」少女は頷いた。「ここは私の部屋。ずっとここにいたかった。お父さんもお母さんもいる。ここは安全」

私は膝をついた。

「でも、あなたは大人でしょう? もう三十歳を超えているはず」

少女は首を傾げた。

「何言ってるの? 私、七歳だよ」

私は立ち上がった。

向井は、子供に戻っている。

いや、戻っているのではない。

記憶の中の自分に、置き換わっている。

幸せだった頃の自分に。

私は部屋を見回した。

壁に、写真が飾られている。

家族写真だ。

父、母、そして幼い向井。

三人とも、微笑んでいる。

私は写真に近づいた。

しかし、近づいた瞬間、私は気づいた。

写真の中の家族の目が、黄色く光っている。

瞳が、全て黄色。

そして、写真から、かすかに笑い声が聞こえる。

私は息を呑んだ。

写真に手を伸ばす。

触れる。

写真が、温かい。

紙ではない。

何か、別のものだ。

脈打っている。

私は手を引こうとした。

しかし、写真が私の指を掴んだ。

いや、写真ではない。

写真の中の母親が、私の指を掴んでいる。

写真の中から、手が伸びている。

「来なさい」母親の声が聞こえた。「あなたも、ここにいなさい」

私は力いっぱい手を引いた。

指が、写真から離れる。

私は後退した。

心臓が、激しく打っている。

「お姉ちゃん、どうしたの?」少女が不思議そうに私を見ている。

私は少女を見た。

「陽子ちゃん、ここから出よう。一緒に」

「どうして? ここがいいよ。お父さんもお母さんもいるもん」

その時、下の階から声が聞こえた。

男性の声。

「陽子、ご飯だぞ」

そして、階段を上がってくる足音。

私は身構えた。

ドアが開く。

現れたのは、中年の男性だった。

スーツを着て、眼鏡をかけている。

普通の、父親の姿。

しかし、その目が黄色く光っている。

「あなたは誰ですか」男性が私に尋ねた。声は穏やかだが、目は私を射抜いている。

「私は、岡田冴と言います。測量士の」

「測量士?」男性は眉をひそめた。「岡田……ああ、岡田健一さんの」

私は息を呑んだ。

「父を、知っているんですか」

「ええ」男性は頷いた。「五年前、この部屋を測ってくださった。そして、警告してくれた。『この部屋のことを忘れてください』と。でも、娘は忘れられなかった」

男性は少女を見た。

「陽子は、この部屋に戻りたがった。幸せだった頃の部屋に。だから、戻ってきた。私たちも一緒に」

「あなたたちは、本物ですか」

男性は微笑んだ。

「本物とは? 私たちは、陽子の記憶です。陽子が愛した父と母。陽子が求めた家族。だから、ここにいる」

私は後退した。

この家全体が、向井の記憶で構築されている。

父も母も、向井の願望が作り出した幻影。

そして、向井自身も、幻影の一部になっている。

「お父様は、今どこにいるかご存知ですか」私は尋ねた。

男性は廊下を指差した。

「奥の部屋です。お待ちになっている」

私は廊下を見た。

奥に、もう一つドアがある。

そのドアの隙間から、微かに赤い光が漏れている。

いや、赤だけではない。

青い光も。

そして、その奥に、何か別の色が。

私は男性に頭を下げ、廊下を進んだ。

少女が後ろから声をかけた。

「お姉ちゃん、また来てね」

私は振り返らずに、奥のドアに向かった。

ドアノブに手をかける。

開く。

部屋の中は、暗かった。

しかし、壁が光を放っている。

赤、青、黄色。

三色の光が、渦巻いている。

そして、部屋の中央に、人の影がある。

「父さん?」

私は部屋に入った。

影が動いた。

振り返る。

私は息を呑んだ。

それは、父ではなかった。

いや、父なのかもしれない。

しかし、父の姿は歪んでいた。

身体の輪郭が、複数の色に分裂している。

赤い部分、青い部分、黄色い部分。

それらが、重なり合い、混ざり合い、人の形を保っている。

「冴」

父の声だった。

しかし、複数の声が重なっている。

「来てしまったのか」

「父さん、あなたは——」

「もう、完全な人間ではない」父は言った。「私は、複数の部屋の交点になった。赤い部屋、青い部屋、黄色い部屋。全てが、私を通じて繋がっている」

私は近づこうとした。

しかし、父は手を上げて制した。

「近づくな。引きずり込まれる」

「どうして、こんなことに」

「私が測ったからだ」父は自分の身体を見下ろした。「人々の失った居場所を測った。その渇望が、部屋を実体化させた。そして私は、その触媒になった」

「どうすれば、止められるんですか」

「止められない」父は首を振った。「もう遅い。三原色が揃った。赤、青、黄色。次は、黒が来る」

「黒い部屋?」

「全ての色が混ざった部屋。あるいは、全ての色が消えた部屋。そこに辿り着いたら、もう戻れない」

私は唇を噛んだ。

「でも、手紙に書いていましたよね。『自分を測れ』と」

「ああ」父は頷いた。「それが唯一の方法だ。自分という存在の空間的寸法を確定させる。そうすれば、他の部屋に侵食されない」

「どうやって?」

「お前自身を、原点にする」父は私を見た。その目は、三色に光っている。「お前がいる場所を、座標系の中心にする。そこから全ての空間を測り直す。そうすれば、お前という存在が、空間の基準になる」

私は測距儀を取り出した。

「今、やります」

「待て」父は言った。「まだ、準備ができていない。黄色い部屋が、お前を狙っている。この家から出ろ。そして——」

父の声が、途切れた。

身体が揺らいでいる。

「父さん!」

「行け、冴」父は叫んだ。「黒い部屋が、もうすぐ開く。その前に、自分を測れ。さもないと、お前も——」

父の姿が、光の中に消えた。

私は手を伸ばした。

しかし、掴めない。

「父さん!」

部屋が、揺れ始めた。

壁が波打ち、床が傾く。

私は部屋を飛び出した。

廊下を走る。

しかし、廊下が伸びている。

どんなに走っても、玄関に辿り着かない。

私は立ち止まった。

測距儀を取り出す。

玄関までの距離を測る。

50メートル。

おかしい。さっきは10メートルほどだったはずだ。

空間が、歪んでいる。

私は深呼吸した。

落ち着け。

父の言葉を思い出せ。

「自分を原点にする」

私は目を閉じた。

そして、測距儀を自分に向けた。

自分の身体を測る。

身長158センチ。

腕の長さ、脚の長さ。

しかし、それだけでは足りない。

私は意識を集中させた。

自分という存在。

自分がいる、この場所。

ここを、原点とする。

全ての空間は、ここからの距離で定義される。

私は目を開けた。

そして、玄関に向けて測距儀を構えた。

10メートル。

距離が、戻った。

私は走り出した。

玄関に到達する。

ドアを開ける。

外に出た瞬間、私は振り返った。

黄色い家が、消えていた。

いや、消えたのではない。

透明になっている。

輪郭だけが、微かに見える。

そして、家の中から、少女の声が聞こえた。

「お姉ちゃん、また来てね」

私は走り出した。

通りを抜け、駅に向かう。

しかし、周囲の景色が黄色く染まっている。

空も、建物も、人々も。

全てが、黄色い霧に包まれている。

私は立ち止まった。

測距儀を取り出す。

周囲の建物を測る。

数値は正常だ。

しかし、色が黄色い。

私は自分の手を見た。

手が、微かに黄色く染まっている。

いや、染まっているのではない。

黄色い光が、私の皮膚の下から滲み出ている。

私も、侵食され始めている。

私は公園のベンチに座り込んだ。

測距儀を握りしめる。

自分を測る。

しかし、どうやって。

身体の寸法だけでは足りない。

父が言っていた。

「空間的寸法」

それは、肉体の寸法ではない。

存在の、寸法。

私は目を閉じた。

そして、自分の記憶を辿る。

幼少期の家。学校。大学。就職。測量の現場。

全ての空間が、私の中にある。

それらの空間の総体が、私という存在の広がり。

しかし、それだけでは足りない。

私は父を思い出した。

父との思い出。

父がいた空間。

父が測った空間。

それらも、私の一部だ。

私は、父との関係性の中で存在している。

その関係性も、空間的寸法の一部だ。

私は目を開けた。

そして、測距儀を構えた。

自分を中心に、全方向を測る。

北、南、東、西。

上、下。

そして、過去、未来。

時間も、空間の一部だ。

私は、時空の中に存在している。

数値が、頭の中に流れ込んでくる。

無数の数値。

それらが、私という存在を定義している。

私は立ち上がった。

周囲の黄色い霧が、薄れていく。

いや、薄れているのではない。

私の認識が、変わった。

黄色い霧は、まだそこにある。

しかし、私はその中にいながら、飲み込まれていない。

私は、自分という空間を確定させた。

黄色い部屋とは、別の空間として。

私は歩き出した。

ホテルに戻らなければ。

そして、次に備えなければ。

父が言っていた。

「黒い部屋が、もうすぐ開く」

全ての色が混ざった部屋。

あるいは、全ての色が消えた部屋。

それが、最後の試練だ。

私は夜空を見上げた。

星が、いつもより近く見える。

いや、近いのではない。

私の空間認識が、変わったのだ。

私は今、空間の仲介者になりつつある。

人間と、部屋の、境界に。

それが、測量士の運命なのか。

私は歩き続けた。

そして、心の中で呟いた。

「待っていてください、父さん」

「必ず、助けます」

たとえ、私が完全な人間でなくなったとしても。

(第三話 了)

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