第2話 青い部屋の依頼主 - 溶ける境界
三日間、私はホテルに滞在した。
自宅のアパートには戻れなかった。あの夜以来、壁は確実に赤みを帯び続けている。私が測距儀を向けるたび、寸法は3.6メートルを示す。倉持の部屋の寸法。私の部屋は、記憶の中の赤い部屋に侵食されている。
ホテルの部屋で、私は父のノートを読み返した。
五年分の測量記録。住所、日付、寸法。几帳面な父の筆跡が、ページを埋めている。しかし最後のページだけが、乱れている。
「倉持、赤い部屋、測定不能」
父は何を見たのか。
何を経験したのか。
そして、どこに消えたのか。
私は倉持に電話をかけ続けた。しかし、繋がらない。留守番電話にメッセージを残したが、返事はなかった。
四日目の朝、私は倉持の家を訪ねることにした。
*
倉持の木造アパートは、あの日と変わらず静かに建っていた。
しかし、近づくにつれて、私は違和感を覚えた。
建物全体が、微かに赤みを帯びているように見える。
いや、見えるだけではない。空気そのものが、赤く染まっている気がする。
私は玄関の呼び鈴を押した。
応答はない。
もう一度押す。
沈黙。
私はドアノブを回した。鍵はかかっていない。
「倉持さん、岡田です。入りますよ」
声をかけながら、ドアを開ける。
玄関は薄暗かった。靴が揃えて置かれている。倉持の、茶色い革靴。
「倉持さん」
返事はない。
私は靴を脱ぎ、廊下に上がった。
居間に向かう。
ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。
部屋が、空っぽだった。
家具も、座布団も、テーブルも。あの日あったものが、全て消えている。
いや、消えているのではない。
壁に、吸収されている。
壁が赤い。深い、土のような赤。そして壁の表面に、家具の輪郭が浮かび上がっている。まるで、壁に沈み込んでいるかのように。
私は壁に近づいた。
手を伸ばす。
壁を触る。
柔らかい。
いや、柔らかいというより、境界が曖昧だ。壁なのか、空気なのか、判別がつかない。
私の指が、壁に沈んでいく。
慌てて手を引く。指先に、赤い何かがこびりついている。土ではない。塗料でもない。
温かい。
脈打っている。
私は後退した。
「倉持さん!」
叫ぶ。しかし、応答はない。
私は他の部屋も確認した。寝室、台所、トイレ。全て、同じ状態だった。家具は壁に吸収され、部屋は空っぽ。そして、全てが赤い。
倉持は、どこに?
私は再び居間に戻った。
そして、壁の一部に、人の輪郭があるのに気づいた。
小さな、丸まった人の形。
倉持だ。
彼は壁の中にいる。
「倉持さん!」
私は壁に手を当てた。輪郭をなぞる。
確かに、人の形だ。背中を丸め、胎児のように縮こまっている。
私は耳を壁に当てた。
何か、聞こえる。
微かな、呼吸音。
そして、声。
「……ただいま……母さん……」
倉持の声だった。
彼は、母の実家に帰ったのだ。
壁の向こうの、赤い部屋に。
私は壁から離れた。
助けることはできない。
いや、助けるべきなのか。
倉持は、望んでいたのではないか。あの部屋に還ることを。生まれた場所に戻ることを。
私はアパートを出た。
外の空気が、冷たく感じた。
玄関を出たところで、隣の部屋の住人に声をかけられた。
七十代くらいの女性だった。
「あの、倉持さんをご存知ですか」
「ええ。隣に住んでいます。どうかされました?」
「三日前の夜、変なことがあったんです」女性は不安そうに言った。「倉持さんの部屋から、赤い光が漏れていて」
私の心臓が跳ねた。
「赤い光?」
「ええ。ドアの隙間から、真っ赤な光が。最初は火事かと思って、ドアを叩いたんですけど、返事がなくて。管理人さんを呼ぼうかと思ったんですが、その時、中から声が聞こえたんです」
「声?」
「呻き声、というか」女性は眉をひそめた。「『母さん』って。何度も何度も、『母さん』って。でも、倉持さんのお母さんは、もう亡くなられているはずで」
私は唇を噛んだ。
「それで、翌朝になったら、光は消えていました。それから倉持さんの姿を見ていないんです。旅行にでも行かれたのかと思っていたんですが」
「ありがとうございます」私は女性に頭を下げた。「大丈夫です。倉持さんは、用事で出かけているだけです」
女性は安心したように頷いた。
私は足早にアパートを離れた。
倉持は、消えた。
父と同じように。
赤い部屋に、飲み込まれて。
そして、私も同じ道を辿ろうとしている。
自宅の壁は、日に日に赤くなっている。このままでは、私も壁に吸収される。
どうすればいい。
父は「測量は呼び出す」と言った。
では、どうやって止めるのか。
私は駅のベンチに座り込んだ。
頭を抱える。
答えが見つからない。
その時、携帯電話にメールの着信音が鳴った。
差出人は、知らないアドレス。
件名は「あなたの父を知っています」。
私は息を呑み、メールを開いた。
岡田冴様
突然のご連絡、失礼いたします。
蒼井透と申します。
あなたのお父様、岡田健一さんのことで、
お伝えしたいことがあります。
五年前、岡田さんは私の祖父の書斎を測量してくださいました。
その後、岡田さんは姿を消されました。
あなたも今、同じ状況に置かれているのではないでしょうか。
お会いして、お話しさせていただけないでしょうか。
時間がありません。
蒼井透
```
メールには、住所が記されていた。都内の、ここから電車で三十分ほどの場所。
私は立ち上がった。
罠かもしれない。
しかし、行くしかない。
父の手がかりが、そこにあるなら。
*
蒼井透の住むマンションは、築三十年ほどの、灰色のコンクリート建築だった。
エントランスの照明が切れかけていて、断続的に明滅している。
五階の505号室。
私は呼び鈴を押した。
すぐにドアが開いた。
現れたのは、三十代半ばと思われる男性だった。痩せていて、目の下に深いくまがある。しかし目は鋭く、私を真っ直ぐに見つめた。
「岡田冴さんですね」
「はい。蒼井さんですか」
「ええ。入ってください」
蒼井は私を部屋に招き入れた。
ドアをくぐった瞬間、私は立ち止まった。
部屋が、青かった。
壁も、天井も、床も。全てが、深い青に染まっている。
プルシアンブルー。
絵の具のような、濃密な青。
「驚かれましたか」蒼井が後ろから言った。「この部屋は、元々は普通のワンルームでした。白い壁、フローリングの床。でも五年前、あなたのお父様に祖父の書斎を測ってもらってから、こうなりました」
私は青い壁に近づいた。
手を伸ばす。
壁を触る。
冷たい。そして、湿っている。
いや、湿っているのではない。壁の表面が、微かに波打っている。
まるで、水面のように。
「座ってください」
蒼井は青いソファを指差した。私はソファに座った。ソファも青い。触ると、布地が冷たい。
蒼井は向かいの椅子に座った。
「お父様のこと、お聞きになりたいですよね」
「はい」
「五年前、私は祖父の書斎を測ってほしいと、お父様に依頼しました」蒼井は両手を膝の上で組んだ。「祖父は建築家でした。自邸に、特別な書斎を設計したんです。壁も天井も床も、全て青。プルシアンブルー。祖父はその部屋で設計図を描き、そして死にました」
蒼井の声が、淡々としている。
「祖父の家は、十年前に取り壊されました。でも私は、あの書斎を夢に見るんです。青い壁が、私を呼んでいるような。それで、書斎の正確な寸法を知りたくなった。記録として残したかった」
「それで、父に依頼を?」
「ええ。お父様は、私の記憶を元に、書斎を測量してくださいました。とても丁寧に。三時間以上かけて。そして、完璧な寸法を出してくださった」
蒼井は立ち上がり、デスクから一枚の紙を取り出した。
私に差し出す。
それは、測量報告書だった。父の筆跡で、寸法が記されている。
「南北3.8メートル、東西4.2メートル、天井高2.6メートル」
私は報告書を見つめた。父の字だ。間違いない。
「お父様は、測量が終わった後、私に警告されました」蒼井は続けた。「『この部屋のことを、思い出さないでください』と。『記憶を膨らませると、危険です』と」
「父も、気づいていたんですね」
「ええ。測量という行為が、記憶の部屋を現実に引き寄せることを」蒼井は窓辺に立った。「でも、手遅れでした。お父様が帰られた夜から、私の部屋の壁が青く染まり始めたんです」
私は青い壁を見回した。
「最初は、隅だけでした」蒼井は壁に触れた。「ここです。小さな、青い染みのようなものが現れた。翌日には、染みが広がっていました。一週間で、壁全体が青くなった。二週間で、天井が。一ヶ月で、床まで」
「なぜ、引っ越さなかったんですか」
「引っ越しても、同じです」蒼井は振り返った。「青は、私に憑いているんです。どこに行っても、青が追いかけてくる。だったら、ここにいた方がいい。祖父の書斎に、近い場所に」
私は測距儀を取り出した。
「測ってもいいですか」
「どうぞ」
私は壁に向けて、レーザーを当てた。
数値が表示される。
「3.8メートル」
父の報告書と同じ数値だ。
私は反対側の壁も測った。
「4.2メートル」
これも、同じ。
「あなたの部屋が、祖父の書斎と同じ寸法になっている」
「その通り」蒼井は頷いた。「でも、それだけじゃない。部屋が、拡大しているんです」
私は眉をひそめた。
「拡大?」
蒼井はノートパソコンを開いた。画面には、エクセルの表が表示されている。
日付と、数値。
「毎日、測っています」蒼井は画面を指差した。「壁までの距離が、一日に数ミリずつ伸びている。部屋が、成長しているんです」
私は画面を見た。
確かに、寸法が少しずつ大きくなっている。
五年前:3.8メートル
一年前:3.82メートル
半年前:3.85メートル
今日:3.87メートル
「なぜ、大きくなるんですか」
「わからない」蒼井は画面を閉じた。「でも、仮説はあります。祖父の書斎は、祖父の記憶の中でどんどん美化されていた。実際より広く、実際より美しく。私がその記憶を引き継ぎ、測量してもらったことで、美化された記憶が実体化し始めたのかもしれない」
私は青い壁を見た。
壁の表面が、微かに波打っている。
まるで、呼吸しているかのように。
「蒼井さん、あなた自身は、大丈夫なんですか」
蒼井は自分の手を見た。
「大丈夫ではありません」
彼は右手を、私に見せた。
私は息を呑んだ。
蒼井の指が、透けている。
いや、透けているのではない。
指の輪郭が、曖昧になっている。
まるで、青い空気と混ざり合っているように。
「三ヶ月前から、こうなり始めました」蒼井は静かに言った。「最初は指先だけでした。でも今は、手首まで。そして、足も。おそらく、全身がこうなるでしょう」
「病院には?」
「行きました。でも、医者には何も見えないんです。レントゲンを撮っても、血液検査をしても、異常なし。これは、私にしか見えない現象です」
蒼井は私に近づいた。
そして、手を差し出した。
「触ってみてください」
私は躊躇した。
しかし、手を伸ばし、蒼井の手を握った。
冷たい。
そして、湿っている。
いや、湿っているのではない。
蒼井の手が、液体のように境界が曖昧になっている。
私の指が、彼の手に沈み込んでいく。
慌てて手を引く。
「これが、部屋と一体化するということです」蒼井は自分の手を見つめた。「私の身体が、青い書斎の一部になっている。やがて、私は完全に壁に溶け込むでしょう」
私は立ち上がった。
「止める方法は、ないんですか」
「わからない。でも、あなたのお父様は、知っていたかもしれません」
蒼井はデスクの引き出しを開け、一つの封筒を取り出した。
「これを、預かっていました」
封筒には、私の名前が書かれていた。
「父が?」
「ええ。お父様が、測量の翌日、もう一度私を訪ねてこられた時に預かりました」蒼井は封筒を私に手渡した。「『もし私が戻らなかったら、娘に渡してほしい』と」
私は震える手で、封筒を受け取った。
開封されていない。
私は封を切り、中の紙を取り出した。
父の筆跡だった。
```
冴へ
お前がこれを読んでいるということは、
私が消えたということだ。
そして、お前も同じ道を辿り始めているのだろう。
測量は、空間を確定する行為だと、私は信じていた。
しかし違った。
測量は、呼び出す行為だった。
記憶の中の部屋を測ることで、
その部屋が現実に侵食してくる。
赤い部屋、青い部屋、黄色い部屋。
人々が失った居場所。
戻りたい場所。
安らげる場所。
その渇望が、部屋を実体化させる。
そして測量士は、その触媒となる。
冴、お前がここまで来ることは、わかっていた。
お前は私の娘だ。
測量士の血が流れている。
だから、これだけは覚えておいてほしい。
全ての色の部屋が揃う前に、
必ず自分を測れ。
自分という存在の空間的寸法を確定させるんだ。
さもないと、お前も—
```
そこで、文章は途切れていた。
私は紙を握りしめた。
「自分を、測る?」
「私もわかりません」蒼井が言った。「でも、お父様はそれが唯一の方法だと考えていたようです」
私は父の文字を見つめた。
自分を測る。
どういう意味だ。
身長や体重ではないはずだ。
空間的寸法。
存在の、寸法。
「蒼井さん、父はあの後、どこに行ったんですか」
「わかりません。ただ、一つだけ言っていました」蒼井は窓の外を見た。「『黒い部屋が、待っている』と」
「黒い部屋?」
「全ての色が混ざった部屋。あるいは、全ての色が消えた部屋。そこに辿り着いたら、もう戻れない、と」
私の背筋に、冷たいものが走った。
「お父様は、黒い部屋に向かったのかもしれません」蒼井は私を見た。「あなたを守るために。黒い部屋が他の部屋を飲み込む前に、自らそこに入ったのかも」
私は唇を噛んだ。
父は、犠牲になったのか。
私のために。
「蒼井さん、あなたはどうするんですか」
蒼井は微笑んだ。
穏やかな、諦めたような微笑み。
「もう、限界です」
彼は自分の身体を見下ろした。
私も見た。
そして、息を呑んだ。
蒼井の足が、透けている。
いや、透けているのではない。
足の輪郭が消え、床と一体化している。
「痛くはないんです」蒼井は静かに言った。「むしろ、楽だ。境界がなくなるって、自由なんです。祖父の書斎に還る。祖父が生きた空間に、私も生きる。それも悪くない」
「蒼井さん」
私は彼に近づこうとした。
しかし、蒼井は手を上げて制した。
「近づかないでください。引きずり込まれます」
彼の身体が、ゆっくりと青く染まっていく。
いや、染まっているのではない。
青い空間と、混ざり合っている。
蒼井の輪郭が、曖昧になっていく。
「岡田さん、一つだけ」蒼井の声が遠くなる。「次は、黄色い部屋が来ます」
「黄色い?」
「赤、青、黄色。三原色。これが揃えば、黒が来る。気をつけて」
蒼井の顔が、青い壁と重なり始めた。
目が、壁の木目と混ざる。
口が、壁の凹凸と融合する。
「蒼井さん!」
私は彼の腕を掴もうとした。
しかし、私の手は青い空気を掴むだけだった。
蒼井透の身体が、青い壁に溶けていく。
ゆっくりと。
静かに。
最後に、彼の声だけが残った。
「自分を、測って……」
そして、消えた。
私は空っぽになった部屋に、立ち尽くした。
青い壁だけが、静かに波打っている。
私は壁に手を当てた。
冷たい。
そして、微かに脈打っている。
蒼井は、この壁の中にいる。
祖父の書斎の中に。
私は壁から手を離し、後退した。
部屋を出なければ。
ここにいたら、私も引きずり込まれる。
私はドアに向かった。
しかし、振り返って、もう一度青い部屋を見た。
美しかった。
深い、静謐な青。
まるで、深海の底のような。
安らかで、優しい色。
私は首を振った。
いけない。
魅入られてはいけない。
私はドアを開け、部屋を飛び出した。
廊下に出て、深呼吸する。
手が震えている。
私は父の手紙を握りしめた。
「自分を測れ」
父の言葉。
しかし、どうやって。
どうやって、自分を測るのか。
私はマンションを出た。
外の空気が、現実に引き戻してくれた。
街は、いつもと変わらない。
人々が歩き、車が走り、店が営業している。
しかし、私にはわかる。
この世界の裏側で、色の部屋が増殖している。
赤い部屋。青い部屋。そして、次は黄色い部屋。
三原色が揃えば、黒が来る。
私は携帯電話を取り出した。
父のノートに、もう一つ名前があったはずだ。
ページを繰る。
あった。
「向井陽子、黄色い部屋」
父は、向井の部屋も測っていた。
そして、その向井も、おそらく——。
私は検索エンジンに、向井陽子の名前を入力した。
いくつかのSNSアカウントがヒットする。
その中の一つ、ブログのタイトルが目に入った。
「黄色い部屋の記憶」
私はブログを開いた。
最終更新は、三ヶ月前。
最後の投稿には、こう書かれていた。
```
もう私は私ではない。
幼い頃の部屋が、私を呼んでいる。
黄色い壁紙の部屋。
お父さんとお母さんがいる部屋。
あの部屋に帰れば、全てが元に戻る。
さようなら。
私は携帯電話を握りしめた。
向井も、消えたのか。
黄色い部屋に。
私は空を見上げた。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
いや、オレンジではない。
微かに、黄色みを帯びている。
気のせいか。
私は目を閉じた。
そして、深呼吸した。
落ち着け。
まだ、私は大丈夫だ。
まだ、現実にいる。
私は目を開け、歩き出した。
ホテルに戻らなければ。
そして、考えなければ。
自分を測る方法を。
父を探す方法を。
黒い部屋に辿り着く前に。
私の影が、夕陽に伸びている。
その影が、微かに黄色く見えた。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は歩き続けた。
しかし、心の奥で、私は知っていた。
黄色い部屋が、もう私に迫っていることを。
(第二話 了)
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