第2話 青い部屋の依頼主 - 溶ける境界

三日間、私はホテルに滞在した。

自宅のアパートには戻れなかった。あの夜以来、壁は確実に赤みを帯び続けている。私が測距儀を向けるたび、寸法は3.6メートルを示す。倉持の部屋の寸法。私の部屋は、記憶の中の赤い部屋に侵食されている。

ホテルの部屋で、私は父のノートを読み返した。

五年分の測量記録。住所、日付、寸法。几帳面な父の筆跡が、ページを埋めている。しかし最後のページだけが、乱れている。

「倉持、赤い部屋、測定不能」

父は何を見たのか。

何を経験したのか。

そして、どこに消えたのか。

私は倉持に電話をかけ続けた。しかし、繋がらない。留守番電話にメッセージを残したが、返事はなかった。

四日目の朝、私は倉持の家を訪ねることにした。

倉持の木造アパートは、あの日と変わらず静かに建っていた。

しかし、近づくにつれて、私は違和感を覚えた。

建物全体が、微かに赤みを帯びているように見える。

いや、見えるだけではない。空気そのものが、赤く染まっている気がする。

私は玄関の呼び鈴を押した。

応答はない。

もう一度押す。

沈黙。

私はドアノブを回した。鍵はかかっていない。

「倉持さん、岡田です。入りますよ」

声をかけながら、ドアを開ける。

玄関は薄暗かった。靴が揃えて置かれている。倉持の、茶色い革靴。

「倉持さん」

返事はない。

私は靴を脱ぎ、廊下に上がった。

居間に向かう。

ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。

部屋が、空っぽだった。

家具も、座布団も、テーブルも。あの日あったものが、全て消えている。

いや、消えているのではない。

壁に、吸収されている。

壁が赤い。深い、土のような赤。そして壁の表面に、家具の輪郭が浮かび上がっている。まるで、壁に沈み込んでいるかのように。

私は壁に近づいた。

手を伸ばす。

壁を触る。

柔らかい。

いや、柔らかいというより、境界が曖昧だ。壁なのか、空気なのか、判別がつかない。

私の指が、壁に沈んでいく。

慌てて手を引く。指先に、赤い何かがこびりついている。土ではない。塗料でもない。

温かい。

脈打っている。

私は後退した。

「倉持さん!」

叫ぶ。しかし、応答はない。

私は他の部屋も確認した。寝室、台所、トイレ。全て、同じ状態だった。家具は壁に吸収され、部屋は空っぽ。そして、全てが赤い。

倉持は、どこに?

私は再び居間に戻った。

そして、壁の一部に、人の輪郭があるのに気づいた。

小さな、丸まった人の形。

倉持だ。

彼は壁の中にいる。

「倉持さん!」

私は壁に手を当てた。輪郭をなぞる。

確かに、人の形だ。背中を丸め、胎児のように縮こまっている。

私は耳を壁に当てた。

何か、聞こえる。

微かな、呼吸音。

そして、声。

「……ただいま……母さん……」

倉持の声だった。

彼は、母の実家に帰ったのだ。

壁の向こうの、赤い部屋に。

私は壁から離れた。

助けることはできない。

いや、助けるべきなのか。

倉持は、望んでいたのではないか。あの部屋に還ることを。生まれた場所に戻ることを。

私はアパートを出た。

外の空気が、冷たく感じた。

玄関を出たところで、隣の部屋の住人に声をかけられた。

七十代くらいの女性だった。

「あの、倉持さんをご存知ですか」

「ええ。隣に住んでいます。どうかされました?」

「三日前の夜、変なことがあったんです」女性は不安そうに言った。「倉持さんの部屋から、赤い光が漏れていて」

私の心臓が跳ねた。

「赤い光?」

「ええ。ドアの隙間から、真っ赤な光が。最初は火事かと思って、ドアを叩いたんですけど、返事がなくて。管理人さんを呼ぼうかと思ったんですが、その時、中から声が聞こえたんです」

「声?」

「呻き声、というか」女性は眉をひそめた。「『母さん』って。何度も何度も、『母さん』って。でも、倉持さんのお母さんは、もう亡くなられているはずで」

私は唇を噛んだ。

「それで、翌朝になったら、光は消えていました。それから倉持さんの姿を見ていないんです。旅行にでも行かれたのかと思っていたんですが」

「ありがとうございます」私は女性に頭を下げた。「大丈夫です。倉持さんは、用事で出かけているだけです」

女性は安心したように頷いた。

私は足早にアパートを離れた。

倉持は、消えた。

父と同じように。

赤い部屋に、飲み込まれて。

そして、私も同じ道を辿ろうとしている。

自宅の壁は、日に日に赤くなっている。このままでは、私も壁に吸収される。

どうすればいい。

父は「測量は呼び出す」と言った。

では、どうやって止めるのか。

私は駅のベンチに座り込んだ。

頭を抱える。

答えが見つからない。

その時、携帯電話にメールの着信音が鳴った。

差出人は、知らないアドレス。

件名は「あなたの父を知っています」。

私は息を呑み、メールを開いた。

岡田冴様


突然のご連絡、失礼いたします。

蒼井透と申します。


あなたのお父様、岡田健一さんのことで、

お伝えしたいことがあります。


五年前、岡田さんは私の祖父の書斎を測量してくださいました。

その後、岡田さんは姿を消されました。


あなたも今、同じ状況に置かれているのではないでしょうか。


お会いして、お話しさせていただけないでしょうか。


時間がありません。


蒼井透

```


メールには、住所が記されていた。都内の、ここから電車で三十分ほどの場所。


私は立ち上がった。


罠かもしれない。


しかし、行くしかない。


父の手がかりが、そこにあるなら。



蒼井透の住むマンションは、築三十年ほどの、灰色のコンクリート建築だった。


エントランスの照明が切れかけていて、断続的に明滅している。


五階の505号室。


私は呼び鈴を押した。


すぐにドアが開いた。


現れたのは、三十代半ばと思われる男性だった。痩せていて、目の下に深いくまがある。しかし目は鋭く、私を真っ直ぐに見つめた。


「岡田冴さんですね」


「はい。蒼井さんですか」


「ええ。入ってください」


蒼井は私を部屋に招き入れた。


ドアをくぐった瞬間、私は立ち止まった。


部屋が、青かった。


壁も、天井も、床も。全てが、深い青に染まっている。


プルシアンブルー。


絵の具のような、濃密な青。


「驚かれましたか」蒼井が後ろから言った。「この部屋は、元々は普通のワンルームでした。白い壁、フローリングの床。でも五年前、あなたのお父様に祖父の書斎を測ってもらってから、こうなりました」


私は青い壁に近づいた。


手を伸ばす。


壁を触る。


冷たい。そして、湿っている。


いや、湿っているのではない。壁の表面が、微かに波打っている。


まるで、水面のように。


「座ってください」


蒼井は青いソファを指差した。私はソファに座った。ソファも青い。触ると、布地が冷たい。


蒼井は向かいの椅子に座った。


「お父様のこと、お聞きになりたいですよね」


「はい」


「五年前、私は祖父の書斎を測ってほしいと、お父様に依頼しました」蒼井は両手を膝の上で組んだ。「祖父は建築家でした。自邸に、特別な書斎を設計したんです。壁も天井も床も、全て青。プルシアンブルー。祖父はその部屋で設計図を描き、そして死にました」


蒼井の声が、淡々としている。


「祖父の家は、十年前に取り壊されました。でも私は、あの書斎を夢に見るんです。青い壁が、私を呼んでいるような。それで、書斎の正確な寸法を知りたくなった。記録として残したかった」


「それで、父に依頼を?」


「ええ。お父様は、私の記憶を元に、書斎を測量してくださいました。とても丁寧に。三時間以上かけて。そして、完璧な寸法を出してくださった」


蒼井は立ち上がり、デスクから一枚の紙を取り出した。


私に差し出す。


それは、測量報告書だった。父の筆跡で、寸法が記されている。


「南北3.8メートル、東西4.2メートル、天井高2.6メートル」


私は報告書を見つめた。父の字だ。間違いない。


「お父様は、測量が終わった後、私に警告されました」蒼井は続けた。「『この部屋のことを、思い出さないでください』と。『記憶を膨らませると、危険です』と」


「父も、気づいていたんですね」


「ええ。測量という行為が、記憶の部屋を現実に引き寄せることを」蒼井は窓辺に立った。「でも、手遅れでした。お父様が帰られた夜から、私の部屋の壁が青く染まり始めたんです」


私は青い壁を見回した。


「最初は、隅だけでした」蒼井は壁に触れた。「ここです。小さな、青い染みのようなものが現れた。翌日には、染みが広がっていました。一週間で、壁全体が青くなった。二週間で、天井が。一ヶ月で、床まで」


「なぜ、引っ越さなかったんですか」


「引っ越しても、同じです」蒼井は振り返った。「青は、私に憑いているんです。どこに行っても、青が追いかけてくる。だったら、ここにいた方がいい。祖父の書斎に、近い場所に」


私は測距儀を取り出した。


「測ってもいいですか」


「どうぞ」


私は壁に向けて、レーザーを当てた。


数値が表示される。


「3.8メートル」


父の報告書と同じ数値だ。


私は反対側の壁も測った。


「4.2メートル」


これも、同じ。


「あなたの部屋が、祖父の書斎と同じ寸法になっている」


「その通り」蒼井は頷いた。「でも、それだけじゃない。部屋が、拡大しているんです」


私は眉をひそめた。


「拡大?」


蒼井はノートパソコンを開いた。画面には、エクセルの表が表示されている。


日付と、数値。


「毎日、測っています」蒼井は画面を指差した。「壁までの距離が、一日に数ミリずつ伸びている。部屋が、成長しているんです」


私は画面を見た。


確かに、寸法が少しずつ大きくなっている。


五年前:3.8メートル


一年前:3.82メートル


半年前:3.85メートル


今日:3.87メートル


「なぜ、大きくなるんですか」


「わからない」蒼井は画面を閉じた。「でも、仮説はあります。祖父の書斎は、祖父の記憶の中でどんどん美化されていた。実際より広く、実際より美しく。私がその記憶を引き継ぎ、測量してもらったことで、美化された記憶が実体化し始めたのかもしれない」


私は青い壁を見た。


壁の表面が、微かに波打っている。


まるで、呼吸しているかのように。


「蒼井さん、あなた自身は、大丈夫なんですか」


蒼井は自分の手を見た。


「大丈夫ではありません」


彼は右手を、私に見せた。


私は息を呑んだ。


蒼井の指が、透けている。


いや、透けているのではない。


指の輪郭が、曖昧になっている。


まるで、青い空気と混ざり合っているように。


「三ヶ月前から、こうなり始めました」蒼井は静かに言った。「最初は指先だけでした。でも今は、手首まで。そして、足も。おそらく、全身がこうなるでしょう」


「病院には?」


「行きました。でも、医者には何も見えないんです。レントゲンを撮っても、血液検査をしても、異常なし。これは、私にしか見えない現象です」


蒼井は私に近づいた。


そして、手を差し出した。


「触ってみてください」


私は躊躇した。


しかし、手を伸ばし、蒼井の手を握った。


冷たい。


そして、湿っている。


いや、湿っているのではない。


蒼井の手が、液体のように境界が曖昧になっている。


私の指が、彼の手に沈み込んでいく。


慌てて手を引く。


「これが、部屋と一体化するということです」蒼井は自分の手を見つめた。「私の身体が、青い書斎の一部になっている。やがて、私は完全に壁に溶け込むでしょう」


私は立ち上がった。


「止める方法は、ないんですか」


「わからない。でも、あなたのお父様は、知っていたかもしれません」


蒼井はデスクの引き出しを開け、一つの封筒を取り出した。


「これを、預かっていました」


封筒には、私の名前が書かれていた。


「父が?」


「ええ。お父様が、測量の翌日、もう一度私を訪ねてこられた時に預かりました」蒼井は封筒を私に手渡した。「『もし私が戻らなかったら、娘に渡してほしい』と」


私は震える手で、封筒を受け取った。


開封されていない。


私は封を切り、中の紙を取り出した。


父の筆跡だった。

```

冴へ


お前がこれを読んでいるということは、

私が消えたということだ。


そして、お前も同じ道を辿り始めているのだろう。


測量は、空間を確定する行為だと、私は信じていた。

しかし違った。


測量は、呼び出す行為だった。


記憶の中の部屋を測ることで、

その部屋が現実に侵食してくる。


赤い部屋、青い部屋、黄色い部屋。

人々が失った居場所。

戻りたい場所。

安らげる場所。


その渇望が、部屋を実体化させる。

そして測量士は、その触媒となる。


冴、お前がここまで来ることは、わかっていた。

お前は私の娘だ。

測量士の血が流れている。


だから、これだけは覚えておいてほしい。


全ての色の部屋が揃う前に、

必ず自分を測れ。


自分という存在の空間的寸法を確定させるんだ。


さもないと、お前も—

```


そこで、文章は途切れていた。


私は紙を握りしめた。


「自分を、測る?」


「私もわかりません」蒼井が言った。「でも、お父様はそれが唯一の方法だと考えていたようです」


私は父の文字を見つめた。


自分を測る。


どういう意味だ。


身長や体重ではないはずだ。


空間的寸法。


存在の、寸法。


「蒼井さん、父はあの後、どこに行ったんですか」


「わかりません。ただ、一つだけ言っていました」蒼井は窓の外を見た。「『黒い部屋が、待っている』と」


「黒い部屋?」


「全ての色が混ざった部屋。あるいは、全ての色が消えた部屋。そこに辿り着いたら、もう戻れない、と」


私の背筋に、冷たいものが走った。


「お父様は、黒い部屋に向かったのかもしれません」蒼井は私を見た。「あなたを守るために。黒い部屋が他の部屋を飲み込む前に、自らそこに入ったのかも」


私は唇を噛んだ。


父は、犠牲になったのか。


私のために。


「蒼井さん、あなたはどうするんですか」


蒼井は微笑んだ。


穏やかな、諦めたような微笑み。


「もう、限界です」


彼は自分の身体を見下ろした。


私も見た。


そして、息を呑んだ。


蒼井の足が、透けている。


いや、透けているのではない。


足の輪郭が消え、床と一体化している。


「痛くはないんです」蒼井は静かに言った。「むしろ、楽だ。境界がなくなるって、自由なんです。祖父の書斎に還る。祖父が生きた空間に、私も生きる。それも悪くない」


「蒼井さん」


私は彼に近づこうとした。


しかし、蒼井は手を上げて制した。


「近づかないでください。引きずり込まれます」


彼の身体が、ゆっくりと青く染まっていく。


いや、染まっているのではない。


青い空間と、混ざり合っている。


蒼井の輪郭が、曖昧になっていく。


「岡田さん、一つだけ」蒼井の声が遠くなる。「次は、黄色い部屋が来ます」


「黄色い?」


「赤、青、黄色。三原色。これが揃えば、黒が来る。気をつけて」


蒼井の顔が、青い壁と重なり始めた。


目が、壁の木目と混ざる。


口が、壁の凹凸と融合する。


「蒼井さん!」


私は彼の腕を掴もうとした。


しかし、私の手は青い空気を掴むだけだった。


蒼井透の身体が、青い壁に溶けていく。


ゆっくりと。


静かに。


最後に、彼の声だけが残った。


「自分を、測って……」


そして、消えた。


私は空っぽになった部屋に、立ち尽くした。


青い壁だけが、静かに波打っている。


私は壁に手を当てた。


冷たい。


そして、微かに脈打っている。


蒼井は、この壁の中にいる。


祖父の書斎の中に。


私は壁から手を離し、後退した。


部屋を出なければ。


ここにいたら、私も引きずり込まれる。


私はドアに向かった。


しかし、振り返って、もう一度青い部屋を見た。


美しかった。


深い、静謐な青。


まるで、深海の底のような。


安らかで、優しい色。


私は首を振った。


いけない。


魅入られてはいけない。


私はドアを開け、部屋を飛び出した。


廊下に出て、深呼吸する。


手が震えている。


私は父の手紙を握りしめた。


「自分を測れ」


父の言葉。


しかし、どうやって。


どうやって、自分を測るのか。


私はマンションを出た。


外の空気が、現実に引き戻してくれた。


街は、いつもと変わらない。


人々が歩き、車が走り、店が営業している。


しかし、私にはわかる。


この世界の裏側で、色の部屋が増殖している。


赤い部屋。青い部屋。そして、次は黄色い部屋。


三原色が揃えば、黒が来る。


私は携帯電話を取り出した。


父のノートに、もう一つ名前があったはずだ。


ページを繰る。


あった。


「向井陽子、黄色い部屋」


父は、向井の部屋も測っていた。


そして、その向井も、おそらく——。


私は検索エンジンに、向井陽子の名前を入力した。


いくつかのSNSアカウントがヒットする。


その中の一つ、ブログのタイトルが目に入った。


「黄色い部屋の記憶」


私はブログを開いた。


最終更新は、三ヶ月前。


最後の投稿には、こう書かれていた。

```

もう私は私ではない。

幼い頃の部屋が、私を呼んでいる。

黄色い壁紙の部屋。

お父さんとお母さんがいる部屋。

あの部屋に帰れば、全てが元に戻る。


さようなら。

私は携帯電話を握りしめた。

向井も、消えたのか。

黄色い部屋に。

私は空を見上げた。

夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。

いや、オレンジではない。

微かに、黄色みを帯びている。

気のせいか。

私は目を閉じた。

そして、深呼吸した。

落ち着け。

まだ、私は大丈夫だ。

まだ、現実にいる。

私は目を開け、歩き出した。

ホテルに戻らなければ。

そして、考えなければ。

自分を測る方法を。

父を探す方法を。

黒い部屋に辿り着く前に。

私の影が、夕陽に伸びている。

その影が、微かに黄色く見えた。

気のせいだ。

そう自分に言い聞かせながら、私は歩き続けた。

しかし、心の奥で、私は知っていた。

黄色い部屋が、もう私に迫っていることを。

(第二話 了)

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