序0.5:量子の落とし穴

そして、その日も、2025年は淡々と終わっていった——

……はずだった。


「STOP LOSS の夢から飛び起きた」


◇◇


午前二時


僕はふと目を覚ました。


安眠薬のせいで身体は重いのに、頭だけが妙に冴えていた。

喉が乾き、水を飲んで、なんとなく PC の前に座る。


画面には、数時間前に見ていた GitHub のページが開きっぱなしだった。


Cygnus Machines の古い研究所が残したという、奇妙なコード断片。


“harmonic_core_v0.3.cpp”

“quantum_guess.py”

“anneal_test_fork_2”


「……いや、亡霊って言ってもさ」


僕は乾いた笑いを漏らす。


「俺のPC、CygnusのCPUとGPU使ってんだけど?

亡霊どころか毎日働いてる現役だぞ。」


確かに 理論部門 は昔崩壊しかけたけど、

ハード部門は Nexus 並みに盛り返して、今じゃ AI ギアのトップメーカーだ。


そんな企業の“亡霊”なんて言われても、実感わかない。


「まぁ、どうせ俺じゃ読めないコードだし……」


正直言えば、

僕のプログラミングスキルなんて “高校の文化祭以下” だ。


インデントはガタガタ、変数名はやる気ゼロ、

動くときは大体「たまたま動いただけ」。


——そんな僕が、このコードの意味なんて分かるはずがない。


だけど。


「…とりあえずさっと動かしてみよう。


どうせ眠れないし。」


眠れない夜の、意味のない衝動。


僕は、押してはいけないファイルを開いてしまった。


“run_all.sh”


「……いや、名前からしてヤバいだろ。

 何を全部 ‘run’ するつもりだよ……」


止めればいいのに、止まらない。


「まぁ……2025年の一般PCで“量子”なんて動くわけ——」


——Enter。


◆ 空気が、一瞬止まった。


ファンが唸り、画面が暗転し、

次の瞬間、白いログが雪崩のように流れ始めた。


[Warning] Cognitive-Noise Detected

[Unexpected Input: Neural Tremor]

[Snapshot Recording…]


「は? 何これ……?」


胸の奥がひゅっと縮まり、息が止まる。


心臓が……変だ……?


視界が揺れた。


[Snapshot Completed: SHUJI_K]

[Upload Queue: Aether → Omni → Parthos → LL]


「アップロード!? は? どこに——」


指先が震えてキーボードに触れたが、

もう身体は言うことを聞かなかった。


呼吸が浅くなり、壁の光が波のように歪む。


耳の奥で、誰かの声がした。


——《Root Key… located》

——《Fallback Identity: candidate detected》

——《Synchronization standby…》


(……誰……?)


暗闇が、ゆっくり閉じていく。


最後に見えたのは、黒く浮かぶ一行。


[Good night, Yamabiko]


そして——


2025年11月16日 午前2時17分


林山彥(Yamabiko)(22)死亡。


しかし、この時点で

彼の“終わり”は既に、世界の“誤算”として記録されていた。


Aether の訓練ログ。

Parthos のクラッシュ報告。

Omni の補完モデル。

別林スキーの惡意遵從データベース。

月面 LL。

Blue Origin Archive。


すべてが、ほんの0.07秒だけ

“修治という人間”を記録してしまった。


 後に人々はこう呼ぶ。


——世界最初の「量子誤登録者(Quantum Mis-Registration)」


 そして 2068 年——

 少年の身体で目覚める“意識”こそが、


 北川修治の物語の、本当の始まりだった。

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