ヤクザの姫、溺愛契約

たまごたまご

第1話

放課後の帰り道、葵はいつもの道を外れ、人通りの少ない裏路地に迷い込んでいた。

スマホの地図を睨みながら首をかしげていると──

前方で、どすん、と重い音がした。

びくっとして顔を上げると、

黒いスーツの男たちが数人、ひとりの青年を囲んでいた。

「……ちょ、なに……?」

足が竦んで動けない。

そのときだった。

「──やめとけ。」

低く、よく通る声。

次の瞬間、風を切るような速さでスーツの男が吹っ飛んだ。

雨の匂いが混じる夕暮れ。

立っていたのは、黒いコートを羽織った青年。

少し乱れた髪に、鋭い眼差し。

「……見てもうたんか」

優しさと威圧感が溶け合った声に、葵は思わず一歩後ずさった。

彼は小さくため息をつき、傘を差し出した。

「雨、降ってきよる。傘ぐらいさしたらええ」

「え、あ……ありがとう、ございます……」

「えらい震えてるな。怖かったやろ」

「……だって、いきなり人が……」

「心配せんでええ。あいつらはウチの組のアホどもや」

(……組?)

「まぁ、気ぃ悪くすんな。女の子に見せるモンちゃうかった」

彼はふっと笑うと、表情が少しだけ柔らかくなった。

「名前、聞いてええか?」

「……葵、です」

「葵。ええ名前やな。俺は楓。かえでや」

「楓さん……」

その名前を口にした瞬間、

ふっと、遠い記憶がよぎった。

──10年前の、土砂降りの夜。

母と喧嘩して家を飛び出した7歳の自分。

冷たい雨に打たれ、路地裏でうずくまっていたら、

大きな傘が頭上に広がった。

「おい、小っちゃい子がこんなとこで何しとんねん。泣いとるやん」

声は今よりずっと幼くて、でも頼もしかった。

びしょ濡れの少年が、自分の上着を脱いで肩にかけてくれた。

「ほら、これ着とき。風邪ひくで」

震える手を握られ、近くのコンビニまで連れて行かれた。

レジで買ってもらった温かい缶コーヒー。

蓋を開けて「飲めや」と差し出され、

甘くて、苦くて、でもすごく温かかった。

「名前、教えてや」

「……あ、葵……」

「葵か。ええやん。ほな、俺は……」

──少年は何か言った気がする。

でも、雨音と泣き声で、はっきり聞こえなかった。

母が迎えに来て、慌てて連れ戻された。

振り返ると、少年は雨の中に立って、小さく手を振っていた。

それきり、二度と会うことはなかった。

「……どしたん? ぼーっとして」

「い、いえ……なんでもないです」

「……そっか」

楓は優しく微笑んだ。

その笑顔に、一瞬で心臓が跳ねた。

「家、どこ? 送ってったる」

「えっ……! い、いえ大丈夫です!」

「夜道、危ないやろ。知らん男についてくな──」

少し笑って、

「……けど俺は例外や」

(例外って、なにそれ……)

胸が熱くなり、雨音が遠のく。

葵は知らなかった。

この人が──

あの夜、自分を助けてくれた人だということを。

楓は知っていた。

この子が──

あの雨の夜、泣きじゃくる小さな女の子だということを。

缶コーヒーの甘い匂いも、震える小さな手も、

全部、覚えてる。

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