第30話 ただ、それだけのことさ
風見先輩の『体育祭・藪の中』案は、満場一致で採択された。 かくして、各自が自分の担当パートの執筆、あるいはあの日の思い出の『分析』を始めることになった。
……なったのだが。
俺は、自分の担当パートを見て、いきなり頭を抱えた。
『担当:軽井沢 / テーマ:『編集長の胃痛』の視点から(なぜこうなったのか)』
「……これ、俺の愚痴を書けってことかよ!?」
どう書き出せばいいのかわからず、俺はヒントを求めて、このカオスな企画の提案者である風見先輩を観察することにした。
……だが、その前に、俺は自分の両隣の『胃痛の原因』をどうにかしなければならなかった。
「軽井沢くん。『胃痛』の合理的分析だが、まずは津島の『非合理』な行動(クッキー贈呈など)が、君のストレスにどう影響したかを……」
「……あ、編集長さん……。私の『救済』のパート、ここの心理描写……。編集長さんのことを考えて書いたんだけど……どう、思う……?」
黒江先輩と津島先輩は、相も変わらず俺を牽制しあっている。
(……ダメだ、この二人、俺のことしか見てない)
俺は、その二人を「あー、はいはい、後で読みます」と適当にあしらい、ふと正面の席に座る風見先輩に視線を戻した。
彼女は、いつも通り窓の外を見ながら、文庫本を開いている。
……ん? 俺は、そこで最初の違和感に気づいた。
いつもなら、机の上にあるのは『ノルウェイの森』か『羊をめぐる冒険』……などの村上春樹作品のはずだ。
だが、今日開いている本の背表紙には、カタカナで『長いお別れ』と書かれていた。レイモンド・チャンドラー?
しかも、その本を読んでいるフリをしている。さっきから五分以上、ページがめくれていなかった。
さらに、奇妙なことがあった。 いつもはスマホなど見向きもしない彼女が、時折、机の下で俺たちから見えないようにスマホの画面をチェックしている。
そしてその画面を見るたびに、小さく深いため息をついている。
(……どうしたんだ? あの完璧な傍観者が、明らかに動揺してる。あの『白い毛』といい……)
◇
〆切まではまだ時間がある、ある日の放課後。
部室では、俺と黒江先輩の『合理的分析』とやらが、今日も白熱していた。
「だから、その『胃痛』の合理的解釈が、体育祭の『非合理』性に繋がると言っているんです!」
「君のその短絡的な結論こそが非合理的だ!まず『胃痛』の発生機序を分析しろ!」
「……ふたりとも、元気……」
「フン! くだらん!」
津島先輩と楯野先輩が、俺たちのもはや日課となった論争をBGMにしている、その時だった。
「やれやれ」
静かな声がした。 声の主は、風見先輩だった。俺たちの論争が最高潮だというのに、彼女は珍しく一番にカバンを持った。
「あれ、先輩、早いですね。もう帰るんですか?」
俺が声をかけると、風見先輩は、こちらを振り返らずに肩をすくめた。
「やれやれ。完璧な夕焼けだ」
彼女は、窓の外……その向こうにある、学校の裏手の路地裏の方向を、じっと見つめている。
「少し、『散歩』でもしようかと思ってね。失くした何かを探すみたいに。……じゃあ、お先に」
彼女は、いつもの余裕はなく、どこか焦っているようにも見えた。 俺たちの返事も待たずに、足早に部室を出ていってしまう。
その黒いポロシャツの背中がドアに消える瞬間。俺は、はっきりと気づいてしまった。
昨日よりも明らかに多くの「白い毛」が、彼女の肩や背中に、びっしりとついている。
(……なんだ、あの毛。昨日より増えてる……?)
◇
「……はぁ」
部活が終わり、俺は今日も、左右で繰り広げられた黒江先輩と津島先輩の『合理的分析』VS『救済』の牽制合戦にすっかり疲弊しきっていた。
いつもの道を通る気力もなく、なんとなく、違う道から帰ることにした。
学校の裏手。
普段は誰も通らないような、古いブロック塀が延々と続く、薄暗い路地裏。 夕暮れの赤と、影の青が混じり合う、そんな場所。
「……レノン……」
不意に、聞き覚えのある声が聞こえた。
風見先輩?
いや、でも、いつもの余裕ぶった声色とは違う。
どこか、切実な響きが混じっていた。
「……どこだ……。やれやれ、完璧な隠れ場所なんて、存在しないはずだが……」
俺は、ゴクリと唾を飲み込み、音を立てないように、ブロック塀の角から恐る恐る向こう側を覗き込んだ。
そこには。
「……」
俺は、自分の目を疑った。 いつもクールな風見先輩が、路地裏の真ん中で、学ランのまましゃがみこんでいた。
その手には、コンビニで売っている猫のエサの袋。
彼女は、その袋をシャカシャカと振りながら何かを呼んでいた。
「……レノン。出てきて」
彼女は、俺に気づかず、独り言を続ける。
「君のいない世界は、BGMのないバーみたいに静かすぎる……」
俺は、その光景に何を言うべきか迷い……結局、思ったままを口にしてしまった。
「……風見先輩。……なにしてるんですか?」
ビクッッ!!
俺の声に、風見先輩の肩が、俺がこれまで見たこともないほど、大きく跳ね上がった。 彼女は、まるでコマ送りのスローモーションのように、ゆっくりと振り返る。
その顔は、いつものすべてを見透かしたようなポーカーフェイスではなかった。 明らかに『見られた』という、純粋なパニックと焦燥に染まっていた。
だが、彼女女が俺だと認識すると、いつもの仮面を被り直した。
「……やれやれ、君か」
彼女は、わざとらしくため息をつく。
「……完璧なタイミングで現れる。まるで探偵小説の結末みたいにね」
「『レノン』って……誰です?」
俺は、彼女の無理やり感のある返しには乗らず、単刀直入に聞いた。
風見先輩は、俺の視線が猫のエサの袋に向けられていることに気づくと、観念したように、ふう、と息を吐いた。
彼女はあくまでクールを装ってゆっくりと立ち上がり、学ランの膝についた土と、肩についた「白い毛」を払った。
「……猫さ」
彼女は、夕焼けの赤い光の中で、短く告白した。
「僕が勝手に『レノン』と呼んでいただけだ。この辺りをうろついていた、古いセーターみたいに毛並みの悪い……」
彼女は、そこで一度言葉を切り、まるで遠い昔を思い出すかのように目を細めた。
「……だが、悪くない野良猫だ」
「……」
「完璧な猫なんて存在しない。完璧な飼い主が存在しないようにね」
彼女はそう言って、再びカリカリの袋をシャカシャカと鳴らした。
「……それが、ここ数日、姿を見せない。ただ、それだけのことさ」
その声は、いつものように淡々としていたが、隠しきれない寂しさのようなものが、秋の冷たい空気の中に滲んでいた。
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