第2話 宮殿の冒険
食事に使ったものが全て片付いた広場は、小さな子どもたちの遊び場だ。
たどたどしく歩くフラフィオンやソマリーが、淡く白い光に手を伸ばしながら後を追う。
喋れるようになったアレンミオが、「まって、ふわふわ!」と別の精霊を追いかける。
走れるようになった子たちは少し離れた場所で追いかけっこをする。誰かが転ぶとすかさず精霊が飛んでいって、擦り傷を治している。
ほんのちょっと前まで、ペルシュもここにいた。夢中になって遊んでいたのに、もう楽しいと思えない。
レニスたちが意地悪だから?
小さい子を蹴飛ばしそうで本気を出せないから?
アーチやミルシュカは、「大人になったから」だと言う。
でも、ペルシュは「違う」と思う。
同じ場所で同じことを繰り返すのがつまらないからだ。
「改めて見ると、でっかいなあー」
約束の、昼の食事のあと。
ペルシュはトゥヴァリと、北の広場の大階段の前にいた。
「冒険って、まさかここじゃないよな?」
「それ、何が入ってるの?」
ペルシュはトゥヴァリの背中の大きな袋を指差して言った。
「別に何でもない!」
そう言って、背中を見せないようにする。ペルシュはしつこく覗き込んだ、するとトゥヴァリは面倒になったのか、そっぽを向いて小さく呟いた。
「...ふとん」
「布団?」
「帰れないくらい遠くまで行くかもしれないと思ったんだよ!」
トゥヴァリは怒っているようだ。
集合したのが西の林だったので、林の奥へ行きたかったらしい。「こっちこっち」と、引き摺って来たのだが、すっかり機嫌が悪くなってしまっている。
「もういい、お前となんか――」
ペルシュはトゥヴァリの口を塞いだ。レニスはこんなところにはいないだろうけれど、北地区の人たちがいるので声をひそめる。
「宮殿だよ。入ったことある?」
トゥヴァリは目を大きく見開き、首を横に振った。ペルシュは、にやりと笑う。
「大精霊セレニアと賢人様が住んでいるところって、どんなふうになってるのか知りたくない?」
「...そういう事かよ。すげーな、お前」
トゥヴァリはあっという間に機嫌を直した。やっぱりこの子とは気が合う、とペルシュは思う。
「だったら初めっからそう言えよ。これ、置いてくるから待ってて」
「えっ...家に?」
「ああ。すぐ戻る」
「じゃあ、北地区に住んでるってこと?」
ペルシュは、再びトゥヴァリにまとわりつく。
「ねえ、トゥヴァリって一人で住んでるの? ルディって他にもいる?」
「うるさいな、どうでもいいだろ」
トゥヴァリはペルシュを突き飛ばし、走って行った。追いかけたら本気で怒りそうだ。ペルシュは階段に座って待つ事にした。
(空は青、家と道は白い色……子どもは遊んで、大人はおしゃべり……)
自分の住む西地区の広場と同じように過ごす人々。北地区の広場は、他の地区より少しだけ広い。
このアルソリオの町の、はじまりの場所だからだ。
”ーーそうして、人も動物も精霊も、世界のただ一箇所に集められた。
精霊王は人が暮らすための町を造り、ひとまとめと、精霊の言葉でその意味を持つ、アルソリオと名付けた。
そして人々の間を片手で一掬いして拾い上げた人たちに『知識を使わせて欲しい』と言って、彼らのために巨大な宮殿を用意した。”
この話は、ジェニマスの家に伝わる本に書かれていたものだ。ペルシュの家にも本はあるが、内容は違っている。
(誰かと本の話がしたいな)
本というのは面白くて不思議だ、字がわからないと何も起こらないのに、字がわかった途端に誰かが語りかけてくる。
それなのに、興味がある人は少ない。みんな、ジェニマスやペルシュみたいにお互いの家に伝わる話を見せあったりしない。それどころか、字を教わることもしない。
「...おい、起きてるか?」
気がつくと、トゥヴァリが戻って来ていた。
「ねえ、アルソリオが出来た時の話って知ってる?」
「知ってる。大精霊アンズィルを大精霊セレニアが封印したってやつだろ。行こうぜ!」
「えっ、何それ!」
身軽になったトゥヴァリはペルシュの声などお構いなしに、大階段を駆け上がって行く。ペルシュは後を追った。
階段を上りきると、広場がある。真ん中には両手を水を掬うように差し出した少女の像が立っている。ここは宮殿の広場と呼ばれる。一年に一度の“大精霊セレニアに感謝を捧げる日”にみんなで来る場所だ。
その向こうには、白い宮殿が佇んでいる。正面には固く閉ざされた大扉が見える。その両脇に続く窓と柱が、遠く霞む先まで規則正しく並んでいる。
町を見下ろすと、家々の屋根の先に、高い壁が見える。白い壁と白い宮殿は繋がっていて、この町を囲んでいる。
“――ここより他に世界はなく、このアルソリオにあるものが全てである。“
「こんな大きいの、どうやって開けるんだ?」
トゥヴァリは硬くて冷たい瑠璃色の扉に触れ、肩をすくめる。ペルシュは窓に近づいて、中を覗いてみた。
「そうだなあ」
窓から見える廊下の床は、宮殿の屋根と同じ色をしている。壁に大きな絵がいくつも飾られているが、窓越しではよく見えない。
「おい、離れろ。扉が動いてる!」
トゥヴァリに言われて、ペルシュは慌てて窓から顔を離した。
「アイピレイス様だ」
二人はホッとして顔を見合わせる。
扉から出てきたのは、真っ赤な帽子に真っ赤な服を着て、真っ赤な靴を履いている背の高い男性だった。隠れるのをやめて出て行くと、彼は二人に気がついてすぐに笑顔になった。
「やあトゥヴァリ、それに、ミスラとフラーシュの子どものペルシュじゃないか」
宮殿に住む賢人の一人、アイピレイスは、黒くて短い顎髭に触れながら唸る。
「うーん...二人が友人だとは知らなかった」
「昨日友達になったんです」
「素晴らしい!確かにペルシュとなら、気が合いそうだ。どうして私は気が付かなかったのだろう。いや、しかし、こうして二人は私の手を借りずとも友人になったのだ。それに何の問題があるというのかね?」
トゥヴァリとペルシュに向けたような、または独り言のようなことを言う。ペルシュもつられて自分のアゴに触れる。
「アイピレイス様は何でいつも悩んでいるのですか?」
ペルシュは聞いた。横でトゥヴァリが「えっ」と小さく声をあげる。
「それは、私が、君たちに少しでも幸福を感じて生きて欲しいと思っているからだ……おそらくは」
「他の賢人様は何をしているんですか?」
「うーん、広い宮殿で、好き勝手しているからね。何をしているのだろうね。しかし、お互いのことは気にかけないと決まっているのでね。でもそれぞれに役割はある。そう、私にも役割がある。では二人とも、仲良く遊ぶのだよ」
「ありがとう、アイピレイス様。さようなら」
ペルシュは階段を降りていくアイピレイスを見送った。
「アイピレイス様とお話するのって楽しいよね。いつもうーん、って」
「お前って、すっごいな。怖いもの知らず」
「ねえ、もしかして、扉から入っても気づかれないんじゃないかなあ?アイピレイス様が他の賢人様に会わないと仰っていたし」
「アイピレイス様が優しいからって、他の人達も優しいとは限らないぜ?」
「そうかな。きっと優しいよ」
ペルシュは瑠璃色の扉の前に立つ。深い青色のところどころに、金色の粒が散りばめられている。
「夜空の星みたい。なんて綺麗なんだろう」
(精霊王セレニアに会ってみたいな。町や宮殿を、どうやって造ったか聞いてみたい。伝説のことも、もっと知りたい。賢人様のことも、トゥヴァリのことも……)
ペルシュがそっと扉に触れると、小さく擦れる音を立てて、簡単に動いた。
「え?」
二人は驚いて顔を見合わせた。
「ど、どうする?」
扉はちょうど子どもだけが入れるくらいの隙間を開けて待っている。
「も、もちろん入るよ、行こう!」
ペルシュとトゥヴァリは、慌てて中に入り込む。後ろで扉が勝手に閉まった。
暗い部屋だった。
「何で開いたんだろう?」
「アイピレイス様が出られた時、ちょっと開いてたんじゃないか?」
トゥヴァリは扉に内側から触れた。今は開く気配がない。
中は広くて、天井も高い。部屋の真ん中にある階段を示すように、白い光が淡く光っている。
(精霊?)
点滅している。
しかし、全く揺らぎもしなければ、漂うこともない。
「誰かいますか...?」
ペルシュは恐れを紛らわすように言った。反響して微かに戻ってくる自分の声が、不気味でいて面白くもある。
「おい、あっちに行こうぜ」
トゥヴァリが指差す方も、微かに明るくなっている。
床は柔らかい感触だった。部屋の端までやって来た。その先は廊下になっていた。
白い石の床の真ん中に、赤い絨毯が敷かれている。並んでいる窓の向こうには、宮殿の広場と精霊王の像が見える。
「見て!」
顔を上げると、天井いっぱいに絵が描かれていた。蛇や猿、狼、鳥に、馬。その中心に、夜空の色をした髪がどこまでも広がっている少女の姿。
これは、アルソリオの伝説の、はじまりの物語を描いた絵だ。
「……すごいや。誰が描いたんだろう」
ペルシュは声を震わせる。
「何だ、あれ?」
トゥヴァリが見ているのは廊下の先だ。天井も壁も柱も床も、吸い込まれそうに黒く、表面が水のように煌めいている。足を着いても濡れないが、落っこちそうで緊張する。
「うわあ、すごい...」
金色の粒が散りばめられている。手で触れるのはひんやりとした表面だけで、奥の深みには進めない。
瑠璃色の扉も星のように綺麗だと思った。あれが夜空の絵だとしたら、ここはまるで本当に空の中に放り込まれたようだった。
「おい、扉があるぞ」
四角い扉だけが異質な薄灰色で、そこだけ時が止まったように見えた。なぜ、こんなものがあるのか。一瞬、混乱する。
扉には縦に細長い窓のようなものがある。透明じゃないので中が見えない。手のひらを離すと手の跡が残ってしまい、ペルシュは慌てて服で磨いた。
「開かないな。もっと奥へ行ってみよう」
トゥヴァリがほとんど声を出さずに言った。
不思議な廊下が終わると、また赤い絨毯の敷かれた白い床の部屋があり、突き当たりになっている。
上へ行く階段と、下へ行く階段がある。下へ行く方は、暗くて先が見えない。冷たい空気が流れて来るのを感じる。
二人は上へ行く方を選んだ。今までと同じ廊下。何の変哲もない木製の扉があった。
トゥヴァリが取っ手を掴むと扉は軋む音を立てて開いた。あまりにも普通に開いたので焦ったけれど、部屋の中には誰もいなかった。
艶やかな深い茶色の木の床に、緑の絨毯。部屋の中に階段があり、三階まである部屋の中は本が詰まった棚で埋め尽くされている。大きな窓には薄い布が左右に分けてかけられている。
窓の横には小さな机が一つあり、羽根飾りのあるペンが置かれていた。
「わかった!きっと、アイピレイス様の部屋だ」
トゥヴァリは言った。
ペルシュは部屋中を見回し、感嘆のため息を漏らした。本を一冊、手に取ってみる。
「うわー、何これ!何だろう?」
線で何かが描かれている。
「これは乗って移動するもの」
「! 何で知ってるの?」
「アイピレイス様が家に来た時に、同じ絵を見せてもらった事がある」
「ええ、良いなあー! アイピレイス様が家に来るなんて!」
「……普通は、来ないのか?」
トゥヴァリは驚いている。と同時に、嬉しそうにも見えた。
「そろそろ行こう」
キイ、と蝶番の鳴る木の扉を恐る恐る開け、廊下が静まり返っていることを確認してから、二人は外に出た。
廊下を歩いて行くと、大きな窓があった。
ちょうど、宮殿の広場の真上にあるらしかった。下を見ると精霊王の像が真ん中に立っている。
「うわあ、見て!ねえ!壁の向こうが見える!」
ペルシュは感嘆の声をあげた。
トゥヴァリも窓にへばりつくようにして外を見た。西の林は壁の向こうも木が生えている。畑がある東の壁の向こうにも森がある。
「...外にも林がある!見ろよ、こっちだ」
「すごい!本当にあるんだ、何もない世界が!」
興奮して、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、
「もしかしてあれは、海じゃない?大精霊ファムレがいるかもしれない!」
正面の地平の先を指差す。
なんて素晴らしいものを見つけたんだろう。ペルシュは満足だった。これが冒険というものなんだ、何かを見つけるってことなんだ――。
そう思ったら、途端に帰りのことが心配になる。今度は誰にも見つからないように宮殿から出なくてはいけないのだ。
「もう良いだろ。行こうぜ」
トゥヴァリも同じことを考えていたようだ。
しかし、ペルシュは戻る道ではなく、先の廊下を見つめた。
「死者が運ばれる部屋は、どこにあるのかな」
「ししゃ?」
「ジェニマスじいさんが死んじゃったんだ。昨日、赤い精霊が来て。死者は宮殿に運ばれるでしょ?どうなったのか知りたいんだ」
「しんじゃったって、何?」
「死ぬっていうのはね、順番が来て動かなくなること。もう声も出さないし、ご飯も食べない。そうなった人を死者って呼ぶんだ」
「...」
「死んだ生き物は、食事になるんだよ。でも人間は人間を食べないから、どうなるのかわからないんだ。だからそれを知りたかったんだ」
トゥヴァリは「ふうん」と頷いたが、顔には理解できない様子が浮かんでいる。
「...そんなこと、何でお前は知ってるんだよ」
「何でトゥヴァリは知らないの?」
ペルシュは不思議に思った。トゥヴァリはペルシュの知らないことを知っているのに、普通の子供が当たり前に知っていることは知らない。
親に教えられたというより、話題に出せば、兄が、姉が、ジェニマスが、時にはレニスやほかの子供たち、誰
かしらが答えてくれることだった。
トゥヴァリがまた機嫌が悪くしたようだった。ペルシュはだんだん、その理由がわかってきた。
自分だけがルディだということ――親がいないことを、すごく気にしているのだ。
ペルシュとトゥヴァリは先へ進んだ。
赤い絨毯の廊下。壁には、小さな窓が並ぶ。窓と窓の間に石柱が立っている。石柱の上には様々なものを象った像が置かれている。
「たぶん鳥だよ。こっちは蛇。これは……猿?」
「本物が石になったんじゃないよね?」
ペルシュは石像に触れる。ぐぅ〜、と鳴き声のようなものが聞こえた。二人は顔を見合わせる。トゥヴァリが笑いを堪えて、変な顔をしていた。
アイピレイスに会ってから、もうかなりの時間が経っていた。日も暮れかけ、夕食の時刻が近いはずだ。早く死者の部屋を見つけて外に出なければ。アイピレイスも戻ってくるだろう。
「もう見飽きたな……赤い絨毯に石像、そして窓、窓、窓」
いくら進んでも、景色は変わらない。部屋の扉もなく、煌めく廊下や天井画のような装飾も現れない。
窓の外には木々が、その間に広場の精霊王の像が見えていた。
「戻ろうか。その方が早いかも……」
死者の部屋はまた今度くれば良い。
しかしトゥヴァリは、立ち止まった。窓の外を見つめて動かない。ペルシュは不思議そうに声をかける。
「疲れた? お腹が空いたね」
「ちょっと待て……何で地面が横に見えるんだ? 階段を降りてないよな?」
トゥヴァリの顔は青ざめて見えた。廊下は突き当たりになった。曲がるとまったく同じ廊下が伸びている。再び窓の外を確かめた瞬間、二人の背筋を冷たいものが這い上がった。
「何で……同じ景色!?」
毛穴が総立ちになり、胸がぎゅっと縮む。声を出そうとしても喉が固まって動かない。
二人が声を絞り出すより早く、背後から別の声がした。
「そうだね。ちゃんと決まった席につかないと、食事はもらえないよ?」
二人は同時に振り返った。
そこにあったのは――大きな絵だった。精霊王の像が立つ広場を描いた、色鮮やかな絵。
だが次の瞬きで、それはもう「絵」ではなかった。
足元を風が吹き抜け、木々のざわめきが耳に届く。
二人はその場所に立っていた。
絵と同じ景色の広がる、階段を上りきったばかりの宮殿の広場に。
風が吹き、木々の葉がさやさやと揺れていた。
「おやおや。君たちは、まだここで遊んでいたんだね?」
聞き慣れた落ち着いた声。
振り返ると、赤い帽子の男――アイピレイスが立っていた。
「精霊たちが探しているよ。うーん、でもここにいたなら、すぐ見つけられるはずだがね?」
と、とぼけた調子で顎髭を撫でる。
「さあ、しっかり食べておいで。君たちは栄養をつけるのが仕事なのだから」
そう言って、アイピレイスは精霊王の像の向こう、瑠璃色の石の扉へと向かった。
▪︎
二人の子どもが消えると、廻り廊下の魔法は解かれ、本来の姿に戻っていた。
床に自分の体ほどもある額縁を立てかけ、姿を現したのもまた一人の子どもだった。
「君も、人に見られたくないと思うことがあるんだねぇ」
先ほど迷い込んだアルソリオの子どもたちよりも少し幼い姿をした――ルヨが言った。
赤い絨毯の廊下とは、全く違う部屋だった。大理石の床が冷たく艶めいている。日が落ちた今、天窓からの光は弱く、壁の燭台に灯った蝋燭の火が仄かに揺らめいていた。
ぺたり、ぺたり。
少女の足裏が床から剥がれる音だけが響く。ルヨの言葉には答えなかった。
十五、六の少女だった。
あどけない顔立ち。長い睫毛と高めの鼻。外光を受けて白い肌が輝き、歩くたびに黒髪が揺れる。
白に金箔を施し、狼犬の装飾が前に立つ者に食らいつかんとする、豪奢な両扉の前で彼女は止まった。
身につけていた白い服は、少女が脱ぎ捨てた瞬間、ただの見すぼらしい布切れに戻った。
少女は扉を開け、部屋に入り、背後で扉が閉まる音を聞きながら膝を折った。
額と手を床にぴたりとつける。
「私は謝罪します。人々を傷つけ、尊い命を奪い、貴方の兄を殺しました。彼らの痛み、悲しみを一時も忘れることはありません。
私は贖罪します。過ちを繰り返さぬよう、己に出来ぬ戒めに、貴方の手を借りて罰を受けます。
私の名は精霊王セレニア。貴方の願いを、必ずすべて叶えます」
小さな声は震えていた。
部屋には一人の男がいた。
装飾のない空間、ただ床を高くした場所に置かれた肘掛椅子。そこに大きな身体を沈め、粗い髭を生やした男が座っている。
薄茶の瞳は不機嫌そうに、冷たく彼女を見下ろした。
鼻をつく匂いと酒の臭気が入り混じって充満している。
部屋の隅には、木と布でできていた「何か」が壊れ散乱していた――。
蝋燭の半分が溶け落ち影が色濃くなる頃、狼犬の扉が再び開いた。“何”だったかわからないものが這いずり出てきた。黒か紫の色をしたそれが動いた後には、茶褐色の痕が残る。
扉が閉まると"それ"は、小さく呻き声を漏らす。何の言葉を発せたわけでも無いが、命令を与えるのには充分だった。
少女は怠そうに床の布を拾い、身体に巻き付けた。
「百年間毎日そんな事を繰り返していて、よく飽きないよね」
「...」
少女は虚な目を床に向けたまま、ぺたり、ぺたり、重い足取りで、宮殿の奥の自分の部屋に戻って行った。
「あんたも悪趣味ね、ルヨ」
すれ違いにやって来たのは、女性。腰までうねるブロンドの髪。薄い寝巻きの上に白衣を羽織っている。
数ヶ月ぶりに起きたので寝ぼけて出てきたようだ。
「おはよう、ハーヴァ。君も彼女のことが気になるんだね。起きた日は必ず様子を見に来てる」
「...そうじゃないわ。私が安全かどうか、確認しに来ただけよ」
ハーヴァは白衣の袖の中で、爪が肌を抉るほどに腕を抱き締める。
「僕はね、この部屋で起きることがよくわからないんだ。だから観察する必要があるのさ」
「脳みそまでお子様で止まっているわけ?三百年も生きているくせに」
「じゃあ君の脳は、もうおばあちゃんなんだね」
ハーヴァは目を引くつかせ、唇を噛み締める。それでも腹を立ててどこかへ行かないのは、ルヨが貴重な話し相手だからだ。
「そろそろ新しいのに変えるべきかな」
何の脈絡もなく、ぽつりとルヨが言う。ハーヴァとの皮肉の応酬など、何の時間でもなかったかのように。
ハーヴァは一瞬びくりとしたが、ルヨの視線はハーヴァを通り越し、廊下の奥へ向かっていた。
「そ...そういうことは...新しいものが用意できてから言って」
独り言だとわかっていたが、ハーヴァは無理やり自分の存在を意識させようと言葉を重ねる。
それは成功し、ルヨは微笑みをハーヴァに向ける。
「君が古いものが好きだものね。ああ、そういえばさっき君の五十二番目の子どもが来たよ」
「そう。来たって...ここに?」
「外の広場さ」
「ふうん...いつ産んだのだったかしら」
ハーヴァは肩を竦める。
「一番新しいやつだよ」と、ルヨは言った。
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