測量士は記憶の部屋を測る ~失われた居場所が、現実を侵食する~
ソコニ
第1話 測量依頼書 - 父の影
父の測距儀は、今も私の仕事鞄の底に入っている。
五年前、父が最後の測量に出かけたまま帰らなくなった日から、私はこの黒い金属製の測距儀を持ち歩いている。電源を入れると、液晶画面に「OKADA KENICHI」という文字が浮かぶ。父の名前だ。
私、岡田冴は、父の跡を継いで空間測量士になった。
継いだ、というのは正確ではない。父が消えた後、誰かが父の仕事を引き継がなければならなかった。母はとうに離婚して家を出ている。父には兄弟がいない。だから私が、父の事務所の鍵を受け取り、父の顧客リストを引き継ぎ、父の測距儀を持って現場に向かうようになった。
最初は義務感だった。
しかし測量という行為は、思いのほか私に合っていた。レーザーを壁に当て、距離を測る。数値が表示される。その数値を記録する。空間が、数字に還元される。曖昧なものが、確定する。
父はよく言っていた。「測れるものは、存在する」と。
私はその言葉を信じていた。だから父が測れなくなった時、父は存在しなくなったのだと思った。
父の遺品を整理した時、私は一冊のノートを見つけた。測量記録だ。几帳面な父の筆跡で、日付と住所と寸法が記されている。しかし最後のページに、乱れた文字があった。
「倉持、赤い部屋、測定不能」
それだけだった。住所もない。詳細もない。ただその一行だけが、ページの真ん中に、まるで叫びのように書かれていた。
私は警察にノートを見せた。しかし警察は「手がかりにならない」と言った。倉持という苗字は多い。赤い部屋という情報も抽象的すぎる。父は自ら姿を消したのだろう、と警察は結論づけた。
私もそう思おうとした。
しかし、信じられなかった。
父は几帳面な人だった。顧客との約束を破ったことは一度もない。測量データを間違えたこともない。そんな父が、何の連絡もなく消えるはずがない。
何かが、あったのだ。
あの「赤い部屋」で。
*
父が消えて五年。私の測量の仕事は軌道に乗っていた。
建築前の土地測量、取り壊し予定のビルの記録、マンションの実測図作成。依頼は途切れることがない。私は毎日、都内のどこかで測距儀を構えている。
六月の終わり、梅雨の晴れ間の日だった。
事務所のメールに、奇妙な依頼が届いた。
件名:測量依頼
差出人:倉持和夫
安城冴様
突然のご連絡、失礼いたします。
空間測量をお願いしたく、ご連絡いたしました。
測っていただきたいのは、私の母の実家にあった部屋です。
畳六畳。南向きの窓。障子の桟は十二本。
壁は土壁で、押し入れが一つありました。
ただし、この家は二十年前に取り壊されました。
現在は存在しません。
それでも測っていただけないでしょうか。
記憶の中の部屋を、正確に測ってほしいのです。
ご連絡をお待ちしております。
倉持和夫
```
私は椅子から立ち上がった。
倉持。
父のノートに書かれていた名前。
手が震えた。偶然だろうか。倉持という苗字は珍しくない。別人かもしれない。
しかし、心臓が激しく打っている。
私は返信を書いた。
```
倉持様
ご依頼、承りました。
詳細をお伺いしたいので、お電話させていただいてもよろしいでしょうか。
岡田冴
メールに記載された電話番号に、私は震える指でダイヤルした。
三コール目で、電話が繋がった。
「はい、倉持です」
老人の声だった。落ち着いていて、丁寧な口調。
「岡田冴と申します。測量のご依頼をいただきまして」
「ああ、岡田さん。お電話ありがとうございます」
私は息を整えた。
「倉持さん、一つお伺いしてもよろしいでしょうか。以前、岡田健一という測量士に依頼されたことはありますか」
沈黙。
長い沈黙。
「……ご存知なんですね」倉持の声が、わずかに震えた。「岡田健一さん。はい、存じ上げています。五年前、私は彼に同じ依頼をしました」
私の喉が渇いた。
「父です。岡田健一は、私の父です」
「お嬢さんでしたか」倉持は深く息を吐いた。「お父様は……その後、どうされていますか」
「行方不明です。あなたの依頼を受けた後、消えました」
「そうですか」倉持の声に、悲しみが滲んだ。「やはり。私も、そうなるかもしれません」
「どういう意味ですか」
「会って、お話しします。今日、来ていただけますか。お父様のことも、お話しします」
私は手帳を見た。今日の予定はない。
「伺います。住所を教えてください」
倉持は住所を告げた。都内の、下町の一角。父の事務所から電車で三十分ほどの場所だった。
電話を切り、私は父のノートを開いた。
「倉持、赤い部屋、測定不能」
五年前、父はこの言葉を残して消えた。
そして今、同じ倉持が、私に依頼をしている。
私は測距儀を鞄に入れた。父の測距儀も、念のため持っていくことにした。
*
倉持の家は、古い木造アパートの一階にあった。
玄関の呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。
「岡田さん、ようこそ」
倉持和夫は、七十代半ばと思われる小柄な老人だった。白髪を短く刈り、質素な白いシャツとベージュのズボンを着ている。目は優しく、しかしどこか疲れていた。
「お邪魔します」
狭い玄関を抜けると、六畳ほどの居間だった。古い家具が整然と並んでいる。倉持は私を座布団に座らせ、お茶を淹れてくれた。
「お父様のこと、お聞きになりたいですよね」倉持は私の向かいに座った。「私が知っている範囲で、お話しします」
「お願いします」
倉持は湯呑みを両手で包み込んだ。
「五年前、私はお父様に、母の実家の部屋を測ってほしいと依頼しました。今回と同じ、記憶の中の部屋です。お父様は最初、戸惑っておられました。存在しない部屋を測るというのは、常識外れですから。でも、私の話を聞いて、引き受けてくださった」
「父は、その部屋を測ったんですか」
「はい。私の記憶を元に、詳細に測量してくださいました。三時間ほどかけて。そして、正確な寸法を出してくださった。南北3.6メートル、東西3.6メートル、天井高2.4メートル。まさに、私が記憶していた通りの数値でした」
私は息を呑んだ。父は、記憶の部屋を測った。そしてその後、消えた。
「それで、父は?」
「測量が終わった後、お父様は何度も私に警告されました。『この部屋のことを思い出さないでください』と。『記憶を膨らませないでください』と。私は意味がわからず、ただ頷くしかありませんでした」
倉持は湯呑みを置いた。手が震えている。
「お父様が帰られた後、おかしなことが起き始めました。私の自宅の壁が、赤くなり始めたんです。最初はほんのわずかでした。壁の隅が、微かにピンク色に見える程度。でも日を追うごとに、赤みが濃くなっていきました」
「赤く?」
「ええ。私の母の実家の部屋は、土壁でした。赤土の。だから壁が赤かったんです。その赤が、私の自宅の壁に現れ始めた」
倉持は立ち上がり、壁に近づいた。そして壁を指差す。
「ここです。見えますか」
私は立ち上がり、倉持が指差す壁を見た。
白い壁紙。特に変わったところはない。
「赤くは見えませんが」
「そうですか」倉持は悲しそうに微笑んだ。「私には見えます。この壁全体が、もう赤いんです。母の実家の、あの赤い土壁と同じ色に」
私は壁を触った。普通の壁紙だ。冷たく、滑らかな。
「倉持さん、失礼ですが、思い込みではないですか。記憶に引きずられて」
「最初は私もそう思いました」倉持は椅子に戻った。「でも、違うんです。部屋の寸法が変わり始めたんですから」
「寸法が?」
「ええ。お父様が測ってくださった後、私も自分で壁までの距離を測ってみました。そうしたら、お父様が測った数値と同じになっていたんです。3.6メートル。でも、私の部屋は本来4.2メートルあったはずなんです」
私は測距儀を取り出した。
「測ってみてもいいですか」
「どうぞ」
私は壁に向けて測距儀のレーザーを当てた。
数値が表示される。
4.2メートル。
「4.2メートルです。正常ですよ」
倉持は首を振った。
「今は、そうかもしれません。でも、私が測ると違うんです。貸していただけますか」
私は測距儀を倉持に渡した。
倉持は慣れた手つきで測距儀を構え、同じ壁に向けた。
数値が表示される。
3.6メートル。
私は息を呑んだ。
「おかしい」
「おかしいのは、私の方です」倉持は測距儀を私に返した。「私が測ると、母の実家の部屋の寸法になる。でも他の人が測ると、正常な寸法になる。つまり、私だけが、あの部屋の中にいるんです」
私は混乱した。
「それで、父に何があったんですか」
「お父様は、測量の翌日、もう一度私を訪ねてこられました。顔色が悪く、憔悴しておられました。そして言われたんです。『あなたの部屋を測ったことで、私も赤い部屋に引きずり込まれ始めている』と」
私の背筋に冷たいものが走った。
「お父様は、ご自宅の壁が赤くなり始めたと言われました。そして、部屋の寸法が変わり始めたと。『測量は、空間を確定させる行為だと思っていた。でも違った。測量は、空間を呼び出す行為だった』と」
「呼び出す?」
「ええ。記憶の中の部屋を測ることで、その部屋が現実に侵食してくる。測量士は、その触媒になるんだと。お父様はそう言って、私に二度と部屋のことを思い出さないよう懇願されました。そして、帰っていかれた。それが最後です」
私は立ち上がった。
「父はどこに行ったんですか。何か言っていませんでしたか」
「一つだけ」倉持も立ち上がった。「『もし私が戻らなかったら、娘に伝えてほしい。赤い部屋を測るな。絶対に』と」
私は唇を噛んだ。
父は私を守ろうとした。赤い部屋から。
しかし、今、倉持は私に測量を依頼している。
「なぜ、私に依頼したんですか。父が警告したのに」
倉持は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。でも、私にはもう時間がないんです。赤い部屋が、日に日に広がっています。このままでは、私は完全にあの部屋に飲み込まれる。お父様のように、消えてしまう」
「だったら、なおさら測るべきではないのでは」
「逆です」倉持は顔を上げた。「お父様が消えたのは、測量が中途半端だったからではないかと思うんです。もう一度、正確に測り直す。そして、部屋との関係を断ち切る方法を見つける。それしか、道はないんです」
私は鞄から父のノートを取り出した。
「『測定不能』と書いてあります。父は、測れなかったんです。あなたの部屋を」
「そうかもしれません」倉持は認めた。「だから、お嬢さんに賭けたいんです。お父様の技術を受け継いだあなたなら、測れるかもしれない」
私は迷った。
父は私に「測るな」と言った。
しかし、測らなければ、倉持は消える。そして父の失踪の謎も、永遠に解けない。
「条件があります」私は言った。「測量の後、父が何を見たのか、何を経験したのか、全て教えてください」
「お約束します」
私はノートとペンを取り出した。
「では、始めましょう。あなたの記憶の中の部屋について、できるだけ詳しく教えてください」
倉持は目を閉じた。
そして、語り始めた。
*
倉持の記憶は、驚くほど鮮明だった。
「部屋は母屋の奥にありました。廊下を抜けて、左手に襖があります。襖は四枚。引き手は真鍮製で、菊の模様が彫られていました。襖を開けると、六畳の部屋。畳の縁は紺色。畳の目は南北方向です」
私はメモを取りながら、頭の中で部屋を再構築していく。
「南側に窓があります。障子戸で、桟は横に三本、縦に十二本。障子を開けると、庭が見えます。庭には柿の木が一本。秋になると、たわわに実がなりました」
倉持の声が、温かみを帯びる。
「壁は赤土の土壁。左官職人が丁寧に塗った、滑らかな壁です。天井は板張りで、年輪の模様が見えました。天井の染みを数えて、眠りについたものです」
「押し入れは?」
「東側にあります。襖は二枚。中は上下二段。上段には布団が入っていました。下段には、母の荷物。古い着物や、写真の入った箱」
私は部屋の輪郭を、ノートに描いていく。南北3.6メートル、東西3.6メートル。六畳間の標準的な寸法。
「天井の高さは?」
「2.4メートルほど。私が立って、手を伸ばせば届くくらいでした」
私は計算する。体積は、約31立方メートル。
「その部屋で、何をしていましたか」
倉持は目を開けた。
「生まれたんです。その部屋で」
私の手が止まった。
「母が私を産んだ部屋です。昭和二十三年、冬。母は実家に戻って、あの部屋で私を産みました。産婆さんと、祖母が立ち会って。母はよく話してくれました。雪の降る日だったと。窓の外の柿の木に雪が積もっていたと」
倉持の目が潤んでいる。
「母は私が三歳の時に死にました。病気で。それから父に引き取られて、母の実家には行かなくなりました。実家は二十年前に取り壊されました。もう、何も残っていません」
「でも、あなたの中には残っている」
「ええ」倉持は頷いた。「鮮明に。あの部屋の温もり。畳の匂い。障子越しの光。全部、覚えています。私の原点が、あの部屋にあるんです」
私は理解した。
この部屋は、倉持にとって子宮だ。生まれた場所であり、母との繋がりの象徴。失われた居場所。
そして、それを測ることは——。
私は測距儀を握りしめた。
「測ります」
*
測量には、三時間かかった。
倉持の記憶を元に、私は部屋の全ての要素を数値化していった。襖の位置、障子の桟の間隔、押し入れの奥行き、天井の染みの位置。
倉持は目を閉じたまま、私の質問に答え続けた。時折、手を動かして、空中に部屋の輪郭をなぞる。その手つきは、まるで彫刻家が粘土をこねるようだった。
不思議な感覚だった。
私は実在しない部屋を測っている。しかし、測れば測るほど、その部屋が鮮明になっていく。頭の中だけでなく、この部屋の空気の中に、赤い土壁の部屋が浮かび上がってくるような。
測量士として五年。私は空間認識能力を訓練してきた。平面図から立体を想像し、寸法から空間を再構築する能力。
その能力が今、倉持の記憶と共鳴している。
私は、赤い部屋を見ている。
いや、見ているのではない。
感じている。
ここに、ある。
倉持の記憶の中にだけ存在していたはずの部屋が、今、この空間に重なり始めている。
「終わりました」
私は最後の数値をノートに記した。
倉持は目を開けた。
「ありがとうございます」
私は計算結果を読み上げた。
「南北3.6メートル、東西3.6メートル、天井高2.4メートル。総面積12.96平方メートル、体積31.104立方メートルです」
倉持は深く息を吐いた。
「やはり、そうでしたか」
「この寸法で、間違いありませんか」
「ええ。お父様が測ってくださった時と、全く同じ数値です」
倉持は封筒を取り出し、私に差し出した。
「測量費用です」
私は封筒を受け取った。指が微かに震えている。自分の指か、倉持の指か、わからない。
「倉持さん、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「なぜ、この部屋の寸法を知りたかったんですか」
倉持は微笑んだ。
「証明したかったんです。あの部屋が確かに存在したと。母が生きた場所。私が生まれた場所。それは幻ではない。記憶の捏造でもない。確かに、そこに在ったんだと」
「測ることで、証明できるんですか」
「ええ」倉持は頷いた。「測れるものは、存在する。お父様が言っていた言葉です」
私の胸に、小さな違和感が刺さった。
父の言葉。
測れるものは、存在する。
では、存在しないものを測ったら?
存在しないものが、存在し始めるのか?
「ありがとうございました」私は立ち上がった。「何かあれば、連絡してください」
「ええ。岡田さんも、お気をつけて」
倉持の目に、何か言いたげなものが浮かんでいた。
しかし、彼は何も言わなかった。
私は倉持の家を後にした。
*
帰り道、私は奇妙な感覚に囚われた。
空間の感覚が、ずれている。
駅までの道が、いつもより長く感じる。いや、長いのではない。距離感が狂っている。
私は立ち止まり、周囲を見回した。
いつもの商店街。八百屋、魚屋、小さな喫茶店。何も変わっていない。
しかし、何かが違う。
空間の密度が、変わっている気がする。
私は測距儀を取り出した。
向かいのビルまでの距離を測る。
15.3メートル。
もう一度測る。
15.3メートル。
同じだ。正常だ。
私は測距儀をしまい、歩き出した。
気のせいだ。倉持の話に影響されて、過敏になっているだけだ。
自宅のアパートに着いたのは、夕暮れ時だった。
三階の自室に入り、私は鞄を床に置いた。
部屋は変わらない。いつもの部屋だ。
私はソファに座り、ノートを開いた。
倉持の部屋の測量データ。
数値の羅列。
しかし、その数値から、赤い土壁の部屋が浮かび上がってくる。
私は目を閉じた。
見える。
六畳の部屋。南向きの窓。障子越しの光。赤い土壁。畳の縁は紺色。
そして——。
私は目を開けた。
壁を見る。
白い壁紙。
何も変わっていない。
私は立ち上がり、壁に近づいた。
壁紙に触れる。
冷たい。滑らかな。
普通の壁だ。
私は測距儀を取り出した。
壁までの距離を測る。
4.2メートル。
いつもと同じだ。
私は安心して、シャワーを浴び、夕食を作った。
テレビをつけて、ニュースを見る。
普通の夜だ。
何も変わらない。
私はベッドに入り、目を閉じた。
しかし、眠れなかった。
頭の中に、赤い部屋が浮かんでいる。
倉持の記憶の部屋。
いや、もう倉持だけの記憶ではない。
私も、その部屋を知っている。
測ったから。
数値を記録したから。
その部屋は今、私の中にもある。
私は目を開けた。
天井を見る。
白い天井。
何も——。
いや。
天井の隅に、小さな染みがある。
私は今まで、その染みに気づいたことがなかった。
染みは、三つ。
小さな、茶色い染みが、三つ。
倉持の部屋の天井にも、染みがあった。
三つ。
まさか。
私は跳ね起き、電気をつけた。
天井を見上げる。
染みは、確かにある。
三つ。
しかし、配置が違う。倉持の部屋の染みは、もっと中央寄りにあった。
私の部屋の染みは、隅にある。
別物だ。
私は自分に言い聞かせた。
偶然だ。
染みなど、どの部屋にもある。
私はベッドに戻った。
しかし、眠れない。
何かが、おかしい。
私は再び起き上がり、測距儀を手に取った。
壁までの距離を測る。
4.2メートル。
変わらない。
しかし、念のため、もう一度測る。
4.1メートル。
私は息を呑んだ。
10センチ、近い。
気のせいか。測定誤差か。
私は測距儀を確認する。電池残量は十分。レンズも汚れていない。
もう一度、測る。
4.0メートル。
また縮んだ。
私の心臓が、激しく打ち始めた。
予備の測距儀を取り出す。父の測距儀だ。
同じ壁に向ける。
3.9メートル。
私は床に座り込んだ。
壁が、近づいている。
いや、部屋が、縮んでいる。
私は立ち上がり、窓を開けた。
外の景色を見る。
いつもと変わらない。隣のアパート、街灯、夜空。
しかし、部屋の中だけが、何かに押されるように縮小している。
私は全ての壁を測った。
東の壁:3.8メートル。
西の壁:3.7メートル。
南の壁:3.6メートル。
北の壁:3.6メートル。
3.6メートル。
倉持の部屋の寸法だ。
私の部屋が、赤い部屋に置き換わり始めている。
私は携帯電話を掴んだ。
倉持に電話しなければ。
しかし、その時、携帯電話が鳴った。
倉持からだった。
私は震える手で、電話に出た。
「もしもし」
「岡田さん、申し訳ありません」倉持の声が震えている。「あの部屋のことなんですが、もう一度測り直していただけないでしょうか」
私の背筋に、冷たいものが走った。
「どうしたんですか」
「部屋が、大きくなっているんです」
「大きく?」
「ええ。最初は六畳だと思っていました。でも、よく思い出すと、もっと広かった気がするんです。八畳、いや、十畳くらいあったかもしれません。角には押し入れが二つあった気もします。記憶が、膨らんでいくんです」
私は自室の壁を見た。
壁紙の白が、微かに赤みを帯びているように見える。
「倉持さん、その部屋のことを考えるのを、今すぐやめてください」
「え?」
「思い出さないでください。今すぐに」
私は電話を切り、再び壁を測った。
3.6メートル。
南北3.6メートル、東西3.6メートル。
倉持の部屋の寸法だ。
測れるものは、存在する。
では、測ってしまったものは、存在し始めるのか。
私は窓の外を見た。
隣のアパートが、歪んで見える。
いや、アパートが歪んでいるのではない。
私が見ている空間そのものが、湾曲し始めている。
私は鞄を掴み、部屋を飛び出した。
外に出れば、正常な空間に戻れるはずだ。
しかし、階段を降りながら、私は気づいた。
廊下の幅が、少し狭くなっている。
天井が、低くなっている。
そして、壁の色が——。
微かに、赤みを帯び始めていた。
私はアパートを飛び出し、夜の街に走り出た。
どこに行けばいい。
どうすればいい。
父は、こうして消えたのか。
赤い部屋に、飲み込まれて。
私は走り続けた。
しかし、どこに向かっているのか、もうわからなかった。
ただ一つ、わかっていることがある。
私は、測るべきではなかった。
あの部屋を。
そして今、私は代償を払い始めている。
携帯電話が、また鳴った。
私は立ち止まり、画面を見た。
倉持からだった。
私は電話に出た。
「もしもし」
しかし、電話口から聞こえたのは、倉持の声ではなかった。
「冴」
私は息が止まった。
「冴……帰って……来るな……」
父の声だった。
五年前に消えた、父の声。
「お父さん? お父さんなの?」
しかし、電話は切れた。
私は震える手で、再びダイヤルした。
しかし、繋がらない。
「お父さん!」
私は叫んだ。
夜の街に、私の声だけが響いた。
そして、静寂。
私は膝をつき、アスファルトに手をついた。
父は、生きている。
どこかに。
赤い部屋の、中に。
私は顔を上げた。
行かなければ。
父を、探さなければ。
たとえ、私も赤い部屋に飲み込まれたとしても。
私は立ち上がった。
そして、歩き出した。
父の声が聞こえた方向へ。
赤い部屋の、在処へ。
(第一話 了)
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