第4話 白い測量士 - 自己測定の儀式

向井の家から逃げ出して、私は七日間、街を彷徨った。

ホテルにも戻れなかった。自宅のアパートにも戻れない。どこに行っても、色が追いかけてくる。

赤い影。青い空気。黄色い光。

それらが、私の周囲に纏わりついている。

私は公園のベンチで夜を明かし、公衆トイレで身体を拭き、コンビニで食料を買った。測距儀とノートだけを持ち歩き、通りすがりの空間を測り続けた。

測ることだけが、私を正気に繋ぎ止めていた。

八日目の朝、駅前の広場で、私は一人の老女に声をかけられた。

「あなた、測量士さんですね」

私は振り返った。

老女は白い服を着ていた。白いブラウス、白いスカート、白い靴。髪も白く、肌も透けるように白い。

まるで、色を持たない存在のように見えた。

「どうして、わかるんですか」

「その道具」老女は私の手にある測距儀を指差した。「空間を測る人の手つきは、独特です。私もかつて、測量士でしたから」

私は警戒した。しかし、老女の目には敵意がなかった。むしろ、深い悲しみが宿っているように見えた。

「お名前は?」

「白川です。白川雪」老女は微笑んだ。「もう、本名かどうかもわかりませんが」

「白川さん、あなたも、部屋に侵食されているんですか」

「侵食?」白川は首を傾げた。「いいえ。私は、部屋そのものになりました」

私は息を呑んだ。

白川は広場のベンチに歩いていった。私もその隣に座る。

「十五年前、私はある依頼を受けました」白川は遠くを見ながら語り始めた。「戦前に建てられた洋館の測量です。依頼主は、その洋館で生まれ育った老婦人でした。洋館はとっくに取り壊されていましたが、彼女は建物の正確な図面を作りたいと言いました」

白川の声が、静かに響く。

「私は几帳面でしたから、完璧な仕事をしました。玄関ホール、居間、寝室、書斎、子供部屋。全ての部屋を、彼女の記憶から再構築し、測量しました。図面は美しく完成しました。老婦人は泣いて喜びました」

「それで?」

「その夜からです」白川は自分の手を見た。「私の自宅が、洋館の部屋に置き換わり始めたのは。最初は寝室でした。朝起きると、壁紙が変わっていました。洋館の寝室の、薔薇の壁紙に。次の日は、床がタイルに変わりました。一週間で、私の家は洋館になりました」

私は白川の手を見た。

確かに、透けている。

いや、透けているのではない。

輪郭が、周囲の空間と溶け合っている。

「逃げなかったんですか」

「逃げませんでした」白川は穏やかに言った。「むしろ、受け入れました。私が測った空間は、美しかった。老婦人の記憶の中の洋館は、愛に満ちていました。その空間の一部になることは、悪いことではないと思いました」

「でも、あなたは今、ここにいる」

「肉体は、まだここにあります」白川は立ち上がった。「でも、私の本質は、もうあの洋館の中です。私が歩けば、洋館も移動します。私が立ち止まれば、洋館もそこに現れます」

白川が手を伸ばすと、空気が揺らいだ。

そして、私の目に見えた。

白川の周囲に、薄く重なる建物の輪郭。

壁、窓、ドア。

洋館が、彼女を包んでいる。

「私は、空間を纏った人間です」白川は言った。「あるいは、人間の形をした空間」

私は立ち上がった。

「私も、そうなるんですか」

「おそらく」白川は頷いた。「あなたが測った部屋たちは、あなたに引き寄せられています。赤い部屋、青い部屋、黄色い部屋。それらは全て、あなたを中心に集まってくる」

「どうすれば、止められますか」

「止めることはできません」白川は首を振った。「でも、選択肢はあります」

「選択肢?」

「測ることを止める。あるいは、最後の測量をする」

「最後の測量?」

「自分自身の空間を測るんです」白川は真っ直ぐ私を見た。「あなたという存在が占める空間。その寸法を確定させる。そうすれば、あなたは他の部屋に侵食されなくなる」

私は混乱した。

「自分を、測る?」

「身長、体重だけではありません」白川は続けた。「あなたの記憶が占める空間。あなたの感情が広がる領域。あなたの存在そのものの、空間的寸法。それを算出するんです」

「そんなこと、可能なんですか」

「可能です」白川は私の肩に手を置いた。その手は冷たく、しかし優しかった。「でも、それをしたら、あなたは変わります。空間として確定したあなたは、もう完全な人間ではなくなります。私のように」

白川の身体が、微かに透けて見えた。

いや、透けているのではない。

彼女の輪郭が、周囲の空間と溶け合っている。

「どうやって、測るんですか」

「まず、自分を原点とします」白川は説明し始めた。「自分がいる場所を、座標系の中心にする。しかし、絶対的な原点にしてはいけません」

「絶対的な原点?」

「自分だけを基準にすると、他の全ての空間との関係性が崩れます。世界が壊れます」白川は私の目を見た。「そうではなく、自分を複数の座標系の交点にするんです」

私は首を傾げた。

「交点?」

「あなたは、複数の空間の結節点です」白川は空中に指で図を描いた。「父との関係、母との関係、友人との関係。測った部屋との関係。全ての関係性が、あなたという点で交わっている。その交点を測定するんです」

私は理解し始めた。

「つまり、私は独立した存在ではなく、関係性の中に存在している」

「その通り」白川は微笑んだ。「人は、関係性の中でのみ存在する。その関係性の総体が、あなたという存在の空間的寸法です」

私はノートを取り出した。

「具体的に、どうすれば」

「まず、あなたの記憶の中の全ての空間をリストアップします。そして、それぞれの空間からあなたまでの距離を測る。物理的な距離ではなく、心理的な距離です」

白川は私の隣に座った。

「例えば、父との思い出の場所。それは、あなたにとってどれくらい近いですか。心の中で、手を伸ばせば届く距離ですか。それとも、遠く離れた場所ですか」

私は目を閉じた。

父の事務所を思い浮かべる。

父が測距儀を構えている姿。

私に測量を教えてくれた日。

「近いです」私は言った。「すぐそこに、ある気がします」

「では、その距離を数値化してください。メートルでもいいし、任意の単位でもいい」

私は考えた。

「1メートル」

「良いでしょう」白川は頷いた。「次に、母との思い出の場所」

私は母を思い出した。

離婚して家を出た母。

もう十年以上、会っていない。

「遠いです。100メートル、いや、もっと」

「では、100メートルとしましょう」

白川は私にノートを取らせ、次々と質問した。

幼少期の家。学校。初めて測量した現場。倉持の赤い部屋。蒼井の青い部屋。向井の黄色い部屋。

それぞれの空間からの距離を、私は数値化していった。

一時間後、ノートは数値で埋まっていた。

「これで、あなたの空間的寸法の基礎データが揃いました」白川は言った。「次に、これらの数値を統合します」

「統合?」

「全ての距離を、一つの座標系に配置するんです。そして、その中心にあなたがいる」

白川は空中に、複雑な図を描き始めた。

三次元の座標系。いや、それ以上の次元。

時間軸も含まれている。

「人の存在は、三次元では表現できません」白川は説明した。「時間、記憶、感情。それらは別の次元です。あなたは、多次元空間の中に存在している」

私は頭が混乱しそうになった。

しかし、測量士としての直感が、白川の言葉を理解していた。

「わかります」私は言った。「やってみます」

白川は立ち上がった。

「時間がありません。あなたのお父様が、待っています」

「父を、知っているんですか」

「ええ」白川は頷いた。「岡田健一さん。優秀な測量士でした。彼も、自己測定を試みました。しかし、完全には成功しなかった」

「なぜ?」

「彼は、あなたとの関係性を測定に含めなかったからです」白川は悲しそうに微笑んだ。「娘を守りたいという思いが、測定を歪ませた。その結果、彼は不完全な状態で、黒い部屋に取り込まれました」

私の胸が痛んだ。

「父は、私のために」

「ええ」白川は私の肩に手を置いた。「だから、あなたは完全な測定をしなければなりません。お父様との関係性も含めて。そうすれば、お父様を救えるかもしれません」

その時、私の携帯電話が鳴った。

知らない番号だった。

私は電話に出た。

「もしもし」

「安城冴さんですか」男性の声。若く、しかし切迫している。

「はい」

「俺の名前は赤木。赤木隼人」声が震えている。「あんた、俺の部屋を測っただろう」

私は記憶を辿った。

赤木隼人。

確かに、数ヶ月前にメールで測量依頼を受けた。

子供時代の自室。赤いカーペットの部屋。

「覚えています」

「助けてくれ」赤木の声が絶望に染まっている。「俺の身体が、赤くなってる。内臓が、脳が、全部赤い」

私は息を呑んだ。

「今、どこにいますか」

「自宅だ。もう、動けない。来てくれ。頼む」

赤木は住所を告げた。ここから、電車で二十分ほどの場所。

「今、向かいます」

電話を切り、私は白川を見た。

「行かなければ」

「止めません」白川は言った。「でも、彼はもう助かりません。あなたが見るのは、彼の最期です」

私は走り出した。

駅に向かい、電車に乗る。

車内で、私は自分の手を見た。

微かに、赤みを帯びている。

いや、赤いのは私の手ではない。

私が見ている空間が、赤く染まり始めている。

赤木の部屋が、拡大している。

赤木の住むアパートは、古い木造建築だった。

三階の一室。ドアの隙間から、赤い光が漏れている。

私は呼び鈴を押した。

応答はない。

ドアノブを回す。鍵はかかっていない。

「赤木さん、入ります」

ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。

部屋全体が、赤かった。

壁、天井、床。全てが、血のような赤に染まっている。

そして、壁から赤い液体が滲み出ている。

いや、液体ではない。

空間そのものが、液状化している。

部屋の中央に、赤木がいた。

床に座り込み、自分の腕を見つめている。

「赤木さん」

私は部屋に入った。

赤木は顔を上げた。

その顔は、半分が赤く染まっていた。

いや、染まっているのではない。

顔の半分が、壁と同化している。

「来てくれたのか」赤木は呟いた。「もう、遅いけどな」

私は赤木の隣に膝をついた。

「救急車を呼びます」

「無駄だ」赤木は首を振った。「これは、病気じゃない」

赤木は自分の腕を私に見せた。

私は息を呑んだ。

腕が透けて、骨が見える。

いや、骨ではない。

腕の中に、小さな部屋がある。

赤い部屋。

カーペットが敷かれ、おもちゃが散らばっている。

そして、部屋の中に、幼い少年がいる。

少年は、赤いカーペットの上で遊んでいる。

「俺の中に、部屋がある」赤木は言った。「部屋の中に、俺がいる。どっちが本物だ?」

私は言葉が出なかった。

「あの部屋はな、俺が一番幸せだった場所なんだ」赤木は遠くを見た。「両親が離婚する前。家族が一緒だった頃。赤いカーペットの上で、父さんと遊んだ。母さんが、おやつを持ってきてくれた」

赤木の目から、涙が流れた。

赤い涙。

「もう一度、あの頃に戻りたかった。だから、測ってもらった。でも、戻るんじゃなかった。部屋が、俺を飲み込んだ」

「赤木さん」

「安城さん、一つ教えてやる」赤木は私を見た。「お前の親父は、黒い部屋にいる」

私の心臓が跳ねた。

「黒い部屋? どこですか」

「駅前の廃ビル」赤木は喘ぐように言った。「三階の、奥の部屋。そこに、黒い扉がある。お前の親父は、そこにいる」

「なぜ、知っているんですか」

「親父が、俺に言ったんだ。五年前、俺の部屋を測った時に」赤木は咳き込んだ。赤い液体が、口から溢れる。「『もし俺が戻らなかったら、娘に伝えてくれ』と」

私は赤木の肩を支えた。

「でも、行くな」赤木は私の手を掴んだ。その手は、もう固体ではなかった。「黒は、全てを飲む。お前も、親父も、俺も。全部、黒い部屋に吸い込まれる」

赤木の身体が、崩れ始めた。

輪郭が溶け、床に広がっていく。

「赤木さん!」

「悪くない」赤木は微笑んだ。「あの部屋に還れるなら。父さんと母さんがいる部屋に」

赤木の身体が、完全に液状化した。

赤い液体が、床に広がり、やがて壁に吸収されていく。

私は立ち尽くした。

部屋の中に、もう赤木はいない。

ただ、赤い空間だけが残っている。

私は部屋を出た。

廊下に出て、深呼吸する。

手が震えている。

赤木は、消えた。

倉持のように。蒼井のように。向井のように。

そして、次は私の番なのか。

私は携帯電話を取り出した。

白川に電話する。

「白川さん、赤木さんは——」

「わかっています」白川の声が、静かに響いた。「彼は、還るべき場所に還りました」

「私は、どうすればいいんですか」

「自己測定を完了させなさい」白川は言った。「そして、お父様のところに行きなさい。黒い部屋に」

「でも、黒い部屋に入ったら——」

「戻れないかもしれません」白川は認めた。「でも、それがあなたの選択です。お父様を救うのか、自分を守るのか」

私は唇を噛んだ。

選択。

父を救うか、自分を守るか。

しかし、それは選択ではない。

私は、もう決めている。

「行きます」私は言った。「父を、連れ戻します」

「では、自己測定を完了させなさい」白川は言った。「今すぐに。不完全な状態で黒い部屋に入れば、あなたも飲み込まれます」

電話を切り、私はベンチに座った。

ノートを開く。

白川に教わった方法。

全ての空間との距離を、数値化する。

そして、それらを統合し、自分を中心とした座標系を構築する。

私は目を閉じた。

深呼吸。

そして、測り始めた。

父との距離。1メートル。

母との距離。100メートル。

幼少期の家との距離。50メートル。

倉持の赤い部屋との距離。10メートル。

蒼井の青い部屋との距離。10メートル。

向井の黄色い部屋との距離。10メートル。

赤木の赤い部屋との距離。5メートル。

全ての数値が、頭の中に流れ込んでくる。

そして、それらが統合されていく。

多次元の座標系。

その中心に、私がいる。

私は、全ての空間の交点。

私は目を開けた。

世界が、変わって見えた。

全ての空間の輪郭が、同時に見える。

重なり合い、交差し、共存する空間たち。

そして、その中心に、私がいる。

私は立ち上がった。

自分の手を見る。

手が、微かに透けている。

いや、透けているのではない。

私の輪郭が、周囲の空間と溶け合い始めている。

私は、白川と同じになった。

空間を纏った人間。

あるいは、人間の形をした空間。

私は歩き出した。

駅前の廃ビルに向かって。

父がいる場所へ。

黒い部屋へ。

白川の声が、風に乗って聞こえた。

「覚悟はできましたか」

私は答えた。

「はい」

「黒い部屋に入れば、もう戻れません。それでも行くのですか」

「父を連れ戻します」私は言った。「たとえ私が、完全な空間になったとしても」

白川の微笑みが、心に浮かんだ。

「では、行きなさい。測量士として」

私は走り出した。

廃ビルが、目の前に見える。

古い、コンクリートの建物。

窓は割れ、壁は崩れかけている。

しかし、三階の奥の窓だけが、黒く光っている。

そこに、黒い部屋がある。

そして、父がいる。

私は廃ビルに入った。

階段を上る。

二階、三階。

廊下を進む。

奥の部屋のドアが、微かに開いている。

ドアの隙間から、黒い光が漏れている。

いや、黒い光などない。

それは、光の不在だ。

全ての色が消えた、虚無。

私はドアに手をかけた。

深呼吸。

そして、ドアを開けた。

黒い部屋が、私を待っていた。

(第四話 了)

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