第2話
あの日から三日目。
放課後の駅前、人の波がざわめくホームで、葵はふと──見覚えのある背中を見つけた。
(……楓さん?)
黒のシャツに細身のスラックス。
スーツじゃないのに、肩のラインが鋭く、周囲の学生たちが無意識に道を空ける。
まるで水面に落ちた石の周りにできる波紋のように、自然に距離が生まれていた。
胸の奥が、ざわざわと疼いた。
あの雨の夜以来、頭から離れなかった横顔。
怖いはずなのに、なぜか──安心してしまう。
「あ、あの……!」
声をかけるより早く、楓が振り向いた。
ちょっと眠そうな、でもどこか優しい笑みが浮かぶ。
「おお、葵やん。奇遇やな」
その声に、鼓動が跳ねた。
「……ほんとに、偶然です」
(でも、こんなに嬉しいなんて……)
「こんなとこで何してんの?」
「友達とカフェに行く約束で……でも、私が早く着いちゃって」
「ほーん。ほな、そのカフェまで送ったるわ」
「い、いいです! そんな──」
「危ないやろ。最近この辺、変な噂も多いし」
声の端に、ほんの一瞬だけ冷たい響きが混じる。
葵の背筋に、小さな震えが走った。
でも、その震えは──怖さだけじゃなかった。
なぜか、守られているような、温かい予感がした。
(やっぱり……普通の人じゃない)
並んで歩く。
信号の赤が、楓の横顔を斜めに切り取る。
頬に走る薄い傷が、街灯に光って浮かび上がった。
「……その傷、どうしたんですか?」
思わず聞いてしまった。
声が、少し震えていた。
楓は指でそっと傷をなぞる。
「ん? これか。昔、ケンカしてな。たいしたモンやない」
「ケンカ……?」
「まあ、仕事のうちや」
仕事。
その一言に、葵の胸がざわめいた。
知らない世界。
近づいてはいけない場所。
でも、なぜか──その“何か”に、惹かれてしまう。
「楓さんって、どんなお仕事なんですか?」
「言うたら……裏の仕事、かな」
「裏……?」
「怖がらんでええ。悪いことしてるわけやない。
ただ、表立って言えへんこともある、っちゅうだけ」
笑顔は変わらない。
でも、その奥に潜む“何か”が、葵の心を小さく揺さぶった。
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
──この人は、私を傷つけない。
そんな、根拠のない確信が胸に広がる。
(極道……? ヤクザ……?)
「……顔に書いてるで。『怖い』って」
「えっ、ち、違っ──!」
「俺はな、葵に怖がられたら、それが一番嫌や」
低い声で、でも確かに届いた。
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
まるで、心の奥に隠していた“怖さ”を、優しく包み込まれたみたいに。
「……怖くないです」
気づけば、口から零れていた。
自分でも驚くほど、自然に。
楓は少し目を丸くして、
「……ええ子やな」
と呟くように言った。
大きな手が、葵の頭にそっと乗る。
ぽん、と軽く撫でられて、
胸がぎゅうっと熱くなった。
──温かい。
あの雨の夜、握られた手の温もりと、同じ匂いがする。
(どうして……こんなに、安心するんだろう)
(どうして……こんなに、胸が痛いんだろう)
カフェの前で立ち止まる。
ガラス越しに、友達の姿はまだ見えない。
「ほな、またな」
楓が踵を返す。
「……また、会えますか?」
気づいたら、言葉が追いかけていた。
声が、少し震えていた。
楓は振り返り、
少し驚いたように目を細めた。
「当たり前やろ。
葵が『もうええ』って言うまで、な」
その笑顔に、
雨の夜の記憶が、ふっと重なった。
──傘を差し出してくれた手。
温かい缶コーヒー。
小さく振られた手。
でも、名前は……思い出せない。
でも、この温もりは──
どこかで、知っている。
葵はまだ知らない。
この再会が、
十年前に途切れた“糸”を、再び繋ぎ始めたことを。
そして、この“糸”が、
いつか溺れるほどに絡み合うことを。
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