第18話:それからのこと


 ――一週間後。


 消毒液の匂いが仄かに香る。その個室には簡素なベッドと、同じく簡素な机しかない。それがノイに与えられた病室である。ノイが事情聴取と身体検査のフルコースから解放されたのは、彼女がザバービアに帰って一週間の事だった。隔離病棟から一般病棟のベッドに移されて、ようやく彼女は一息を吐けた。経過観察中の為病室を出る事は出来ないが、それでも一週間前より医療スタッフがやって来る回数は少ない。それだけで遥かに安らげた。現在のノイはというと、ベッドの上で病室の窓から外の景色を眺めていた。


「ナヴァロンから三ヶ月……三ヶ月か」


 ぽつりと呟いた三ヶ月という単位。個室に備え付けのカレンダーを見ても実感が湧かず、ただ茫漠とした疎外感だけが募っていく。記憶は朧げだ。ナヴァロンに自分の意識を接続したまでは憶えている。それ以降は果てしない虚無。記憶は霞がかかり、思い出そうとすると濃く立ち込めていく。……でも、実は少しだけ憶えてる事が一つだけだった。


『な、俺の言った通りじゃないか――レオパルド』


 聞き覚えの有る声で言われるその名前。いつかの物と僅かに違う肌の感触。目覚めた直後にグラハムが見舞いにやって来た時、彼は皆無事だと言った。イェサナドも、ピーターも、そして当のレオパルドすらも。自分を保護したのは皆だという事も教えられた。しかし、それならアレは一体誰なのだろう。もしかしたら、何もかも幻覚だったのかもしれないと一瞬思った。実は何もかもが幻覚で、本当はグラハム含め誰もナヴァロンから帰っていなかったのではないか。ノックが響いたのは、その考えに没入していく矢先だった。


「はい、誰?」


 点滴付きのカートをカラカラ鳴らし、彼女がドアを開くと――


「よぅ久しぶりだなぁ、ノイ!」


 その青年の事をノイは知っている。金色の髪にゴーグル、蒼い異次元ローブ。青紫の瞳。両手に持った紙袋に入ってるのは、恐らく彼オススメの漫画やDVD。ピーター・レイ・ウィリアムズは、彼女が最後に見た時とほぼ変わらずそこにいた。


「割と元気そうだな! ほら差し入れ、退屈してると思って適当なヤツを持ってきた! 今夜はお前を寝かさないぞ?」


 その声、その顔、身体から漂う匂い。それは幻では無い。……途端、彼女はぺたりと座り込んだ。


「おい、どうした! 大丈夫か?」

「え、あ……ピーター?」

「ごめん、グラハムから聞いた話だと大分調子が戻ったって聞いたからつい……出直すよ」 


 そう言って彼は腕の物を床に置くと、彼女の体を抱き上げベッドに戻そうとした。すると……。


「待って!」


 ノイはピーターの腕を握り締めた。強く、青い袖に皺が着く程に。ピーターの鼻は思わず仄かなレモンの匂いを嗅ぎ取った。


「ピーターとまた会えて嬉しいの、さっきまでちょっとと嫌な事考えてて。私……全然大丈夫だから」

「何かあったか?」


 ノイは少しばかりピーターを抱きしめる力を強める。何かに縋り付く様に。


「あのね、私実はもしかしたら皆ナヴァロンで帰らなかったかもしれないって思ってたの。皆死んじゃって、この前お見舞いに来てくれたグラハムさんすらも実は夢や幻覚なんじゃないかって。そんな事ありえないよね。……ありえ、ないよな? おれが見てるのは、ちゃんと現実だよな?」


 言葉の端々に彼女の地が覗き始める。次に震える身体と右肩がしっとりと濡れる感覚が伝わる。それに対しピーターは一度溜息を小さく吐いた後ノイの身体を抱きしめる。


「大丈夫だノイ。皆無事だ、ちゃんと現実にここにいる」

「うん」

「お前はトゥルーマン・ショーには出ていない、クラス:リアルにも行ってない、マトリックスにも接続してない――これは紛れも無い現実の痛みだ」


 彼のその言葉の返事であるかの様にノイは強く強く抱きしめる。その尻尾もピーターの身体に絡んで行く。


「――また会えて嬉しいよ、ピーター。本当に無事でよかった……」


 ノイはカラカラになっていた自分の気力が溜まって行くのを感じていた。そしてノイは彼を放す。そして目元の雫を手で拭った後、変わらぬ笑みを浮かべた。

 

「ピーター、私今トイレの上の配管工にいるの」

「そうか、待ってろ今すぐ行く――着いた」

「ねぇ、待って。待とう、ピーター。――お願いだからそのロケットランチャー下げてくれよ、頼むお願いだから」

「おいおい、俺が着地狩りなんてそんな酷い事するかよ。怖がらずに降りて来いよ」

「本当? ……じゃあ、降りるよ」

「嘘ぴょーん」

「だぁあああああああ! お前何の躊躇いもなく速攻撃ちやがったな!? ピーターなんか大っ嫌い!」


 再会から一時間後、ピーターとノイは病室でTVゲームに興じていた。今泣いた烏がもう笑う、という様に既にノイの瞳に涙は無かった。ついでに先程まで湧いていた信頼感はたった今失せた。そんな中――


「……右手、大丈夫か?」


 ピーターの青紫の瞳が一点、ノイの右手を注視する。ノイは黒い手袋に覆われた手を顔の前に出すと、グーパーを二回繰返し。


「うん、大丈夫。全然動く」

「そうか、何かあったら言ってくれ――おら、その分お手手がお留守だぜ!」

「わ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”、せこいぞピーター! おれ、ピーターのそういう所嫌い!」

「どうもー、人でなしウィリアムズでーす! おら、これで2勝目だ!」


 怒声と笑い声が入り混じるゲームはしばらく続いた後、ノイの勝敗が8勝12敗になった所でようやく一時中断した。


「ピーター、あれ取って。グミみたいなヤツ」

「ちょっと待ってくれ」


 ノイが前髪を弄りながらそう言うと、ピーターは手甲を操作する。タッチパネルの画面に指を滑らせた。彼等の周囲には緑色の光が二十個程滞空しており、それぞれの上には様々なジュースや菓子が置いてある。ノイが指差した物は彼の指通りに動き滑らかに彼女の前に来た。


「それで皆は? イェサナドは?」


 グミを数個頬張り終えると、ノイはそう言った。


「グラハムとイェサナドは、ちょっと都合が悪くてな。今日は来れないけど近々顔を出すと言っていた」

「レオパルドさんは?」

「あぁ、無事だよ。昨日も女性用シャワー室を覗こうとして、ハムみたいに吊るされてた」


 そう言った裏でピーターはノイを回収した直後の事を思い出す。


『なら約束してくれ。この子には俺の正体をけして伝えるな』

『……兄弟、それで良いのか?』

『折角命からがら帰ってきたんだ、また更に重たい思いをさせる必要もないだろ』


 ピーターはけして納得していない。だが、彼女のこの笑みを見るとけして真実を言う気にはなれなかった。

 何の淀みの無いやり取りだった。少なくともピーターはそう思っていた。しかし、彼は三ヶ月の間で少し忘れている事が有った。……目の前にいる茶髪の少女は、彼が想定している以上に勘が鋭い事を。


「ピーター、何か有った?」

「いや。どうした?」

「ちょっとと元気が無いようだったから」

「そうか? 自分じゃ解らないもんだな」


 ――何かおかしい、と心の中でノイはそっと呟く。そこで彼女は少しカマをかける事にした。


「ねぇ、ピーター」

「何だ?」

「知ってた? ピーターって嘘を吐くと目を合わさないんだ」


 瞬間、ピーターは様子を一変させる。彼の目が見開くのを見て、ノイは空かさず言葉を続けた。


「嘘。でも、これで一つハッキリした」


 そう言って、彼女はピーターの手を掴むと硬く握り締める。続いて彼女はピーターを押し倒し、尻尾は即座にピーターの体に巻きつく。


「何を隠してるんだよ? 教えてくれるまで離さないからな」 

「何も隠してない」


 その声は何処か上擦ってた。


「言って! もし言わなかったら……」

「何をする気だ?」


 一瞬ノイの顔が止まる。


「……あ、後で考える!」

「お前って交渉に向かないな、ノイ」


 ピーターがそう言うと、彼女はその物言いに少しばかり怒りを覚える。そして咄嗟に彼女は切り札を切った。


「『な、俺の言った通りじゃないか――レオパルド』」

「…………何?」 

「実はおれ、一つだけ憶えてたんだ。あの時、あのレオパルドさんがそう言った事を。……でも本当にレオパルドさんだったら、こんな事言う筈無い」


 少女の青い瞳は、揺らぐ事なくピーターを見据える。


「ねぇ、ピーター。あの人は誰?」


 そう言うとピーターは数拍置いた後。


「言えない」

「もー、言えよ! 往生際が悪いぞ!」

「絶対に言えない。無理だ、兄弟と約束したんだ」


 既にこの状況では言っているのと同じだが、奇しくも二人とも気付いてはいなかった。その中でピーターの中で徐々に焦りが募っていく。


「言えってば!」


 ピーターは自分でも認識している通り、口が絶対に堅い方ではない。むしろこの様な状況であれば『ロクでもない予言者』が働き、熱した蛤の様に徐々に口は軽くなっていく。


「言えよピーター! 言うまで絶対にこの手は離さないぞ!」


 限界は直ぐにやって来た。時間にして数十秒あるかないかの内に、金髪の魔術師は目の前の少女と目を合わせて。


「だから、絶対に言えないんだ! 兄弟との約束で実はレオパルドはナヴァロンから行方知れずで、今いるレオパルドはウォルフっていうアイツのクローンで、ザバービアの一部以外全員アイツの正体を知らない事を! ましてやお前には言っちゃいけないんだ! だって兄弟はお前に余計な心配をかけたくないからって、俺達に口を閉ざす様に言ってたなんて! 他でもないお前には! 絶対に! 言っちゃいけないんだ!」

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