第31話 ハードボイルドとは、程遠いだろ?
ザアアアア……。
秋の冷たい雨が、朝からずっと窓ガラスを叩き続けている。
部誌の〆切が数日後に迫っているというのに、部室の空気は、この天気のようにどんよりと重かった。
「……」
俺は、自分の担当の原稿とにらめっこするのをやめ、部室を見渡した。
楯野先輩は窓際で不機嫌そうに腕を組んでいる。
黒江先輩と津島先輩は相変わらず俺の左右を固めてそれぞれの原稿に向き合っている。
だが、企画者であるはずの彼女がいない。
「風見先輩、休みか……。この〆切間際に、珍しいな」
俺がポツリと呟くと、右隣の黒江先輩が俺の原稿から顔を上げた。
「合理的ではないな」
彼女は、この前の自分の風邪を棚に上げて冷静に分析する。
「企画者自身が、〆切前に体調管理の失敗か?……実に非合理的だ」
「……あの……」
今度は、左隣。 津島先輩が、おずおずと顔を上げた。
「……昨日、LINEしたけど……返事、ない……」
彼女は、不安そうに自分のスマホを見つめる。
「返事がない?」
津島先輩の言葉に、俺はハッとした。
俺の脳裏に、あの路地裏での光景がフラッシュバックする。
『レノン……どこだ……』
あの、いつになく切実だった声。 彼の肩についていた、無数の『白い毛』。
(……まさか。あの猫、まだ見つかってないのか?)
(だとしても、あの風見先輩が、〆切を破ってまで休むか……?)
俺は、窓の外を激しく叩きつける、冷たい雨を見た。
(……いや、待てよ。……今日は、雨だ)
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
(あの人、まさか……この雨の中、まだ……!?)
「っ!」
俺は、ガタリと椅子を立てて、勢いよく立ち上がった。
「!?」
「ひゃっ!?」
俺の突然の行動に、左右の黒江先輩と津島先輩が(同時に)ビクッと肩を震わせる。
「ど、どうした軽井沢くん」
「……編集長さん……?」
二人の何事かと詮索するような視線が、俺に突き刺さる。
「あ、いや、ちょっと野暮用を思い出しました!」
俺はその視線から逃げるように、部室の隅に立てかけてあった自分の傘を掴んだ。
「すみません、ちょっと抜けます!」
俺は二人の返事も聞かず、そのまま部室を飛び出した。
◇
ザアアアアア―――ッ!
部室を飛び出した俺は、持ってきた傘をバッと開き、一直線にあの路地裏へと走った。
冷たい秋の雨が、バケツをひっくり返したように降りしきり、自分の荒い息遣いも、叩きつけるような雨音にかき消されていく。
そして、あの角を曲がった瞬間――俺の最悪の予感は的中していた。
「……」
そこに、風見先輩がいた。
傘も差さずずぶ濡れになりながら、一人で何かを探し続けている。
彼女はもう、あの『カリカリ』の袋も持っていなかった。
ただぼうぜんと、雨に打たれながら路地裏の奥の暗闇を、見つめている。
いつも余裕を浮かべているその背中は、今は雨に打たれて小さく、震えているようにも見えた。
そこには、ハードボイルドな傍観者の姿はなく、ただ、大切な何かを失って途方に暮れる、ずぶ濡れの少女が立っているだけだった。
「風見先輩!」
俺は、傘を彼の上に差し出すのも忘れて、息を切らしながら駆け寄った。
「こんなところで何してるんですか!ずぶ濡れじゃないですか!」
俺の焦った声に、風見先輩の肩が、ビクッと大きく震えた。
彼女は、まるで見つかってはいけないところを見られた子供のように、ゆっくりと振り返る。
その顔は冷たい雨に打たれ続けたせいか、あるいは絶望のせいか、真っ白だった。
「……やれやれ。見つかったか」
彼女は、いつものハードボイルドな仮面を無理やり顔に貼り付けようとした。
だが、その声はかすかに震えている。
「……君には、関係ないことさ」
彼女は、俺の差し出しかけた傘から目をそらす。
「僕はただ、雨の日の散歩が好きなだけだ」
「嘘つかないでください!」
俺は、雨音に負けないよう、叫んでいた。
彼女のその、あまりに痛々しい「傍観者」のフリに、我慢がならなかった。
「『レノン』なんでしょ!あの猫、まだ見つからないんですか!」
「レノン」という名前。
そして、息を切らし、自分のことを本気で心配してずぶ濡れになっている、俺のまっすぐな眼差しに。
風見先輩の『仮面』が、ヒビ割れた音がした。
風見先輩は、俺の真剣な眼差しから逃れるように、ふらりと、雨が叩きつけるブロック塀に、ずるずると背中を預けた。
ずぶ濡れの制服が、壁に擦れる音がする。
「…………昔ね」
彼女の声は、いつものクールな響きを失い、雨音に消え入りそうだ。
「僕には、完璧な相棒がいた。……猫じゃない、人間だ」
「……え……」
「僕は、いつだって『傍観者』だった」
彼女は、自嘲するように笑う。
「彼がクラスの連中に追い詰められている時も……僕は、いつものようにチャンドラーの本を読んでいた」
彼女の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。 ―――教室の隅。助けを求めるように、だが何も言わずにただじっとこちらを見ていた、かつての友人の顔が。
「それが『ハードボイルド』だって……。本気で、思ってたから」
声が、震えている。
「……次の日、彼は転校した」
「……」
「僕は、何も言えなかった。最後まで」
彼女は、そこで言葉を切り、悔しそうに唇を噛んだ。
「……『完璧な傍観者』は……完璧に、相棒を失ったのさ」
風見先輩は雨に打たれながら、自嘲するように力なく笑った。
「……僕は、『傍観者』なんだ。ずっとそう決めてた」
「……」
「完璧な距離感で……誰も傷つけず、僕も傷つかない。……それが、僕の……ルール、だったんだ」
彼女は、雨で冷たくなった自分の手、その震える指先を、じっと見つめた。
「……でも、レノンは……僕のルールを破ったんだ」
彼女の声が、雨音の中でわずかに潤む。
「勝手に……人の膝の上で……眠って……僕の、ルールの中に……入ってきたんだ」
雨が、彼女の頬を伝うのが、涙なのか雨なのか、もう分からない。
「…………そして、また……いなくなった」
風見先輩は、ついに顔を上げた。 ずぶ濡れの長い髪が、真っ白な頬に張り付いている。 まるで助けを求めるような、迷子の子供のような目で、まっすぐに俺を見た。
「……僕は……ただ……また『失う』のが……怖いだけなんだよ」
その声は、俺が知っている風見先輩の声とは似ても似つかない、弱々しい「少女」の声だった。
「…………ハードボイルドとは、程遠いだろ?」
俺は、いつも完璧な傍観者だった先輩の、あまりに人間的で、弱すぎる本音に、何も言えなかった。 ただ、雨音だけが、ずぶ濡れの二人の間で、激しく響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます