散り際

真狼/まかみ

第1話

 満開の桜が咲き乱れる人里離れた山の麓。

 透き通るような青空の下で、まだ肌寒い風が梢を揺らし、桜の花弁を散らしている。


 くすんだ麻の着物に、瓢箪を肩から提げた白髪の老人は、どこか良い花見の場所はないかと辺りを見回しながら歩いていた。

 すると、一際鮮やかで美しい桜を咲かせる木を老人は見つけた。

 その辺りは、花見をするのにうってつけの開けた場所になっている。


「うむ、ここにしよう」


 老人はそう言って、花弁が彩る地面にそっと腰を下ろした。

 肩から提げていた瓢箪を外し、胡座をかく足のそばに置いて、目の前の鮮やかな桜に視線を向ける。


 その桜の木は、他の木々よりも艶のある樹皮をしていて、幹も枝も細いが、力強く天に伸びている。まだ若桜なのだろう。だが、その枝の先に咲き誇る桜は鮮やかな薄紅色で、全体を見ると、まるで羽衣を纏った天女のようだった。


 老人はその姿を見て穏やかな笑みを浮かべると、着物の懐から朱色の小さな盃を取り出した。そして瓢箪を取り、盃にトクトクと酒を注ぐ。

 盃を酒が満たすと、老人は桜に視線を戻し、遠くから聞こえてくる鳥の囀りに耳を傾けながら、満足そうにして盃を口元へ運んだ。

 甘く芳醇な酒が喉を通り、風が運ぶ桜の甘い香りと酒の匂いが混ざり合って幻想的な気分になる。


「わしは幸せ者じゃ。人生の終わりにこんなにも美しい桜と共に酒を飲めるとは。わしはもう長くはない。来年の春まで生きられるかどうか。じゃが、お前さんのお陰で幸せな気持ちのまま死ぬ事ができる。ありがとさん」


 老人はそう言って微笑むと、一人静かに花見を楽しんだ。


──それからしばらく経ち、夏がやって来た。


 老人は涼しい昼下がり、散歩がてらあの山の麓へとやって来た。

 老人の頬は前来た時よりも少しこけていて、体もほっそりとしているが、表情は穏やかだ。

 あのときは桜花爛漫だったその場所も、今では力強い青葉が生い茂っていた。


 緑の中を歩いていると、老人は穏やかな表情を一転させ、驚いた表情で立ち止まった。

 生い茂る青葉の中で、あの美しい桜の若木が、まだ鮮やかな桜の花をまばらに咲かせていたのだ。


「──どういう事じゃ?なぜまだ咲いておる?」


 老人は目を丸くして言った。

 一瞬の沈黙の後、老人は何かを悟ったのか、その桜の木へと歩み寄り、細い幹に手を触れた。

 そして、老人は静かに目を閉じる。


「──そうか。お前さんはまだ散りたくないのじゃな。永遠に美しいまま生きていたいのじゃな。ああ、お前さんの気持ちがよく分かるよ。わしはかつて死を恐れ、刀を捨てた。そして戦いから逃げ、妻を見殺しにした。わしは生き延びたが、心は既に死んでいた。……散る事を恐れれば、醜く生きる事となる。お前さんはそうはなりたく無いじゃろ?」


 老人は閉じた瞼から一雫の涙をこぼして言った。


「安心するのじゃ。わしはお前さんの美しさを忘れん。わしの中にお前さんは生きておる。さぁ、潔く散り、春にまた花開こう」


 老人はそう告げると、瞼をゆっくりと開いて、優しく微笑んだ。


 すると、突然心地の良い涼風が吹き、さわさわと梢が揺れる音が聞こえた。

 老人は幹からそっと手を離し、桜の木から数歩下がる。視線を少し上げると、視界に数枚の桜の花弁が飛び込んでくる。

 先程まで梢の先に咲いていた花々が、風に揺られて、まるで肩の力を抜くように散り始めたのだ。

 その光景を見て、老人は感嘆の声を上げた。


「はは、これは偶然か? いいや、偶然では無い。お前さんはわしの言葉を聞いてくれたのじゃな」


 老人は奇跡を目の当たりにしたように瞳を輝かせながら、舞い散る桜の下に佇んでいた。


「──もしもわしが次の春まで生きていたら、また会おう。その時は、わしは必ず戻って来る」


 老人はそう告げると、舞い散る桜を背に、穏やかな表情で去っていった。


──そして時が経ち、春がやって来た。


 老人は頬が痩せこけ、枯れ木の様な細い体で杖をつきながら、あの時の様に肩から瓢箪を提げて山の麓へとやって来た。


 満開になった桜の木々たちが、まるで老人がやって来た事を祝福するかの様に体を震わせ、桜吹雪を散らす。

 老人の足元には桜の絨毯が出来上がり、透き通る様な青空が春を暖かく見下ろしていた。


 その絨毯の先で、一際鮮やかに咲き誇る桜の若木が、老人を待ち侘びていた様に佇んでいた。

 老人はその姿を見て口角を上げると、杖をつきながらゆっくりと歩みを進めた。

 そして、桜の若木まで辿り着くと、木の幹を背にする様に腰を下ろし、杖を地面に置いた。


「お前さん、久しぶりじゃな。約束通り、わしは戻ってきたぞ」


 老人は声を震わせながらそう言って、瓢箪を地面に下ろした。そして、震えた手で懐から朱色の盃を取り出し、瓢箪を手に取って酒を注いでいく。注ぎ終えると、老人は盃を持ったまま、空を見上げた。

 青空を淡い薄紅色の桜が泳いでいる。


「人生の最後に、また美しく咲いたお前さんと会えて良かった。わしには勿体無いほどの幸せな散り際じゃ。ありがとさん」


 老人はそう言って天に盃を掲げ、一枚の桜の花弁が乗った酒を口へ運び、飲み干した。


 そして、風が運ぶ桜の甘い香りと、梢の揺れる音を聞きながら、穏やかな表情で目を閉じていく。


 老人は桜の若木に背を預けたまま、まるで天女に看取られる様な思いで、舞い散る桜の中で深い眠りについた。

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