第3話 西の林の冒険
あの日のことを、何度も思い出す。夜に思い出せば目が冴えて眠れなくなるし、朝に思い出せば体がうずうずして落ち着かない。
胸の高鳴りを抑えきれず、足は自然に北地区の大階段へ向かっていた。まずそこを見て、ペルシュがいないことを確かめる。それから西地区へ足を運ぶ。
別れる時に次の約束をしていなかったせいで、トゥヴァリはペルシュに会えないでいた。
家を知っていれば良かったのに。そう思ったとき、ふと気づく。ペルシュが自分の家を知りたがったのは、からかうためではなく、いつでも遊びに来られるようにだったのかもしれない。
ーー「ルディの家って、どんな家?」
あのときのきらきらした目を思い出す。いや、ただの好奇心かもしれない。宮殿みたいに、俺の家も冒険の場所だと思っただけなのかも。
そう考えると、何だか笑いが込み上げてきた。
広場では子どもたちが集まって遊んでいる。笑い声のそばを通り抜けるとき、また「ルディ」とからかわれるだろうと分かっていた。それでも、もう気にならなかった。
宮殿の中の様子。壁の外の景色。――その秘密を知っているのは、トゥヴァリとペルシュだけなのだから。
トゥヴァリは林に入って、ペルシュと初めて会った倒木の上に腰を下ろした。
「あ! トゥヴァリ!」
遠くに見えた赤毛が、大きく手を振って自分の名前を呼んでいる。
トゥヴァリは嬉しくなって、駆け寄った。
「親に怒られて、もう来れないかと思ったぜ」
「怒られる? そんなわけないじゃん」
ペルシュは肩を竦めてみせた。トゥヴァリはペルシュのことがますます気に入った。
「ねえ、今日も冒険するよね?」
「いいぜ。また宮殿に行くのか?」
「宮殿か……」
ペルシュは空を見上げる。
「本当に宮殿に入れたのかな。夢でも見ていたんじゃないかって思わない?」
「まさか」
その感覚はトゥヴァリにもあった。宮殿でのことを思い出そうとすればするほど、頭の中に靄がかかっていくようだ。
「自分のことを信じられないのって、何だか怖いよね……」
ペルシュがそう言うので、トゥヴァリもごくりと喉を鳴らした。
「ふ、ふーん。怖がりペルシュ。大したことないな」
意味もなく小石を拾い、軽く投げては掴み、右手を遊ばせる。
「じゃあ、もう冒険はしないのか?」
「するよ! ねえ、トゥヴァリは何で林に来たの?」
――お前を探してたから。毎日、宮殿と林をうろうろしてたんだ。
そう言うのは何となく恥ずかしい。
「面白いからだよ。色んなものが落ちてるし」
それもまた、トゥヴァリの本心だった。
二人は林の奥へ進んだ。木の根は地面の上に盛り上がり、倒れた幹を渡れば小川を濡れずに進める。積もった葉を蹴るとふわりと舞い上がり、ぱらぱらと頭に降りかかる。
薄暗がりの中、精霊の光がいくつも揺れている。
「面白いよね。それであの日、トゥヴァリはここに来たんだ」
「あの日?」
「うん。初めて会った日」
「ああ……うん、そうだよ」
話しながら歩いているうちに、影の色が濃くなっていく。だんだんと生い茂る草、積み重なる落ちた枝葉に足を取られ、歩きにくくなっていく。
「この先は西地区の誰も行かないんだ。大人も子どもも。あまり奥まで行っちゃいけないって言われてる」
「へえ。言われてるって、親に?」
「みんなにだよ」
「なあ、ペルシュ。今日は俺の行きたい場所に行こうぜ。この前は、お前が見たいから宮殿に行っただろ?」
ペルシュは一瞬で理解したらしく、トゥヴァリを見つめる目が前と同じように輝いた。
「良いよ!行こう!トゥヴァリはどうして林の奥へ行きたいの?」
「...探してるんだ」
トゥヴァリは声を顰め、手招きをしてペルシュを近くに呼ぶ。目だけを左右に動かして、精霊の光が遠くにあることを確認する。
「外への出口を」
「ええ!?」
「しーっ!...いいか、東と南は壁が続いているだけだ。北の宮殿は……まだ行ってないところがあるけど、後回しだ。西側の壁は林で隠れているから、本当は外に出られるかもしれないだろ」
「すごいや、トゥヴァリ! そんなこと考え付かなかったよ」
ペルシュはもう迷いはしなかった。林の奥へ行ってはいけないーーー幼い頃から言い聞かされたことを守ろうとしただけで、冒険となれば話は別だ。
二人は、落ち葉の山をかき分けて進んだ。どちらかが飛び出た木の根に躓けば、互いに手を伸ばして助け起こした。低く生えた太い枝にぶら下がれるか、勝負のように競い合った。
やがてお腹が空いてきたとき、目の前に木の実が二つ降ってきた。落ち葉の山がそれを受け止める。
上を見上げても同じ木の実は見当たらない。代わりに、淡く白い光が二人の視界にふわりと入った。
「赤い実だ! ありがとう」
「赤い実? りんごだろ」
「りんごって? 何で知ってるの?」
「何でって……アイピレイス様に見せてもらった本に、描いてあったんだ」
「ええー、ずるい!」
二人は木に寄りかかり、赤い木の実に齧り付いた。
「外に出ちゃったら、生きていけるかなあ」
ペルシュが珍しく、不安を口にする。
「何が?」
「知らないことが多すぎて、怖いんだ」
「へーえ、お前でも怖がることがあんだな」
「だってさ、食べ物がもらえなかったら? 外には家もないんだよ」
「じゃあ、精霊を捕まえて連れていこうぜ。そうすれば食べ物も家も出してくれる」
「頭が良いね、トゥヴァリ! ねえ、どうして精霊は人の世話をしてくれるんだろう?」
「精霊王セレニアが命令したんじゃないのか?」
「じゃあ、どうしてセレニアは人の世話をしてくれるの?」
「……お前ってさあ、俺より変な奴」
トゥヴァリは苦笑して、齧ってもあまり美味しくなかった芯を投げ捨てた。
アイピレイスが気にかけてくれる以外、彼はほとんど他人と関わらない。他人は精霊のように世話をしてくれるわけでもないのだから、関わる必要もない。
そんなトゥヴァリでも、こんなことを言うのがペルシュだけだと知っている。なにせ、宮殿に入りたいと思って、本当に入ってしまうような奴だ。
「...そういえば、宮殿の中には精霊っていなかったよな。林の中にだって幾つかいるのに」
「じゃあ、きっと賢人様の食事は、精霊王セレニアが出しているんじゃない?」
「それじゃ、賢人様の方が偉いみたいじゃないか」
トゥヴァリは苦笑した。精霊王セレニアは、ほかの精霊とは違う。アルソリオのはじめの人々を助けた救世主で、賢人様たちを選んだのもセレニアなのだ。
「あ、わかった。賢人様たちは不死だから、食事はいらないんだ」
「? 何で不死だと食事がいらないんだ?」
「だって、食事って生きるために必要でしょ?」
「腹が減るから食べるんじゃないのか?」
「???」
ペルシュは、死ぬってことを教えてくれた時と同じように、考え込んで悩んでいた。またそういうことか、とトゥヴァリは理解する――親がいないから、知らないんだ。
「えーと、あの時さ、食べ物って元は生き物だって言ったよね。生き物には生気があって、それは生きるために必要なんだ。人間にも同じように生気があって……」
「ふうん?」
「こうやって動いていると、生気が減る。食べ物を食べれば生気が増える。食べるって、他の生き物の生気を取り込んで、自分の生気を増やすことなんだよ」
「……うん」
「お腹が空いたーっていうのは、生気が減ったから食事が必要だよーって、身体が教えてくれてるんだ」
「そうだったのか……何で腹が減ると動けなくなるんだろうと思ってたんだ」
トゥヴァリは思い出していた。昔、まだ何もわかっていなかった頃、同じことを誰かに尋ねた。北の広場の子どもたちにバカにされ、追い払われた。
ペルシュだけは違う。笑わないで考えてくれる。知らないことを教えてくれる。そして、自分にも知っていることがあるのだと、気づかせてくれるのだった。
二人は立ち上がり、再び歩き出す。木の実を出した精霊は、そのまま二人の周りをふわふわと漂いながらついてくる。
――外に出るには、精霊を連れていく必要がある。
二人は顔を見合わせる。何もかもうまくいっている。
それから、だいぶ歩いた頃。
「でも、おかしくないか?」
唐突に、トゥヴァリが言った。
「何が?」
「宮殿に精霊がいないのは、賢人様たちには食事が必要ない。魔法で死なないからだって言ってただろ?」
「そうだよ」
「俺たちが死なないためには、食事が必要なんだろ?」
「そうだよ」
「じゃあ、賢人様だって、死なないために食事が必要じゃないとおかしいだろ?」
「えーと……あれ? 違うよ。賢人様たちは死なないから、食事が必要ないんだ」
じゃあ、俺たちと賢人様は――。
トゥヴァリが言おうとした時、ちょうどペルシュが同じことを言った。
「賢人様は僕たちとは違う……」
しかし、その続きはもう二人ともどうでもよくなった。
今まで後をついてきていた精霊が、導くように二人の先へ飛んでいった。
木々の向こうが、白く光っている。
――林の向こうには、出口がある!
ペルシュもトゥヴァリも、その白くまばゆい光を見て、強くそう思った。
白い高い壁が、右にも左にもずっと続いている。
その一部に――二人が願ったように、扉があった。
しかし、それは本当に扉だろうか。黒い金属の棒が二人の進行を阻んでいる。
棒の間から、深い木々の連なりが覗く。宮殿の大窓から見た通りに、森が続いているのだ。
「トゥヴァリが言った通りだ!」
ペルシュが興奮して叫ぶ。
トゥヴァリは声も出せなかった。本当に、思った通りに扉を見つけた驚きと喜びで胸がいっぱいだった。
「ひ……開くんだよな……?」
扉に伸ばす手が震える。
アルソリオの外に出たい――最初は、自分だけがルディという惨めな存在で、この町が嫌いだったからそう願った。
だが、ペルシュと出会って変わった。ルディという存在も、案外悪くはない。ペルシュがいれば、アルソリオで暮らすのも嫌じゃない。
それでも、ペルシュも外に出たがっている。知りたがっている。最初に願った「アルソリオを出たい」という想いよりも、もっと、もっと強い願いが、今ここにある。
二人で外の世界を冒険したい!
扉は押しても開かなかった。よく見ると、鉄の棒が穴に通されていて、扉を止めていた。
ペルシュがその棒をずらすと、キィ、と金属音を立てて、鉄格子の扉は手前に開いた。
ドクン。
胸が高鳴る。自然と、同時に足を踏み出す。二人は、顔を見合わせる。
トゥヴァリは止めていた息を大きく吐き、吸った。土の香り、湿った草の匂い。空気に満ちた林の息吹が、胸の奥まで染み渡る。
景色は、今までの林と変わらないはずだった。木がたくさん生えているのは同じなのだから。
しかし、何かが違っていた。落ち葉は一面に積もっておらず、木々の葉が風もないのに揺れる。低木や草には、細い糸が幾重にも張られている。
「…何かがいるよね?」
近づいては遠ざかる、何かの音。軋むような高い音。足元を走り抜けて行く、小さな気配。
視界に入ったのは、ひらひらと舞う、光らないのに精霊のような動きをするものだった。
「色んなのがいる。人間じゃないものが、たくさん!」
「動物も?」
「そうだろうな。動物は……そう、大きいんだ。小さいのは……確か、虫っていうんだ。アイピレイス様に教えてもらったことがある」
「すごい、トゥヴァリ! じゃあ僕の見つけたいもの、ジェニマスさんがどうなったかも調べられるね!」
「ああ、いいぜ。俺の探し物は見つかったから、また死んだらどうなるかを確かめよう」
トゥヴァリが笑いかけたその瞬間、グルルルルル、と音がして、自分じゃない方がまたお腹をすかしているのかな、と二人は思った。
グルルル……。
低い唸りが、林の奥から滲み出すように響いた。
「……何だろ?」
ペルシュの言葉と同時に、草木がざわざわと揺れた。
風ではない。枝が折れる音がした、と思った。
次の瞬間。
黒い影が飛び出した。
巨大な毛むくじゃらの塊が、まっすぐにペルシュへ襲いかかる。重い衝撃音。ペルシュの身体は、まるで木の枝のように弾き飛ばされた。
血がパタパタと、地面に飛び散る。
「ペルシュ!」
ぐったりと動かないペルシュに、黒い動物が近寄る。食らいつき、引き摺ろうとする。ペルシュの顔は真っ赤に染まっていて、どうなっているのかわからない。
トゥヴァリは駆け寄ろうとした。ところが足が動かない。手も足も、顎さえもガクガクと震えて、力が入らなかった。
すると黒い動物が鼻先を上げ、こちらを向く。黒くて丸い小さな目が、トゥヴァリを見つめている。
「……!」
叫びたいのに、声が出ない。息ばかりが漏れて、肺に空気が入ってこない。胸が締めつけられる。頭の奥が真っ白になって、目の前の光景が滲む。
その時だった。光の球が、トゥヴァリの横を凄い速さで飛んでいった。白かった光が、赤に変わった。
「せ…精霊…?」
赤い光は点滅しながら、黒い動物の鼻先に近づく。
動物の動きがぴたりと止まる。毛むくじゃらの体の周りが、赤く光り出す。やがて、ぶるぶると震えながら首をもたげ、次の瞬間――全ての力を失って地面に倒れた。
一瞬、森が揺れる。
トゥヴァリは呆然と立ち尽くしていた。全く動かない動物。全く動かないペルシュ。
――静寂。
恐る恐る、近づこうとしたその時、
「ああ、びっくりした」
唐突に声がして、ペルシュがむくりと起き上がった。傷ひとつなく、何事もなかったかのように。
ペルシュは落ち葉を払いながら、少し首をかしげて言った。
「今、何がどうなったんだろう」
それはトゥヴァリにも分からなかった。
ペルシュは黒い毛の塊をしげしげと見つめる。生き物だったそれはもういない。ただの物になって、目の前に転がっている。
「たぶん精霊が何かして…赤く光ってたんだ、精霊が」
光の球がペルシュの後ろをゆっくりと漂っている。当然のように、白い。赤く光ったなんて言っても信じてもらえないかもしれない。
しかし、ペルシュは驚いて言った。
「それって、順番の時の光だ。じゃあ、この動物、死んだんだよ!」
「死んだ…?」
すると突然、動物の死体が、二人が見ている目の前でふっと姿を消した。
「え?」
あんなに大きなものが、もうどこにもない。残っているのは、ペルシュの血の跡だけだ。
「…“アルソリオが出来た頃、精霊は人間の目の前で食べ物をバラバラにした。皆がとても嫌がったから、人間の前ではやらなくなった――”」
ペルシュが険しい顔で言う。
「ジェニマスじいさんが話してくれた昔話だよ」
普段通りのペルシュに、トゥヴァリの体の力が抜ける。ずっとガクガク震えていた足は体を支えられず、土にどすんと尻もちをつく。
「大丈夫!?トゥヴァリ!」
心配そうに覗き込むペルシュの顔。その半分が飛び散った光景が、脳裏には確かに浮かぶ。
「いや、お前…お前がさあ…」
まだ声が震えている。トゥヴァリは深く長いため息を吐いた。
(良かった……)
ペルシュの怪我を全部、精霊が治してくれたんだ。ペルシュも死んだというように見えたから、どこかへ消えないで本当に良かった。
少し時間が経った頃。
「外に出ると、こんなことも起こるんだね」
さっき起きたことを話し合いながら、ペルシュも、トゥヴァリも、これ以上先に進んで良いのか迷っていた。
わかるのは、精霊がいたから助かったということだけ。どうしてああなったのか、何をすればよかったのか、あの動物は一体何なのか。その答えは、何も見つからない。
「精霊が赤く光ったってことは、あの動物は順番だったのかな?」
「順番?」
「そう、四十歳の順…ばん…?」
違う言葉が頭に浮かぶ。話していたことが、かんがえていたことが、頭の隅に追いやられていく。
二人は顔を見合わせた。
誰かに話しかけられている?
『おやおや、こんなところまで来て』
言葉は頭の中で声となって響く。お互いが口を開けていないことを確認しながら、二人は辺りを見回した。
目の前に、馬が立っていた。いつの間に現れたのかはわからない。
宮殿の天井画に描かれていた、風に光り靡く草原の色をした馬――それがそこにいた。
『さあ、おかえり』
二人が瞬きをしたその瞬間。
周りの景色が変わっていた。林の入り口が向こうに見える、西地区の広場に立っている。
「またかよ!」
トゥヴァリは怒って石畳の地面を蹴った。けれどその足に、さっきまでの震えはもう残っていなかった。
「す…すごいよ。あれはきっと、馬の大精霊だ!」
ペルシュは声を弾ませる。
「“セレニアが生まれた時、他にも同じように大精霊は生まれた。しかし、多くの大精霊は理性を持たず暴れ、周りにあるものを喰らい尽くした。理性を持った巨鳥と駿馬の大精霊は、大猿と
ペルシュはいつも通りだ。……無事に戻れた。安堵がじわりとトゥヴァリの胸を満たした。
ところがペルシュは、トゥヴァリが怒っていると思ったようだ。
「帰り道の手間が省けるって、楽ちんだよね」
と、慰めるように笑う。すると二人の頭上で、精霊がくるくると踊った。
それはまるで、無事に帰ってこられたことを祝っているかのようだった。
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